窓の外
六年生になると、そっくりそのままに教室も二階の真上へと持ち上がった。
そして「良い子の表彰」なるものがあった。各クラスの推薦から選ばれるそうだ。女教師が、成績とかではなくて誰かいないかと言えば、ある男子が一人の女子を推薦した。理由は、家の手伝いをよくすると言うものだった。彼女の家は肉、魚、野菜以外の食品を売る店だった。
推薦された中から、数人の男女子が選ばれた。彼女もその一員だった。だが、他のクラスからは、学級委員として評価された女子もいた。それなら、娃子は
だが、絹枝がこの表彰のことをほとんど知らなかったことが助かった。日頃から「念仏」のように言われる。
「オヤの言うことを聞け!オヤの言うこと聞いとったら間違いないんじゃ!オヤは間違ごうたことは言わん!」
娃子が良い子の表彰に選ばれなかったと言うことは、娃子がオヤの言うことを聞かないからである。
「あの子はオヤの言うこと、よう聞いて、家の手伝いようするけんじゃ。お前がオヤの言うことを聞かんけんよ」
「つまらん奴で」
と、例によって庄治も便乗怒りをしたことだろう。
ちなみに、表彰された彼女一家のその後だが、イモウトはやくざと交際。やくざ全盛期の頃である。繁華街のほとんどの店で只食いが出来たそうだ。また、ハハオヤはマゴのいる年になっての浮気やらで、一家はバラバラ。店もなくなった。
にわかに、校内があわただしくなった。何と他校の教師が見学に来ると言うのだ。それも大勢。特に六年生は、各クラスに教科の割り当てがあり、娃子のクラスは社会科だった。その日のために、同じ内容を繰り返しやらされたものだ。これには、さすがの娃子でも内容を覚えてしまう。その内容とは、中国の近代化についてだった。しかし、ここまでして、同じ内容の授業を繰り返してまで、この学校のレベルの高さをアピールしなければならないとは…。
だが、授業内容だけではない。校内清掃も義務付けられた。娃子に割り当てられたのは、校庭側の窓、一枠。
机の上に上がり、ガラスや桟を拭いていくのだが、問題は内側だけでなく、外側も拭けと言うものだった。手を伸ばして、出来るだけ拭こうとするが、娃子は恐くて仕方がなかった。これが廊下側の窓なら、恐くもなんともないが、ここは、この教室は二階なのだ。一つ、間違えれば落ちてしまう…。
娃子は決して高所恐怖症ではない。高いところは好きである。だが、断崖恐怖症とでもいうのだろうか。誰でも、断崖に行けば足が竦み、恐いと思うが、娃子は特に恐い。だから、海の岸壁近くにも行けない。
娃子は恐いと言いたかったが、そんなことを言えばサボりたいのだと思われてしまう。
----もう、先生に贔屓されてるもんだから、すぐ、調子にのって…。
同じく窓係の中に、あのバレエ女子がいた。彼女は嬉々として、窓のレールに足をのせ、せっせと拭いていた。だから、校庭側から見れば、彼女の窓は一目瞭然の美しさだった。
たった一日の他校の教師の見学のために…。
また、歯茎が腫れた。痛くて、ご飯も食べづらい。柔らかいものを食べて何とかしのいでいるのに、絹枝は知らん顔。そして、やっと歯医者に連れて行ってもらえることになったのだが、いざ、行こうとすれば、庄治が引き止める。
「歯医者行ったらのう。こう言うんで。わしのう、わしのう」
そんなことより、少しでも早く行きたいし、この状況ではものも言いたくない。
「お前は、わしのうもよう言わんのか。つまらん奴じゃ」
娃子は痛むほほを押さえたまま、立ち上がる。ほんとにどうでもいい、こんなこと…。
結局、またも、歯茎を切開することになった。子供の歯茎の腫れの原因は、そのほとんどが栄養不良である。だが、歯医者に連れてってもらった分は絹枝からきっちり取り返される。
娃子は小さい頃から、家に人がやって来るのが嫌だった。人が来れば必ず怒られる。何もしてないのに絹枝に怒られる。それも、気取って怒るのだ。
「そういうことを、してはいけません」
----ほう…。さすが、よう躾とるわ。
と、絹枝のその「躾ぶり」を見た大人たちは、感心しきりである。
さらに、絹枝の賢いところは、娃子の成長に合わせて話を替えられるところである。
娃子が側にいない時は、二言目には「娃子が、娃子が」と娃子の名を連呼し、如何に自分がいいハハオヤであるかをアピールする。だが、これが、娃子がいる時は打って変り、娃子の意外な一面を「披露」する。それは、ある時は、ちゃっかりしている。ある時は、恐れ、恐がり。ある時は、怒りっぽい。
「そんなんで、わしが娃子をなだめすかしたんじゃけん」
オイオイ、あんたになだめすかされたことなど、只の一度もないわ 。
それどころか、娃子が隣近所に文句ばかり言っている絹枝を半分、いさめたことがある。だが、話を聞いている大人は驚いている。この娃子に、そんな過激な一面があったとは…。
----この子、私らの前で見せる顔と、オヤの前で見せる顔が、全然、違うんだ…。
さらに、待ってました。極めつけの始まり始まり…。
「こないだも、腹、壊して医者に行ったら、注射見ただけで、やあれ !
