その後 二
「うちも、息子に机、
「そんなら、これ、使いんさいや。
と、絹枝は娃子の机を指さす。
翌日、その息子が一人で机を取りに来た。どうやって持って帰るのかと思っていると、まず、両手で抱え、机を頭の上に載せ、ふらつきながらではあるが、一人で帰って行った。
どちらかと言えば、小柄の部類に入る男子なのに、さすがは男、力があるものだと感心した。実は、この男子、娃子の中学二年の時の同級生である。
彼のオヤは、絹枝たちの仕事仲間と言うわけではないが、前からの知り合いである。その関係で子供の頃から、互いの家に行ったこともあり、中学で同じクラスになり、そして、この四月から、彼は私立の男子校に入学する。
それにしても、彼は今まで机もなく勉強していたのだ。
この机も庄治がどこからか、もらってきたものであるが、下にイモウトがいるとは言え、彼の家が勉強机も買えぬほど困窮していたとは思えない。家は二間だけの狭い家ではあるが、彼のハハオヤは専業主婦だった。
さらに、その後のことだが、彼のチチオヤは当時、急速に拡大してきた宗教にはまり、一家で信仰を始めたのはいいが、あろうことか、教団の女性信者と浮気をしてしまう。それを知ったハハオヤは当然、怒り狂い、チチオヤを責めるが平然と言い放ったそうだ。
「お前もせえや」
どうにも怒りの収まらないハハオヤは、あちこちで夫の「悪行」を触れ回り、ついに、絹枝のところへもやってきた。
「もう、うちは受け入れんよ ! まだ、そんな年じゃないがっ」
只でさえ、よくしゃべる人である。しゃべりだしたら止まらない。庄治でさえ呆れるほどである。今も側に娃子がいようとまったく意に返さない。そして、散々夫と相手の女への恨みつらみをぶちまけて帰って行ったが、その気持ちがわからないわけではない。
それからしばらくて、この時は、さすがに落ち着いた感じでやって来たかと思えば、なんと、生命保険の外交の仕事を始めたと言う。そこで、絹枝に保険に入ってほしいと頼みに来たと言うわけだが、何より、信仰と生命保険が大嫌いな絹枝である。
昔、従姉の生命保険に加入させられたことがあり、とても、保険料など払える余裕もないのに、この時の従姉の執拗さに負けて一、二度保険料を払ったが、それっきりである。そんな絹枝が耳を貸す筈もなく、冊子にも女性用の角丸名刺にも見向きもしない。
そんな絹枝に見切りをつけたのか、今度は娃子に話しかけて来た。
----後で、オカアチャンに、よう言うとってよ。
そんなことより、当の娃子は冊子の上に置かれた、この人の名刺の名前に少なからず驚いてしまう。
その名は、カタカナで「イワカ」だった。大正生まれにしても、変わった名前だと思った。だが、この人、イワカは、さらに驚かせるようなことを言った。
「娃子ちゃんも、何か、わからんことがあったら、オネエサン、これどうやるのって聞いてくれたらええんよ」
オネエサン???
何で、同級生のハハオヤをオネエサンと呼ばなきゃいけないのだ !
現に、今までだって、オバサンと呼んできたではないか。それが、ここに来て、保険の外交員になった途端に、オネエサン…。
確かに絹枝よりは若いが、どこにでもいる普通のオバサンでないか。それが、息子の同級生にオネエサンと呼べとは、今更ながらに、開いた口が塞がらない。また、このイワカが以前にやって来た時のことであるが、美容師の話題になった。
「わしも若かったら、習うんじゃに」
秀子が婚礼の設えに出向けば、謝礼の他に折り詰めを持って帰る。それを見た絹枝は美容師とはいいものだと思った。そして、このイワカオバサンも即座に同調した。
「そうよ、うちでも習いたいわ。こないだ、うちの娘が美容師になろうか言うけん。そうよ、それがええわ。あれよ、たいぎかったら、三人だけしんさい。三人したら、千五百円あるんじゃけん。そんだけしたら、ええんじゃけん」
パーマ代が五百円くらいの頃である。女性の一日の収入が千五百円あれば、言うことはないにしても、一日に三人しか受け付けないような美容院に誰が行くものか。
二人とも、美容師のいい面しか見てないのだ。それしか知らない、また、知ろうともしない。
娃子は、しみったれのくせに厚顔無恥の秀子の人間性はともかく、美容師としては評価している。それまで、どれだけ怒っていても、客の前では決して嫌な顔はしない。
美容師とは、個人客との接触時間の長い職業である。どの商売でもそうだが、嫌な客はいる。これが、絹枝なら、顔に出る。また、このイワカのように、のべつ幕なし勝手にしゃべられても、客は落ち着かないだろう。
結局のところ、ないものねだり、いや、若ければ習うではなく、若いうちに習っておくべきだったのだ。二人とも若い頃は女は仕事なんぞ持つより、結婚して家庭に入るものと思っていたくせに、若くもなく習う気力もなくなった頃に、羨んでも仕方ないことである。
ちなみに、その後のことだが、イワカ夫婦は離婚はしてない。
卒業式から一週間ほど経ったある夜、峰子ともう一人仲の良かった同級生が家にやって来た。
文子とさらに別の同級生との五人で、これからは別々になってしまうので、中学最後の思い出作りに、遊びに行こうという誘いだった。それも、いつもの市内ではなく、汽車で一時間くらい先の県内一の繁華街へ。
「行けえや」
と、絹枝が言ったので、峰子たちは笑顔で帰って行った。だが、翌朝、絹枝は平然と言い放った。
「行かんでもええ。行くなよ」
昨日、行ってもいいと言ったではないか…。
「行くな、言われまあが」
----それくらいのこと、わからんのんか !
