第四章

その後 一

「はっ、わっしゃあ、オヤの務め、果たしたぁ」


 絹枝は安堵感でいっぱいだった。他でもない、娃子あいこが言ったのだ。

 もう、これでいいと…。

 実のところ、これから、まだまだ金がかかるだろうと気が緩むことはなかったが、やっと終わった。


「やれやれ…」


 これで、あの重圧からも解放された。娃子の顔の火傷は「娃子自身」が仕出かしたことであるが、自分にも責任がないとは言わない。だから、中学を卒業と同時に、大阪の病院で手術をしてやったのだ。それも一度や二度ではない。何度もしてやった。娃子がいいと言うまでしてやった。

 それが終わったのだ。こんなにもホッとしたことはない。

 

「娃子が言うたんじゃけん。私はこれで十分です、言うたんじゃけん」

「……」

「だいぶ、見ようなったわ」

「……」

 

 誰も、何も言わない。

 本当に、娃子がそんなことを言ったのだろうか。だとしたら、娃子はとんでもなくおかしい娘でしかない。

 常日頃から、絹枝は娃子の顔の手術をしてやるんだと公言していた。事実、中学を卒業すると大阪の病院に連れて行き、手術を受けさせ、その後は通院があるからと秀子宅に置き、絹枝一人が戻り、また、仕事に精を出していた。その時に、手術次第を例によって大仰な身振りで聞かされたものだが、そのことに、賛辞を送らぬ者はいなかった。

 それから、娃子は入退院を繰り返し、かれこれ、二年になろうとしているが、それでも、ここで止めてしまうとは…。


「ああ、わしほど、苦労したもんはおらんわ…」


 本当に、苦労の連続だった。

 オジの紹介で庄治と暮らし始めたときは、ほっとしたものだ。戦争が終わったとはいえ、いや、戦争が終わってからの方が、世の中は物騒だった。戦争中は戦争という目的があり「欲しがりません、勝つまでは」のスローガンのもと、人は同じ方向を向いていればよかったが、その戦争が終わった。それも、敗戦。外地からも引き上げてくる人々、オヤを亡くした戦災孤児など、目的を失った人の群れは生きることに必死だった。

 絹枝の前夫も戦争で死んだ。只でさえ、後家と言うだけでバカにされる時代である。いくら、金を持っているとはいえ、いや、なまじ金を持ってるからこそ。


「あのまま、一人でおったら、殺されとったかもしれん」


 絹枝は、そう述懐したものだ。

 これから先が不安で仕方なかった。アネの秀子は追加の金を要求してきたが、それを拒否すれば邪険にした。仕方なく、生まれ故郷に戻ればオジが見合い話を持ってきた。

 絹枝には断る理由がなかった。


----養のうてもらえるんなら…。


 男とは女房子供を養っていくものである。そして、庄治との同棲が始まった。最初のころは庄治も猫を被っており、酒もそんなに飲まず、大人しくしていた。

 間借り生活していた頃、義男が娃子を押し付けて来た。絹枝にしてみれば、ちょっと預かったつもりで、娃子を連れ帰った。


「オナゴかぁ。男ならええのに」

「男なら、ヨシが離さんわ」


 そうなのである。男尊女卑の教育が骨の髄までしみ込んだこの国の男は、男ならともかく、女なんぞに死んでも養育費を払いたくない。そこで、前妻のところから、隙を見て娃子をひっさらい、庄治と一緒になったとはいえ、この先子供の望めない絹枝に押し付け、義男は姿をくらました。

 それでも、庄治もしばらくすれば情が移ったようで娃子をあやしたりしていた。そして、しばらくは金もあり、あちこちに移り住んでいた。


「まあ、お宅、赤ちゃんいらっしゃるんですか」


 絹枝がおしめを干していると言われたものだ。


「泣いてんないから…」


 そう、娃子は泣かない赤ん坊だった。いや、赤ん坊とは、泣いても無駄だと思うと、泣かなくなるものである。

 いくら、泣いても放っておかれれば、泣くことを止めてしまう。

 それにしても、庄治は呑気な男だった。仕事がないからと言って仕事をしない。最初のうちは、絹枝も金を持っており、そのうち働いてくれるだろうと、少しは庄治にも金を持たせていたが、すぐに使ってしまう。


