ハイカラさんが通る

「娃子、これからは電気ミシンじゃ」


 ミシンの下見に行った絹枝から、電気ミシンと言う言葉が出た時にはちょっと驚いた。新しい家電製品を中々受け入れようとしない絹枝の口から、電気ミシンと言う言葉が発せられようとは…。


「どやって、使うん」

「それは教えに行きますから、それも込みのお値段となっています。心配いりません、若い方ならすぐ覚えます !」


 と、店の方も売り込みに必死だった。絹枝は決断が早い。五日後にはそのミシンが届いた。それは、八万円もする最高級ミシンだった。


「店の人が、お嫁入りですか、言うたわ」


 それくらい、このボロ屋に似つかわしくないミシンだった。家具調の四角い箱型のミシンで、イスも中にすっぽり収まる。当然カバーも付いているが、絹枝はその上からさらにカバーをかけた。

 店の人が使い方を教えに来てくれた。コントローラーを足で踏むタイプではなく「レバー」を右の膝上当たりで押せば動き出す。ジグザク縫いや穴かがりも出来る等、機能満載の慣れれば使いやすいミシンだった。その他、アイロンや洋裁道具も随時揃えてくれた。

 絹枝は娃子の欲しいものは無視するが、自分が必要と思う物には金は惜しまない。

 そして、肝心の洋裁学校であるが、既製服がまだ、すべての老若男女の要望に応えきれてない頃であり、洋裁学校も洋裁店も服地屋も至る所にあった。小学校の少し先に地味な感じの洋裁学校があり、そこに行くことにした。

 その話を牧子にした。すると翌日、娃子と一緒に洋裁学校に行くと言って来たのには、これまた少なからず驚いた。

 牧子は県立の女子高の被服科を卒業したばかりである。小さい頃から器用で人形の服を作ったり、絵も上手だった。何より被服科卒だから、洋裁は出来るのではと思ったが、一緒に通えることは娃子にとっても心強いことだった。だが、何と、そこには牧子の同級生もいた。被服科卒でも縫える自信はないのだろうか…。

 何はともあれ、娃子の洋裁学校生活が始まった。


 洋裁の基本は製図である。何と言っても、製図の通りに縫うのだから、製図が下手なら出来上がった服もおかしなものになってしまう。

 当然、製図から習う。縮尺分の原型を作り、色々なパターンの製図の引き方を学んで行く。

 そんな四月の中旬、娃子がまだ製図の引き方を学んでいる頃、絹枝の繁華街への買い物に付き合わされる形で、呉服屋に連れて行かれた。

 着物をうてやる。

 これから、娃子も着物が必要になって来る。さあ、いつでもうてやるぞとばかりに連れて行かれるのだ。

 バスを降りてすぐのところに老舗の呉服屋があった。娃子はこれが憂鬱である。別に、着物に興味がないわけではないが、着物でも洋服でも、いつもロクでもない柄ばかり押し付けられる。

 娃子がまだ中学生の頃、唐突に近くの洋裁店に連れて行かれた。そこの店主と何やら話の後、ウエストの採寸。そして、仕上がったのが紺のボックスプリーツのスカート。それを履いて学校へ行けと言う。

 中学の制服はブレザーにプリーツスカートと言う定番品であるのに、ボックスプリーツとは…。

 仕方なく、娃子はそれを履いて行くが、誰にも何も言われなかったのがせめてもの救いだった。制服のスカートなど欲しいと言ったこともないのに、今もってよくわからない。

 その次はワンピース。中学卒業後の事だった。銭湯の近くに服地屋があった。いつもは素通りの店でしかないのに、珍しく入ったかと思うと10分足らずの間に生地を選び、その足で例の洋裁店へと連れて行かれ、今度は体全体を採寸された。

 絹枝の決めたデザインは、襟はくり襟(ボートネック)ウエストから下はギャザーとここまでは少女向きと言えたが、袖はフレンチスリーブ。また、肝心の柄だが、白地に青いバラ模様と言う4・50代の人でも着れそうな地味さだった。

