ろくでもない 四

 梅田の百貨店で、鉛筆を1ダース買うと、名入れをしてくれるサービスをしていた。それも、金色で刻印されるのだ。店員が小さな活字を拾い刻印器にセットする。鉛筆を1本ずつ差し込み、レバーを押せば刻印されて行く。見ているだけでも楽しい。娃子は自分と峰子の名入れをしてもらった。峰子には高一の時の、漢文と国語の教科書を借りていたので、その鉛筆を土産にした。

 店に小さな花瓶があった。別に花が活けてあるわけでもないがあった。花瓶には「○○吟詩会」と書いてあった。秀子が読んでみろと言うから、娃子は「ぎんし」と読んだ。秀子がゲヘッと笑った。この笑いは娃子をバカにした笑いである。


「これはな、シギンて、読むのや」

----娃子、知らんねんな。


 ああ、漢文かと思った。中学では漢文を習わなかった。帰ったら、峰子に教科書を借りようと思ったが、その前に涼子に聞いて見た。


「これ、クチ?」


 えっと思った。涼子は美容学校に行ったのではなく、通信教育で資格を取ったそうだ。なので、高卒後、働きながら美容師の勉強をしたのだと思っていた。

 それなのに「吟」の字が読めない?いや、中卒でも読める字ではないか。結局、涼子の口から「ぎん」と言う言葉は発せられなかった。

 娃子は峰子の教科書で漢文の勉強をした。お陰で少しは読めるようになった。そして、自分の名前の入った鉛筆を峰子は喜び、学校に持っていけば、当然珍しがられた。

 ある日、二人でまたも中学の文芸部の顧問だった教師の家に行った。その日は文学好きが集まると聞いていた。行ってみれば、ほとんどが十代だった。簡単な自己紹介の後、あれこれ話をしていると教師はプリントを回し始めた。そこには、二つの短文が書いてあり、一方は詩、もう一方は小説なのだが、どちらが詩であるかとの問いに、座は沸き立った。

 答えは、ほぼ半々に分かれ、教師は一人一人にその理由も聞いて行く。娃子は「勘」だと答えた。

 娃子の勘は当たった。一方の小説の方は、井上靖の作品だった。それなら「猟銃」でしょうと言えば「おおっ」と返ってきた。

 娃子には、何事にも代えがたい時間だった。


 秋が近づき、またも、秀子宅での暮らしが始まった娃子だが、久しぶりに会った涼子の交際男が髪を染めていた。聞けば、夜間の美容学校に通い出したと言う。将来は二人して、美容院を経営するつもりらしい。

 涼子の誕生日プレゼントは、大きなケーキとオルゴールだった。ケーキのご相伴にあずかっている時、涼子は言った。


「禁じられた遊びが、良かったんだけど」


 オルゴールの曲は「ユーモレスク」だった。


 そして「事件」は起こった。

 ある月曜日、涼子はいつものように出かけるが、夜になっても帰って来なかった。

 翌日、交際男と一緒に戻ってきた。別に、悪びれる様子もなく、二人で温泉に行ったが、帰れなくなってしまったと言い、店には電話があるが、秀子宅にはまだ電話はなかったので連絡出来なかったとのことだった。

 その時、秀子は取り立てて何も言わなかった。それが娃子にはちょっと不思議に思えたが、すぐに思い当たった。

 娃子には平気で泥棒の疑いをかけるくせに、今まで涼子には文句ひとつ言ったことがない。それどころか、秀子の方が気を使っているくらいである。

 秀子は恒男の身内には甘い、いや、よく思われたいから、何も言わないのだ。自分の身内に何をしてやっても駄目。それは秀子自身が身をもってことである。

 それにしても、店に穴をあけたのに、二人から詫びの言葉などはなく、涼子は男が何か変なことを言ったりしないか、そっちの方が気になっているようだった。しかし、これは、ほんの序の口に過ぎなかった。


 その後の娃子の入院中にまたも、涼子は二度目の「外泊」をする。

 翌朝になり、娃子もいないので妙子をアシスタントに何とか店を切り盛りした秀子だったが、以前の外泊時は、まだ、明るい時間に戻って来たが、今回は夜になっても帰って来なかった。