只でさえ、絹枝の話は面白い。何でもない話でも、身振り手振りと共に、ブラックユーモアを込めつつ、それを底抜けの明るさで、人を笑わす話術を持っている。
笑わせてもらった人は、必ず言ったものだ。
「いい、オカアサンねえ」
娃子は黙っている。
----やっぱり。こんな子は、ひねくれてるわ…。
こんなにも、明るくて楽しいハハオヤにすら、きっと、文句を言うのだろう。
特にこの注射話は、いつにない大仰な身振り手振りでやってくれたものだから、聞いた人は笑いが止まらない。娃子がそれは、子供の頃の話と言っても、すぐに打ち消されてしまう。
「ううんうん、こないだこないだ。やあれ!」
人が笑えばさらに「やあれ」を連発した。人は笑いながらも、娃子軽蔑の目を向ける。
----いくら、注射が嫌いだからと言って、みっともない…。
そして、これらの話は瞬く間に広まる。
「まあ、あの子、注射がいやじゃ言うて、大暴れするんじゃと」
注射針使い回しの頃である。大人にとっても、注射とは痛いものだったが、それを小さな子供ならいざ知らず、五六年生になっても、泣き叫んで大暴れするとは…。
娃子の頭の中は一体どうなってるんだろう。
----この子、注射に気を取られるより、自分の顔のことは何とも思わんのかしら。私らには、そっちの方が気になるのに…。やっぱり、オヤに甘やかされるとこうなるんよねえ…。
オヤとはいいもんだ。世の中に、オヤほどいいものがあろうか…。
俗に乞食は三日やったらやめられないと言うが、オヤも三日やったらやめられないだろう。何しろ、この国では、オヤほどエライものはない。オヤがこの子はこうだと言えば、皆信じる。
オヤはオヤと言うだけで、それだけで尊敬される、また、されなければならないのだ。
そこへもって来て、実子でもない子を育てている。さらに、ひどい顔の子を育てている。そんなオヤは絶大な信用を得るのだ。だから、絹枝の言うところの「娃子話」をだれも信じて疑わない。
実際の話は、小学校に上がる前、腹痛で医者に言った。さすがに注射は恐かった。それでも、泣きそうになりながら耐えた。
第一、娃子は「やあれ」も「やれやれ」も一度として、そんな言葉を発したことはない。いくら、絹枝の代弁だとは言え「わしゃ」「恐ろしや」「ええ、せんでよう」こんな言葉も口にしたことは一度たりともない。
また、その時、絹枝は医者に言った。
「朝から魚食べるんですけえ」
「朝から、魚食べんのよ」
----あなたも大変ですのう。
----はい、私は、娘に甘いハハオヤです。
よその家では、朝は味噌汁と言うものを食べるらしいが、そんなものはない。絹枝はそんなもの作ったりしない。では、何を食べるのかと言えば、昨日の残り。煮つけだったり、しなしな天ぷらだったり、塩こぶだったりするが、焼き魚の残りがあれば、育ち盛りの娃子はつい食べる。
そんなことなど知る由もない医者は、娃子が朝から味噌汁の他に魚を一匹食べているとでも思ったことだろう。
そして、ひとしきり笑った客が帰れば、絹枝は娃子をチラ見する。
----ふん。言うちゃった言うちゃった。オヤの言うこと聞かんけん、こうなるんよ。ザマアミィ。
また、絹枝は何でも、口止めする。それも、目の前で手を横に振りながら、実に思わせぶりに言うのだ。
「言うな、言うなよ」
娃子も、それは庄治に知られたくない、知られたら何か具合が悪いのだろうと思い、黙っている。が、庄治は知っていた。それも、一度や二度のことではない。それなのに、絹枝は何かにつけて「言うな」と言う。たまらず、そのことを指摘する。
「ええじゃないか」
つまり、絹枝が庄治にしゃべるのはいいが、それを娃子が言ってはいけないと言うことらしい。また、庄治にも「娃子に言うな」と言う。だが、それはすぐにわかる。庄治はすぐに態度に出る。それこそ、いたずらっ子のような笑いが止まらない。
----やあい、こいつ、知らんのんでぇ、へへへっ
娃子は知らない、一人だけハネにしてやった。それが嬉しくて楽しくてたまらないのだ。
だが、そんなもの聞かなくても、前後の様子からしてすぐにわかる。別に大したことではない。絹枝にしても娃子や庄治の反応を楽しんでいるに過ぎないのだ。こんなバカバカしいことの相手をさせられる娃子の方が空しい…。
そして、娃子も初恋を経験する。彼の家も意外と近くだった。それでも、片側一車線の国道の反対側だったので、これまで接点がなかった。だが、五年生の時から同じクラスだったのに、ここに来て、そういう感情が芽生えるとは…。
六年生も終わりに差し掛かると、クラスで謝恩会が行われることになり、コーヒーカップを持って来るようにと言われた。
家には、そんなものはなかった。当然、絹枝が買ってくれる筈もない。
「湯呑、持って行きゃあ、ええんよの」
仕方なく、娃子は湯呑と小皿を持って行く。この時、彼は娃子の前の席だった。ヤカンが回ってきて、砂糖の入った無骨な湯呑にお湯を注いでいると、彼が後ろを向いて行った。
「わぁ、おいしそう」
と、彼の屈託なさに、娃子は思わず泣きそうになった。只でさえ、無骨な湯飲みとふちが波打った小皿が恥ずかしかった…。
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