----十円あったら、十円使うんじゃのう。


 これではいけないと思い、ちゃんとどこかに住むべきところを決め、何でもいいから仕事につかせた方がいいと思い、空き家を探した。

 そして、引っ越ししたばかりで、まだ、近所にも挨拶をしていなかった時のことである。

 娃子がセルロイドのおもちゃを火鉢に入れてしまい、顔面を火傷した。それからが地獄の日々だった。娃子は何度も死にかけた。絹枝はもし、娃子が死ねば、自分も死のうと思っていてた。

 ある時は、顔から血が噴き出したこともあった。そのたびに病院に連れて行き、気の休まるときはなかった。


「お前が、こんな子、もろうてくるけんよ」

「仕方ないじゃないっ」


 相変わらず仕事もしないくせに、酒は飲む。それも、半端な量ではない。そのくせ、ちょっとでも気に入らないことがあれば、当たり散らす。

 とにもかくにも、娃子は命を取り留めた…。


「わしゃ、この子を籍に入れて面倒看る。あんたぁ、嫌なら出て行ってもええけん」


 庄治にして見れば、今、出ていけば差し当って、今夜の酒とねぐらに困る。この状況では、絹枝からさほど金も取れまい。娃子のことは、絹枝に責任があり、庄治が気に病むことはないが、それでも、酒がないのは困る。そこで、絹枝との入籍、娃子の養子縁組を承諾した。だが、後に、絹枝はこの入籍を後悔することとなる。

 何と、軍人の妻には恩給が貰えることになったのだ。それには、再婚していないことが条件だった。もう少し、早くそのことを知っていれば、入籍などしなかった。それもこれも、この娃子のせい…。

 この世に、どこを探しても、娃子ほどの疫病神はいないだろう。悔やんでも悔やみきれない絹枝だったが、それでも、毎日の暮らしは何も待ってはくれない。じっとはしていられない。

 思えば、庄治は洗い張り職人であり、その道具も持っていた。そこで、絹枝は娃子を背負い、洗い張りの注文を取って歩いた。絹枝には商才があり、また、職人としての庄治の腕も確かだった。従姉も縫いやすいと評価していた。

 ところが、それを誰かか「密告」し、ものすごい税金の支払い命令が来た。すぐに絹枝は税務署に駆け込んだ。


「こんなに、払えません」

「それなら、差し押さえますよ」

「ああ、差し押さえてくださいっ」


 翌日、税務署から差し押さえ要員がやって来たが、差し押さえる物とてない有様に、紙一枚貼らず、そのまま帰って行った。それで、家での洗い張りは止めたが、腕を見込まれた庄治はある店で働くことになった。絹枝はほっとした。庄治がこのまま働いてくれれば言うことはない。

 だが、数か月後、庄治は店をクビになる。庄治にしても、最初は訳がわからなかった。別に、しくじったことも、揉めたこともない。


「はあぁ。あいつ、覚えやがったんじゃ」


 技術は教えてもらうものではなく、盗んで覚えるものとされ、肝心なところはむやみと教えないものだが、お人好しでおだてに弱い庄治はちょっと酒でも振舞われれば、機嫌よくすべて教えてしまう。覚えてしまえば、もう、用はない。

 その間も絹枝は家でじっとしていたわけではなく、もう、鉄拾ひらいの真似事をしていた。その後、庄治はセメント担ぎの仕事に有り付くが、この頃から特に酒量が増え、仕事仲間を家に連れてきては、毎晩のように宴会が繰り広げられた。

 そのセメント担ぎの仕事もなくなれば、例によって家でゴロゴロ、たまに形だけ絹枝の鉄拾いの手伝いをした。絹枝が海の中で鉄や真鍮しんちゅうを拾い集めている時でさえ、娃子の側にいるだけだった。さらに、気に入らなければ暴力を振う。