「やっぱり、止めとくわ言やあええんのよぅ。なに、気ぃ使うことあるかっ。子供くせして。行きゃがってみい ! 」
只じゃ済まさんぞと、娃子を睨みつけながらの捨てセリフを残し、絹枝はいつものように、庄治の自転車の後ろに乗り仕事に出かけた。いや、今日は日雇い保険をもらうことにしている。
日雇いも手帳を持ち、そこに仕事先で印紙を貼ってもらい、一定の基準を満たせば「失業保険」と「健康保険」の権利を有する。だから、仕事の交渉は日給と印紙の有無が基準となる。思うようなところがなければ失業保険をもらえばいいのだが、その兼ね合いが難しい。また、保険も時によれば、3日分ほど溜まるときがある。3日も溜まれば、1日分の日給以上になるので、その日は端から保険をもらって帰ることにしている。
だが、支給までには少し時間がかかる。その間、喫茶店等で時間をつぶす者もいるが、絹枝は歩いて家に帰ってくる。その時には、大抵、誰か連れがいる。
今日はその日だった。一度、家に帰った時、娃子がいなければ、それこそ、怒鳴りつけてやる。だから、今日は誰も連れずに帰るつもりにしていた。
待ち合わせの時間になっても娃子が現れないので、峰子と昨日の友達が心配して家まで来てくれたが、どうすることもできなかった…。
今までにも絹枝は娃子との約束を平気で破った。それなら、気を持たせるようなことを言わなければいいのにと思うが、それが、絹枝には楽しいのだ。娃子の困ったような、がっかりしたような顔を見るのが面白いのだ。
だからと言って、それを峰子たちの前でやるか…。
いやいや、これくらいのこと、絹枝にすれば何でもないことである。相手は子供。何しろ、娃子に金の請求をさせたことがあるのだ。それも、義男に…。
娃子が小学生の頃のことである。義男もたまには故郷に帰ってくる。二人のアネとオバとキヨ子の家に行き、本当は寄りたくないが、寄らずに帰れば、後で絹枝に何を言われるかわかったものではないので、一応顔を出すことにしている。
義男は酒は飲まないが、遠来の客が来れば、すき焼きでもてなすのが絹枝である。そして、義男は帰り際に三百円借り、それを払わないまま大阪へ帰ってしまった。
「娃子。今度、大阪へ行ったら言うてやれぇ。オジサン、三百円返して、言うちゃれえ。言えぇよ」
相手が誰があろうと、娃子はそんなこと言いたくない。だが、言わなければ、それこそ延々と怒られまくるのだ。現にその後、大阪に行けば、すぐに義男宅に連れて行かれ、翌日には則子が秀子宅に顔を出す。それがいつものパターンである。その夜には義男がやって来た。
別に絹枝に金を返しに来たわけとかではなく、もう、そんなことは忘れていた。
何より、たかが、三百円ではないか。
だが、そんなことは絹枝には通用しない。別に三百円が惜しいわけではない。その根性が気に入らない。そこで、娃子を
----言えぇよ。言うんで。言うちゃれえよ。
どうしようもなく、娃子は顔を引きつらせながら言った。
「げええぇへっへへへえぇ」
それを知った絹枝は笑った。嘲り笑った。こんな面白いことはなかった。
----ザマア、ミイ ! わずかの金を、それも自分のムスメに請求されやがった。アア、オカシッ。これが笑わずにおわれるか !
今まで、絹枝は義男から一円の金も受け取ってないどころか、自分のムスメが世話になっていると言うのに、感謝の言葉すらない。娃子の話になるといつも笑ってごまかし逃げようとするではないか。だから、こんな目に合うのだ。いや、合わせてやったのだ。
翌日、娃子は則子から五百円受け取る。義男が借りた三百円と二百円は自分からだと言った。娃子はその金を絹枝に渡した。
----それにしても、子供とはショウのないもんじゃ。なんだかんだと遊ぶことしか頭にないんじゃけえのう。娃子こそ、これからの自分のことを考えんにゃあいけん言うのに。そんなこともわからんとは。何と、
この「業な」とは、大変で面倒であることの最大級の方言である。
業を煮やすとは、腹が立ってイライラする意味であるが、それよりも厄介なことを抱えてしまった時の言葉である。他県から越して来た人でも、この言いやすく、便利な方言はすぐに覚えてしまう。
何か、あれば「ゴウな、ゴウな」「ゴウなことで」とか言えばいいのである。
「娃子 !」
やがて、娃子はミミを引っ張られるように大阪に連れて行かれ、その時は珍しく義男も一緒で、これまた珍しくタクシーに乗った。そして、義男はいつものダミ声で言った。
「まあ、後の雑費は、わしがするわいの」
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