濡れた衣
また、濡れてる。
もう少しで、乾くと思ったのに…。
そんなある日、娃子がセルロイドの起き上がりこぼしを火鉢の中に入れてしまった。
セルロイドとは、歴史上初めての人工的に合成されたプラスチック素材である。
1856年にイギリス人のアレキサンダー・パークスによって発明された、ニトロセルロースと樟脳を合成することで作られたものであるが、熱に弱く非常に燃えやすいもので、当時これによる事故はかなり起きている。
娃子は顔面に炎を浴びてしまった。
絹枝はすぐに病院に駆け込んだが、人は体の三分の一に火傷を負えば、死ぬこともある。娃子は顔だけとはいえ、一歳になったばかりの赤ん坊ではそれこそ命にかかわる。何度も死にかけたが、幸か不幸か娃子は一命を取り止めた。
いや、取り止めてしまった。
だが、命と引き換えに、顔面いっぱいケロイドになってしまう。
そのことにより、道を歩けば、子供ということもあり、容赦ない視線や耐え難い言葉を浴びせられたものだ。それは今も続いている。これからも続く。
皆、最初は驚きつつも、ぞっとする。
----こんな子がいるなんて…。
だが、そこは怖いもの見たさ。先ずは娃子の顔を近くでじっくり見たい。次に、どうしてこうなったのかその経緯を知りたい。
こんな珍しいこと、見過ごさずに、その訳を聞かずにおらりょうかと、好奇心満載で近づいてくる。
そして、人は何より、オヤの心配をする。
「こんな子を持ったオヤは大変よ」
そうなのだ。我が子でさえ大変なのに、こんな異形の子を持ったオヤはさぞかし…。
その時の絹枝の得意げな顔。こんな子を育てている自分。誰よりも苦労をしている素晴らしい自分。庄治でさえ、例のニタニタ顔で娃子を連れ回したものだ。
だが、立ち話では、そう深くは聞けない。それ以上に好奇心を抑えられない者は、家までやって来た。
大筋はこうである。
当時は
「娃子は、
それでも、危ないので火鉢は部屋の隅に押しやっていた。
「そこへ、いざって行ったんじゃろう」
そして、セルロイドのおもちゃを自分で火鉢に投げ込んでしまった。
気が付いたときには。
「もう、火の手が天井まで上がってぇ」
ここが最大の見せ場である。
両手で火の燃え上がった様子を、絹枝は目をひん剥いての熱演である。
観客は、息をのんで聞いている。
当時、ペニシリンが一本、三千円。娃子の命を助けるためには金を惜しまなかった。
「もう、着物から帯まで、家財道具一切がっさい売って、裸になりましたわ」
「うぅーーん。うぅーーん」
と、観客は大きなうなづきを止めない。
旅芝居が好きな絹枝は、千両役者になったかのように演じるが、所詮は素人芝居、いや、それ以下である。観客はいつも、二、三人止まり。
だが、たった一人の観客に対しても、絹枝は決して手を抜かない。いや、酔ったように演じる。最後に、観客は拍手代わりに言う。
「まあ、苦労されたのねえ。だから、娃子ちゃんがこんないい子になって…」
と、皆、絹枝への賛辞を惜しまない。
だが、この話、ちょっと冷静になれば、おかしいところがあるのだが、娃子と言う現実の前では、そんな疑問を持つ者など誰一人いなかった。特に医者は娃子の顔を見ながら、興味深そうに聞いていた。
そんな絹枝が唯一嫌う「観客」がいる。それは、布教師である。娃子を見れば、これぞ、わが宗教の信者を増やす絶好のチャンスとばかりに付いて来る。絹枝は露骨に嫌な顔をし、その布教師が帰った後に怒られたものだ。
「なんで、あんなもん、連れて来るんない!」
連れて来たのでなく、勝手に付いて来たのだ。
「そん時ゃ、うちはええけん帰ってくらい言わんかいっ」
例え、子供がそんなことを言ったところで、大人しく引き下がるような布教師ではない。だが、最初はそれこそ意気揚々と乗り込んで来た布教師も、信仰心の
それを娃子は子供心にも、何だ、もう来ないのかと思った。あれほど信仰の素晴らしさを力説していたのに、それほど絹枝は「強敵」だったと言うことか。
だが、娃子が少し成長すれば、じろじろ見るだけでなく、引き留められる。その方が手っ取り早い。
「あんた、その顔どしたん」
娃子は言いたくない。
「火傷」「セルロイド」と言う言葉を口にしたくない。だが、説明するまで大人は離してくれない。その間も娃子の顔から目を離さない。いや、穴の開くほどに覗き込む。
さあ、こんな珍しいもの、とっくり見てやらいでか。
その点、子供は直接的である。
「オバケ、オバケ!」
と、
そして、絹枝に引っ張られ小学校の門に足を踏み入れれば、それこそ一斉に視線を浴びてしまう。
当然、誰もがハッとする。話には聞いていたが、実際に目にすれば、その衝撃は大きかった。
この国の人間は、異形を拒否する。特に、それが顔であればなおのこと。手や足の障害なら、まだ受け入れられるが、この顔では、どうしようもない。確かにかわいそうだけど、いや、本当のところ気持ち悪い。出来れば、こんな顔見たくない。もう、生理的にいや !