 翌年には呉服屋で浴衣地購入。仕立ては則子に頼んだが、その時、長男が言った。


「これ、赤が入ってる割には地味やなあ」


 そうなのだ。どう見ても十六歳の娘が着る様な柄ではない。絹枝は娃子の洋服に赤など以ての外だが、若い娘の着物となればやはり赤である。ここでも、娃子は浴衣が欲しいと言ったことはない。浴衣を作っても帯がない。あるのは子供の頃の帯でしかない。だが、買うのは絹枝である。結局、この浴衣は一度も手を通さず、後年、娃子の部屋着に仕立て直された。

 絹枝にしてみれば、七五三の着物はオヤのセンスを問われるが、今はもう、色柄など何でもいい。娃子に、あれうてやったこれ買うてやったと、触れ回りたいだけである。柄は娃子が選んだ。 

 

「娃子が、あれがええ言うたんじゃけえ」


 と、ついでに娃子のセンスの悪さを世間に知らしめてやる。そして、自分は本当のムスメでもないのに、あれもこれも買ってやる、出来たハハオヤであることをアピールしたいだけである。

 今もその辺にぶら下がっている、適当に赤の入った生地を掴んで言う。


「これ、買ええや」


 さすがに、この時は店の人が言ってくれた。


「これは、お嬢さんには地味すぎますっ」


 和服は洋服とは違い、型はみな同じであるから長い間着られる。とは言っても、年齢による色柄の移り変わりがあり、そこで、既婚女性はつい、地味な色合いを選び、少しでも長く着ようとする。

 当時は日常的に着物を着ている人もいた。あるオバサンが地味な着物を着ていた。五十歳過ぎの人だったが、娃子から見ても、この人はどうしてこんな地味な着物を着ているのだろうと思った。


「5年前にうたんじゃけど、そん時も地味じゃ思うたけど、これから年を取るんじゃし地味くらいでええか思うたんよ。それが5年経ってもまだ、地味なわ」


 つまり、十八で地味な着物は、三十になっても地味だと言うことである。それだけ時代は移り変わって行くのだが、絹枝は、娃子を憎々しげに睨みながら言ったものだ。


「なあに言やがれ。すぐ三十になるわ。女が年取るのは早いんじゃ。三十になったら誰も、言うてくりゃあせんけんのっ」


 どこの世界に、十八になったばかりの娘つかまえて、すぐ三十になるとのたまう者がいるか。ここにいた。

 絹枝にとっての、娃子はどうしようもないガキでしかなかった。それが気が付けば、とんでもない若さを手に入れていた。その若さが妬ましくてならない。これだけは、いくら娃子を殴ろうが罵ろうが、金でほっぺたを叩こうが、失った若さは取り戻すことも、取り上げることも出来ない。その負け惜しみから出た言葉である。そうでも言わなければ、この気が治まらない…。

 確かに、娃子に限らず、如何に若さを誇ろうとも、十八歳の娘もやがては三十歳になる。後、12年経てば…。

 この12年間をすぐと言い、すぐ三十になると言う言葉が意味を持って来るのは、ずっと、先のことである。



 やはり絹枝は心配だった。果たして、この娃子がどこまで縫えるようになるものやら…。

 だが、その心配はすぐに消えた。最初に縫ったのは自分のスカート。よく出来ている。絹枝はそれを人に見せて自慢した。それからは確実に縫えるようになって行った。

 次に縫ったのが絹枝のブラウス。これもいい。そこで、絹枝は仕事用のシャツを「注文」した。テーラーカラーで長袖のカフス付きと注文通りに仕立てただけでなく、それは手が上がりやすかった。今までの既製品だと身頃も一緒に付いて上がった。

 洋裁の知識のない絹枝でも、仕事用と普段着用のブラウスでは縫い方が違うことくらいわかる。仕事用の縫い代はすべて伏せ縫い、ブラウスの縫い代は割ってあり、袖山のラインがきれいだった。また、綿ピケの夏のスーツの着心地の良さと言ったらなかった。もう、既製品など目ではない。歳相応に腹の出てきた絹枝ではあるが、娃子が縫ったスカートは腹の出っ張りが目立たないように仕立ててある。


