ろくでもない 五

 娃子の手術は急遽取りやめとなり、翌日には退院。

 その足で、店の方へと向かう。そこにはくたびれた感じの秀子と妙子がいたが、何より、入院している筈の娃子と絹枝がやって来たのだ。二人とも驚いていた。


「どないしたんや。こんなに早よう」

「娃子が、もう、これでええ言うたけん、帰って来た」


 と、絹枝は嬉しそうに言う。


----これで、ええて…。


 秀子も妙子もこれまた、不思議でならない。何がいいと言うのだ、さっぱりわからない。

 その時、客が来た。すぐに、秀子は営業スマイルで出迎える。

 その様子を、絹枝はまぶしさと畏敬の念の混じった目で見ていた。思えば、絹枝は店のを超えたことはない。店には入り口の他に隣の店との間に人一人通れるほどの隙間があり、通常はそこから出入りする。なので、絹枝は店の入り口の前に立ったことすらない。絹枝にとって、秀子の店は侵さざるべき聖域なのだ。が、それも裏を返せば、秀子は未だかって一度たりとも絹枝にパーマをかけてやったことがない。自分ではかけなくとも、美容師にやらせることもなかった。

 借りた金を返さないどころか、ちょっとしたすら払おうともしない。また、それを絹枝は何も言わない。

 本当に、絹枝はアホである。だが、何と言うことだろう。世の中にこのアホの絹枝よりも、アホがいようとは…。

 確かに、何度手術しても、娃子の顔は捗々しくはなかった。ならば、さらに何度でも、もっともっとと言うのが、普通の女ではないのか。それこそ、絹枝が悲鳴を上げるまで手術をやり続けてほしかった。それが、絹枝が受けるべき当然の報いではないのか。

 アホの絹枝と暮らしているうちに、アホが移ってしまったか。まあ、それならそれでいい。娃子にこれ以上、只飯食わせることも無い。とは言うものの、やはり、妙子より娃子の方が気が利く。だが、それも新しい美容師が来るまでの間だ。早く、来てほしい。

 しかし、いくら募集しても美容師がやって来ることはなく、ついに、音を上げた秀子は、店を貸し出すことにした。


 家に戻った娃子は図書館へ行く。当時の図書館は木造の建物の二階にあった。階段の側の小さな部屋に座っている女の人から、利用館証の紙を貰って二階に上がるのだが、世の中には楽な仕事があるものだと思った。この女の人は利用者にこの紙を渡すためだけにそこに座っている。もっとも、暇すぎてレース編みをしていた。

 また、二階の図書館ルームは異様な静けさなのだ。そして、本を探すのは五十音別、索引別に仕切られたいくつもの引き出しの中の棒に差し込まれたカードの中から探すのだ。これが結構大変である。

 小説のようにタイトルのはっきりしているものなら探しやすいが、娃子が必要としているのは、知識系の本である。世の中と言うものが今一わからない。いや、わからないことだらけだ。知りたいのに知る手段は図書館しかない。

 娃子にとって、知識とは本から学ぶしかない。周りの大人たちは何も知らないどころか、考えることさえ止めている。だから、図書館でこうして多くのカードの中から探さなければならない。そして、やっと探し当て、受付で待っていると、渡された本はかなり古い本だった。それでも、期待を込めて机で読み始めるが、期待していた内容とはちょっと違う。

 それなら、受付の人に尋ねてみればいい様なものだが、この静けさの中では緊張してしまう。緊張するとどうしてもうまくしゃべれない。特にタ行が最初にくる言葉が発音しにくい。だから、どうしても気後れしてしまう。

 喉の周囲の、このバリアーは何だろう…。


 そんな娃子は近くのパン工場で働くことになった。絹枝の仕事仲間だった女がそこで働いていた。働くと言ってもアルバイト扱いではあるが、家で何もしないよりはいい。別に、家でのんべんだらりとしているわけではない。家事の他に、本を読んだり小説や詩を書いていた。事実、少女雑誌に投稿していた。一次審査くらいは通過する。それでも、傍目から見れば、ごくつぶしにしか見えない。

 初めて作業場に連れて行かれた時は、当然、一斉に「ええっ」と言う目を向けられたが、別に、ここに限ったことではなく、いつでもどこへ行っても、娃子は奇異の目で見られる。それでも、この顔で生きていくしかないのだ。

 従業員の年齢の幅は広く、十代の娘もいれば六十過ぎたような年寄りもいた。当時の六十歳は本当に老人だった。そんな中で、娃子が最年少だった。

 昔の食品工場は不潔と言うのが定説だったが、このパン工場は、取り立てて不潔でもないが、清潔でもなかった。パンやサンドイッチの具材は普通に素手で触っていた。

 娃子の一番最初の仕事は食パンの包装。六枚切りの食パンを袋に入れ、口をセロテープで止めていく。

 食パンの口に付いている留め具が普及するのは、ずっと後のことである。留め具の名称は「バッグ・クロージャー」

 そのバッグ・クロージャーが誕生したのは1952年。アメリカで包装機械事業を営んでいたフロイド・パクストンが「りんごを袋詰めしたあとに袋の口を簡単に閉じる方法はないか?」と依頼され、飛行機の中で原型を考案した。