 また、一夜明けても、店にも連絡がない。まさかと思い、涼子用の箪笥の引き出しを開けてみれば、もぬけの殻。

 まさか、あの涼子が、黙って出て行った…。

 いや、今までにも、こんなことは一度たりともなかった。一番最初の美容師二人は十年もの間働き、ここから嫁に行き、今でも付き合いがあるが、その後はなぜか、通い住み込み共に美容師の長続きしない店となっていた。それでも、誰一人として、黙って出て行った者はいない。

 翌日、店にやって来た美容機材の営業マンに、男のことを聞いて見た。


「店の女の子と仲良うなんのを会社が嫌うんで、黙っとってくれて言うから、黙っとったんやけど、うちの店の子。あの子、親戚の娘やねん。それやのに、勝手に連れ出してしもてから」

 

 これが全くの他人の美容師なら、文句を言いつつも放っておくが、何と言っても、恒男の親戚であり、ハハオヤが連れてきた娘である。このままにはできない。

 営業マンに男の住所を聞き出し、恒男とともに訪ねて行けば、涼子はその家にいた。そこは男の実家であり、何も知らないリョウシンは息子の恋人として、涼子を受け入れていた。だが、涼子はきっぱりと言った。


「私は、帰りません」

「まあ…。そやけど、どない思わはります」


 と、秀子はリョウシンに向けて話をする。


「そら、流れもんも使こたことあります。ありますけど、そんな子かて、センセ、辞めたいんやけど、次の人が来るまで、いててあげるなて言うてくれましたわ。それやのに、黙って出ていくやなんて…」

「涼子ちゃん、そら、ちょっと、あきまへんなあ」


 目をしょぼつかせた、男のハハオヤが言ったが、涼子の気持ちは変わらなかった。仕方なく、その場はそのまま引き上げ、恒男に連絡を取らせた。 


 娃子がそのことを知ったのは、当然退院してからだが、涼子がなぜ、そんなことをしたのか、これまたわからなかった。

 何も黙って、秀子宅を出ることはなかろうと思う。娃子の入院中、何があったか知らないが、秀子の様子からして取り立ててのいざこざなど無く、荷物を少しずつ運び出していたところから、計画的である。


「うちはな、年寄りの髪結うて免許取ったんやさかい、若いもんの髪よう結わん」


 以前、茂子が言っていた。茂子も美容師の資格は持っているので、家出中に他の店で働いたこともある。だが、そこは繁華街、客層がまるで違うと言っていた。


「あれは、本当よ」


 と、涼子も言っていた。また、十年も働いたと言う美容師には、感心と言うより呆れていた。


「よう、こんなとこに、十年もおったねえ」


 その点は娃子も同感であるが、だからと言って、黙って出て行ってもいいと言うものではないだろう。

 それでも、店に対する不満、秀子に対する不満もあったと思う。涼子に直接怒ったりしたことはないが、何かチクリと言われたのかもしれない。いや、早いうちから言っていた。


「通信教育やさかい。これが学校行ってたら、腕もパアッと上がるんやけど」


 だが、涼子もミスはしている。白髪染めをした客が翌日やって来て、染まってないと言う。一見染まっているように見えたが、髪の色に段が付いていた。秀子が再度染め直す。


「なっ、上の方を染めて、コームで下に持って来たら、ムラのう染まるんや」

「昨日、先に下の方、一生懸命染めてたわ」


 当時の女性の髪形の変遷は、ワンパターンだった。娘時代は前髪を下したセミロング、これが結婚すると額を少し出したアップ。そして、子供が出来れば、もう髪形なんぞ構ってられない。前髪は、とっくに後ろに跳ね上げ、チリチリパーマのオバハンヘアーが定番だった。この客も同じだった。