 そして、娃子は気付いた。娃子が洋裁をしている時、絹枝は。娃子が何かすれば何か言う。しなくても何か言うのが、絹枝の常であるのに、それが、洋裁をしている時だけは何も言わないのだ。洋裁の基礎を学ぶ本科生の時はたまに宿題もあるが、とにかく洋裁関連のことをしている時は何も言わない。言えば、娃子を不機嫌にさせ、手が止ってしまう。それくらいの猶予を与えてやらなければ上達はしない。何しろ、金を出しているのは自分だから。だが、それが終われば、待ってましたとばかりに文句を言い出す。

 もっとも、この頃には庄治の方がうるさくなっていた。外で酒が飲めない、一緒に飲む相手もいない。外で発散できないことが庄治をすっかり内向きにしてしまい、何でも、娃子に「教えてやる」の態度でものを言うのだ。


「わしゃ、色々やって来て知っとる !」


 兵隊の頃、炊事兵だったらしく多少の煮炊きくらい出来ることから、オヤ風を吹かせたい、いや、本当のところは相手をしてほしい。いやいや、それで庄治の視姦が治まったと言う訳でもない。あわよくば、今からでもと言う下心もある。だが、娃子が強すぎて、思うようにならない。そこで、あの手この手の嫌がらせで気を引こうとする。また、最近では下でに出てやってると言うのに、娃子が無視するのが気に食わない。そこで癇癪かんしゃくを起こすと言う訳だ


 絹枝は嬉しくてたまらない。何しろ、生地を買って来て娃子の前に置けば、やがて仕上がって来るのだ。さらに、庄治と娃子のケンカも傍から見ている分には、こんな面白いことはない。また、娃子より年上の近所の娘たちへのおしゃれのこき下ろしがピタリと止んだ。それはひどいものだった。


「オヤが鋳掛いかけ屋しょうるに、娘ぁ、茶わんみたいな帽子かぶってえ」


 鋳掛屋とは、鍋釜の穴やひび割れを、溶かしたハンダで塞ぐ職業である。昔の鍋釜は現在ほど丈夫ではなく、修繕をして使っていた。

 語源は金属を「鋳て」(溶かして)「かける」から「いかけや」である。ちなみに、ピーター・パンの物語に登場するティンカー・ベルも鋳掛屋である。


「どうない。支那の姑娘クーニャンみたいな格好してからっ」


 自分が気に入らない洋服は、すべて支那のクーニャンだった。


「見てみっ。みんなが笑よったじゃろうが」


 いや、別に誰も笑ってない。あれが今どきのファッションかと見ているだけある。明治大正生まれの人たちは、何かといえば人が笑うと言うが、人が笑うのではない。あんたが笑っているだけなのに、どうして人を道連れにするのか、まったくもってわからない。

 それにも増してわからないのは、絹枝が最初の結婚で三重県の田舎で暮らしていた頃、何と周囲の男たちから絹枝は「ハイカラさん、ハイカラさん」と呼ばれていたそうだ。その当時のハイカラさんがどの様な格好をしていたか知らないが、ハイカラさんと呼ばれるからには、普通の着物姿ではなかったと思う。

 その話を自慢げにしていたではないか。そんな元ハイカラさんが、どうして今どきの若い娘のファッションをけなすのか、その時はよくわからなかったが、それが今、わかった。

 自分がおしゃれどころか、必要な服にすら不自由していたからだ。だが、今はそんなことはすっかり忘れ、絹枝のファッション暮らしは始まったばかりである。

 そして、洋裁学校とは大人の服ばかり教えるのではなく、ベビー服、男の子のズボン、女の子のブラウス、ワンピースにクッションも作る。

 ベビー服は近所の出産祝いにすれば喜ばれた。袖が大きく丈が長いのが良かった。既製品は袖がそこまで大きくなく、丈も短く足が出ると言う。どうしてベビー服の袖が大きいかと言えば、赤ん坊はまだ自分で手が通せない。ハハオヤが手を入れられる余裕がなくてはならない。また、教材用の女の子のブラウス、ワンピースを作る時、絹枝は言った。


「正男の子供のんに、作っちゃれえやあ」


 出来上がったブラウスとワンピースを正男宅へ送った。しばらくして、恒男が危篤との電報が届いた。

 









 










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