 日本では食パンの留め具というイメージが強いが、アメリカでは今でも野菜や果物の包装に使われている。

 それにしても、夏のパン工場は暑い。三時頃になると休憩を兼ねて、誰か一人が金を集め買いに行く。近くに飲料工場があり、直接行けば安く買える。買いに行く人は決まっているわけでもなく、下の立場の者が買いに行かされるわけでもないが、娃子も仕事に慣れてきた頃、いつも買って来てもらうのも悪いから、今日は自分が買いに行こうと思った。

 そこで、思い切って声をかけてみたが、いつもは普通に話をしているのに、その時はなぜか、みな黙ったままだった。

 何か、余計な事をしたのだろうか…。

 どうもそうらしい。


 そんなある日、正男一家がやって来た。

 妻の嘉子、長男智男、長女孝子、次女博美。智男と孝子は小学生、博美は幼稚園前。

 三人でも狭い家に突如五人も増えたのだ。夏だから、雑魚寝状態でいいにしても、事前連絡も手土産も無いが、絹枝は喜んだ。

 だが、その絹枝以上に機嫌がいいのが庄治だった。とにかく、ニタニタ笑いが止まらない。夕食は智男の希望でカレーとなった。今はちゃぶ台ではなく、大き目の座卓なので、何とか座れる。そして、庄治の前に嘉子が座れば、博美を気遣いつつカレーを食べる嘉子から目を離さない庄治だった。ビールを飲みつつも、口元はだらしなく嬉しさが止まらない。

 いつもと違う女がいる。それだけで庄治のテンションは上がりまくっていた。だが、カレー皿は三枚しかない。正男と嘉子と娃子が三枚の皿で食べ、三人の子供と絹枝は小さめの皿で食べた。そして、嘉子が食べ終わると、待っていたかのように、いや、ビールを飲むペースすら合わせたのかもしれない庄治がその皿に、自分用のカレーを絹枝に盛らせ、これまた嬉しそうに食べ始めた時の気持ち悪さ。

 だが、そんな様子に絹枝は全く気付いてない。庄治に関心がないと言うより、男と言う者に関心がないのだ。さらに、この嘉子、美人どころか、絹枝が呆れる程の不器量なのだ。それも足はびっこ


----不細工の上に、。ようも大事な跡取りの正男にこんな嫁、持たせたものよ。


 と、今でも嘉子には不満たらたらなのだが、三人の子供の顔立ちは悪くない。孝子は色白の一重まぶた。博美は奥二重でこのハハオヤから、よくもこんな子が生まれたものだと感心するくらいに可愛い。

 智男は初めてのオバの家で、最初は恥ずかしそうにしていたが、すぐに慣れた。だが、長女の孝子は、いつも無表情で一言も話さない。別に恥ずかしがっているとかの素振りもない。動作も立てと言われたから、仕方なく立つと言う感じなのだが、出されたものはさっさと食べる。

 翌日からは、新しく架かった斬新な形の橋の見物、帰りは初めての渡し船にも乗った。また、海水浴にも行った。

 プールでは泳げるものの、海で泳ぐのは初めての智男は興奮し、唇の色が紫色になるまで泳いでいた。孝子は最初は珍しそうにしていたが、智男のように泳げるでもなく、波打ち際で博美と砂遊びをしていた。それでも、悪い気はしてないようだ。

 また、正男のオバのところへも行った。この辺りは正男の昔のテリトリーであり、同姓同名の同級生がいた。教師が名前を呼ぶのに困り、西と東をつけて呼んでいたそうだ。オバの家の近くでもう一人の正男の表札を見つけたときは懐かしそうにしていた。

 そして、買い物にも出かけた。なぜか智男は一人、ずんずん歩いて行く。角を曲がる時には呼びに行かなければならない。そして、いつも洋服を買う店に入って行けば、今日は歩かされるばかりで面白くなかった孝子の目が忙しく動いた。

 智男には水色のポロシャツ、博美にはピンクのチェックのワンピース。娃子はこの店でロクな色合いのものしか買ってもらってないので、孝子が着れそうなワンピースを二着手に取り、どっちがいいかと聞けば、孝子は気に行った方を勢いよく指差したが、顔はすぐにいつもの無表情に戻った。その後はかき氷を食べた。


----まあ、今日のところは、このくらいでええとしといたる。


 いよいよ、正男たちが帰る日の朝、絹枝は早起きをして、巻き寿司を作った。具は、卵焼きとちくわだけの巻き寿司だったが、五人分もの弁当を買えば高いだろうとの思いからだった。