 さすがの絹枝も、先の見ない、お先真っ暗な暮らしに心身ともに疲弊してしまう。今も庄治は酔いつぶれて眠っている。娃子も義務感で眠っていた。


----そうじゃ、娃子殺して、わしも死の…。


 それしかない、それが一番だ。何より、娃子のためでもある。こんな顔で生きていても、何一ついいことはない。それなら、いっそ、死んだ方がいい。そして、自分も死ねば、楽になる…。

 絹枝は娃子の首に手を回した。娃子はジタバタしたが、さらに力を込めて締めれば動かなくなった。


----人が死ぬのは、こんなにも呆気ないんか…。


 絹枝は立ち上がった。死に場所を求めて家を出れば、すぐに海だ。船溜まりをしばらく歩けば桟橋がある。そこで気が付いた。自分は泳げるのだった。

 それならと、今度は線路へと向かう。冷たい線路の上に横たわり、これで死ねるはずだった。だが、待っても待っても、汽車はやって来ない…。

 仕方なく、またも立ち上がった絹枝は歩き出すが、もう、行く当てとてない。自然と足は家に向かっていた。

 ひょっとしたら、これは夢かもしれない。そんな気がした。夢であってほしいと願いつつ、帰宅すれば、出ていく前と何も変わらない光景がそこにあった。

 いびきをかいて眠っている庄治。動かない娃子。

 ああ、もう、警察に行くしかない。それしかない。だから、そうしよう。だが、疲れてどうしようもない。一眠りして、朝になったら交番へ行こうと布団に横たわった。

 どれくらい眠っただろうか、ふと、目を開ければ、おもわず「ひっ」と叫び声を上げてしまう絹枝だった。

 絹枝の視界いっぱいに、恐ろしく醜悪なものが立ちはだかっていた。あまりの恐ろしさに身震いした。


----何と、とろしや。ここは、地獄か。


 だが、よく見れば、それは娃子だった。いつまでも起きてこない絹枝の顔を覗き込んでいたのだ。

 死んでない、娃子は死んでなかった…。


----なんと、おのれは、殺しても死なんのか !


 それほどにも、この自分を苦しめたいのか。いや、このままでは逆に、娃子に取り殺されるかもしれない。

 この世に、こんなにも恐ろしい餓鬼がいたとは…。

 すぐに、布団から出た絹枝は、真上から、娃子の頭を思い切り殴りつけた。あまりのことに、娃子は尻もちをつくが、すかさず足で蹴られまくる。

 そして、娃子の泣き声で、やっと、庄治が目を覚ますもまだ酔いの抜けきらない頭では、例によって、絹枝が娃子を怒っている程度のことでしかなく、また、眠ってしまった。

 それからの絹枝は容赦なく、娃子を殴った。それは娃子が言葉で状況説明できるようになるまで、頭を殴り、手をひねり上げ、サッカーボールのように蹴り飛ばした。それも、傷跡が残らない程度に。

 そうでもしなければ、絹枝の気が治まらない。世の中に、こんなにも恐ろしい人間、いや、人間ではない。化け物だ。こんな地獄の化け物が、いつも側にいて絹枝を苦しめるのだ。だから、殴って何が悪い。


「おお、泣け泣けえ ! 」


 娃子の泣き声は、絹枝にとっては手拍子のようなものでしかない。

 それ泣け、やれ泣け、もっと泣け !


 そして「気のすむまで」打擲ちょうちゃくした後は、娃子の口の中に食べ物を入れてやる。これは絹枝の免罪符でもあった。たまには、ちょっとやりすぎたと思わないでもない。だから、その後ろめたさを食べ物でカバーした。

 娃子だけではない。どこのガキも食い物には弱い。そこで、今日はリンゴを口に入れてやった。そのリンゴを娃子は目を白黒させながら食べている。下がった下瞼がさらに、下に引っ張られる様は、これはもう、不気味で滑稽ですらある。やっと、得意の冷笑が込み上げてきた。 

 こうでもしなければ、とてもじゃないが、やっていけない。生きていけない。 


 それを、やり切った。

 やっと、肩の荷が下りた。


 さて、これから、どうしてやろうか。





























 


 



  

 

 







 


















 

 






 

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