 そう言えば昨日、涼子が客の耳の下側当りを熱心に染めているのを、娃子も何となく見ていた。秀子はそれ以上のことは言わなかったが、ある時、涼子がポツンと言った。


「前の店の方がよかった」


 何はともあれ、この店で働くのが嫌になったのなら、どうして一言辞めたいと言わなかったのだろう。受け入れてくれる恋人もいるのに、円満退社しようとは思わなかったのだろうか。それを、少しずつ荷物を運び出すとは、いくら何でも質が悪い。


 娃子はハハオヤと涼子がやって来た最初の場面も知っているが、まさか、最後の場面にも立ち会おうとは…。

 それは、あっさりしたものだ。


「お世話になりました」


 ハハオヤと荷造りを終えた涼子が、それだけ言うとすぐに立ち上がり、また、ハハオヤも何も言わず秀子宅を後にした。


「今夜は寝かしてもらえんやろ」


 夜汽車の中で、ハハオヤから延々と説教される、らしいが、娃子は果たしてそうだろうかと思った。娘の「不始末」を詫びるでもなく黙って去って行くようなオヤである。どっちもどっちだ。


 それからの秀子は、涼子の悪口を言いたい放題に言っていた。特に、親しい幸子にはボロカスに言っていた。その気持ちもわからないわけではないが、自分のことは棚に上げたままである。


「今の若い娘は、貞操を紙屑のように捨てる。まあ、向こうの家行った時、オヤと寝てる思もてたら、男と寝てんやから」


 当時の娃子が秀子の過去について知っていることは、若いうちに家を飛び出したと言うことくらいでしかなかった。


「オヤが、なんにも、教えてえへんのやなあ」


 言うだろう思っていたことを、秀子はこんなにもわかりやすく言うが、茂子のことを思えば、よその娘のことをとやかく言えないのではと、誰もが思うことではないか。


----茂子は、ほんまの子やない。これがほんまの子やったら、きちんとしたええ子になってるわ。ならいでかっ。


 正月休みに、秀子宅に来客があったが、涼子はホームこたつに座ったまま、秀子の入れた茶を飲み、菓子に一番先に手を付けたそうだ。

 また、珍しく大きな鮭の切り身を焼いたのが大皿に載っていた。秀子がこんな高価なもの買う筈もなく、何があったのかと驚きもしたが、それは、近所の人から荒巻鮭片身を焼いたのをもらったものだ。

 娃子は魚は骨の多い腹身より尻尾の方がいいのだが、尻尾の部分はひと際大きかった。秀子のことだ、大きいところを取れば、また、何か言われるに決まっている。そこで、腹身に近いところに箸を伸ばす。


「娃子、尻尾食べや」


 またも、大きいところをくれるのかと思いもしたが、そうではなかった。


「よその子に、尻尾、食べさせられへんからな」

「別に、どこでもよろしいやないか」


 恒男が言った。


「何言うてんの。親戚の子に尻尾食べさせてみいな。何、言われるやら」


 尾頭付きと言うくらいだから、一匹の魚でも尻尾より頭の方が格上なのだ。だが、鰻は尻尾の方がおいしい。だから、家では鰻の尻尾は絹枝が食べることになっている。

 その時、トイレから戻った涼子は、尻尾を取ろうしていた娃子より早く、鮭の真ん中部分に箸一本を差した状態で切り身を掴み、自分の皿に取った。そして、半分にした鮭を口に入れ、骨は箸を持ったまま、指で引き出し皿の上にこすり付けるように置き、その指を舐めた。

 

「まあ、あのオヤかて、来るときも帰る時も、なあんも無しやからなあ。オヤがオヤなら、子も子や」


 そうなのだ。行きも帰りも手土産の一つ持って来なかった。

 その後の涼子は、女の子を生んだと聞いたが、それ以上の情報はない。

 何にせよ、恒男の身内には、ロクなのがいない。



 そして、肝心の娃子の手術だが、同じことの繰り返しだった。失敗すれば、また、やり直せばいい。医者は手術をしてやってるのだ。だが、やられる娃子はたまったものではない。

 十七歳の春、手術直前になって、娃子はもうしたくないと言った。

 その時、絹枝はニヤリと笑った。


 


















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