 だが、正夫たちが帰ってから、しばらくすると、絹枝はもうたまらないとばかりに、娃子を連れて大阪へ行く。


「行かんかいっ」


 と、例によって、秀子宅で着替えを済ませれば、いつもの命令口調で言うが、なぜか、娃子は行かないと言った。

 近頃の娃子はますます強情になっている。一つは庄治が娃子の嫌うことばかりするからである。だが、娃子も適当にあしらって置けばいいものを、ムキになって文句を言っていたかと思えば、果てはだんまりを決め込む。

 そんな娃子が行かないと言えば、どうしようもない。絹枝は一人で義男宅に行けば、則子がいた。そこには布巾のかけられた寿司があった。

 寿司桶を飯台はんだい飯切はんぎり・半切と言うが、地方によっては、はんぼとも言う。はんは飯のことだが、ぼはわからない。幅の広い浅い桶をはんぼ、深いものはおひつと呼んでいた。

 一方の則子は、いつも厭味ったらしく連れてくる娃子がいないことが気になる。


「娃子ちゃんは」

「来たで」


 一緒に来たのなら、どうしてやってこないのだろう。


----ひょっとして、知ったか?


 それにしては、絹枝の態度がいつもと変わらない。それより、寿司桶を見られてしまった。


「食べや」


 と、則子は皿によそって出す。食べ終わった後は、世間話の態で、互いの腹の探り合いが始まる。


「着物、買お思うんやけど、お金貸してや」


 娃子の手術でかなりの金を使った筈なのに、金のことは一切口にしない絹枝だった。ひょっとして、これはまだ、金を持っているのか。これは、気になるところである。そこで、則子はダメ元で探りを入れて見る。だが、それは絹枝に無視された。 

 そんなことより、腹立たしいのはこの寿司。則子が寿司を作ったのには当然わけがある。


「そりゃ、わしゃ、その寿司、貰ろて食うたで」


 憤懣やるかたない絹枝は、帰ってから秀子に怒りをぶつける。


「食うたけど、わしらのために言うて、寿司なんか作ったことは只の一度もありゃあせんわ。も、自分の身内にゃあ、してやるのに、わしらにゃ寿司一つも作らんのんじゃけえのう」


 関東では、ちらし寿司と言うが、関西以西では、ばら寿司と言う。そして、寿司は「ごちそう」であり、その寿司を作ると言うことは、やはり、特別の意味を持つ。

 今日、則子がばら寿司を作ったのは、自分のメイがやって来るからである。そこへ、何も知らない絹枝が来て、寿司を見つけたので仕方なく一皿出したと言うわけだ。だが、絹枝にすれば面白くないことこの上ない。いくら自分のメイかもしれないが、こっちは前妻の子を育ててやっているのだ、一度くらい寿司を作ったところで、バチは当たるまい。義男も則子も揃いも揃って、恩知らずだ。

 

 翌日、則子がやって来れば、いつにも増して、娃子を睨みつける。


----お前がいくら、本当のことを知ったとしても、そうなったら、うちの敷居は跨がさんからな。義男とだけ外で話をせい。こっちには、関係のないことやからな ! そんなことより早よ、死ね !


 だが、娃子を観察するも、まだ知ってはないようだ。それなら、どうして…。

 いや、そんなことはどうでもいい。ただ、ひたすら願うのは、一日も早い娃子の死である。

 娃子が義男宅に行かないと言ったのは、長男長女が高校生になっていることだった。高校に行けなかった、行かなかったことは、やはり、コンプレックスとなっている。あの二人から、高校の話を聞きたくなかった。


 ひとしきり愚痴った絹枝は、正男一家がやって来た時の話をするが、秀子は正男が絹枝のところへ行ったことは知らなかった。


----話にも来んかったけど、土産も持って来んとは。それより貸した金、早う、返さんかい。


 正夫は、時々金を借りに来る。秀子は絹枝とは違う。きっちり取り立てる。

 そんなことを知る由もない絹枝は、子供たちに服を買ってやった時のことを例によって大仰に話始める。

 

「もう、握って離さんのじゃけえ。のう、娃子っ」


 何が、のう、娃子だ、何が握って離さないだ。

 あの三人の子供たちは感情に乏しい。服を買ってもらったのだから、悪い気はしてない筈だが、博美にはまだよくわかってないが、智男も孝子も黙ったままではないか。ただ、孝子の目は忙しく動き、二枚のうちから気に入った方を指差した時だけ、その眼に力が入っていた。だが、その目を知っているのは、娃子だけである。

 それだけのことが、絹枝にかかれば、とんでもないドサ芝居になるのだ。




「娃子、洋裁学校、行けえや」


 ある日、絹枝は言った。






 







 








 




 




 











 























 

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