教師はそれこそ、貧乏クジどころか厄クジを引き当ててしまったことに
----これが、我が子だったら…。
ああ、そんなことは、想像すらしたくない。
なのに、このオヤには着るものは粗末でも、堂々としている。だが、オヤの苦労には同情するが、それでも、我が子と同じクラスにならないでほしかった。友達と楽しく勉強してほしいのに、こんな子と一緒では先が思いやられる…。
----どうせ、根性曲りのどうしようもない子よ。うちの子に、変な影響がなければいいけど…。ああ、
一方の娃子はと言えば、何の予備知識もなく、いや、幼稚園も保育所にも行かぬまま、突然押し込まれた学校と言う大きな檻の中。その時、これはとんでもない所へ放り込まれたものだと思った。
別に学校に限らず、娃子はそれが自分の置かれた現状であることはわかっている。どこへ行っても、顔をじろじろ見られることは、日常茶飯事であるが、ここでは、何をどうしていいのか全くわからない。
入学式の時、ゆったりした緑色のワンピースを着た大柄な女の子から「オバケ、オバケ」と言われた。他の子供たちにしても、衝撃のあまり、最初は誰もが娃子を遠巻きにし、話しかける者すらいなかった。それでも、学校と言うところは、大人しくしていれば、そう、悪く言われることはない。
面談の時には、教師は絹枝にそれこそ、最大限の敬意を払って言ったものだ。
「まあ、お宅ではどういう教育をされてるんですか。本当に大人しい素直なお子さんで…」
この時の絹枝の誇らしげな顔。待ってましたとばかりに、絹枝の口の右端がつり上がり、そして、おもむろに小見得を切る。
だが、旅芝居にも、見得もどきの演技がある。お決まりの台詞を声を張り上げ、大仰に体の動きを止める。さすがに、絹枝はそこまでのことはしないが、体は一瞬停止する。そして、お得意の決まり文句を発する。
「わたしら、苦労したんですよ」
その後は大仰な身振りとともに語りだす。絹枝も「わし」と「わたし」の使い分けくらい出来る。何より、今、目の前にいるのは小学校の女教師なのだ。普通の主婦の何倍もの語り甲斐があった。その教師が尊敬のなまざしで絹枝を見つめている。ここで、張り切らねば、今までの苦労に少しでも報いてもらわねば。そんな絹枝の思惑通り、涙する女教師だった。
同じく子を持つハハであり、これがわが子ならと、いや、実子でもないのに、ここまでのことが出来るとは…。
だが、絹枝はさらに追い打ちをかける。
「先生、悪いことしたら、殴ってやってください」
教師はこれまた耳を疑う。
----まあ、こんな子を殴ってもいいだなんて。何なの、このハハオヤの、この尊い厳しさは…。
体罰が容認されていた時代。オヤも教師も平気で子を殴ったものだが、例え、娃子が我が子であっても、こんな不憫な子、とても殴れるものではない。なのに、それを許容する絹枝の心の広さ…。
だから、娃子がこんないい子に育ったのだ。
いや、教師に殴ってもいいと言うことは、先ずはそのオヤが殴ってるから、そう言うのであって、そうでなければ、代わりに殴ってくれと言うオヤがいるだろうか。だが、すっかり絹枝に心酔している教師がそのことに気づく筈もなかった。
教師は娃子の席の近くに、大人しそうな子を配置してくれ、少しずつ話もするようになってきたが、それでも、うまくコミュケーションがとれない。なぜなら、娃子は吃音でもあった。
おかしいのだ。なぜか、喉の周囲にジリジリとしたバリアーが感じられ、息が思うようにつながっていかないのだ。当然そのことでもいじめられた。顔が気持ち悪いだけでなく、言葉もうまく発音できないとは…。
そんなある日、男子二人がニタニタ笑いながら鉛筆で、娃子の顔を突いて来た。突いた一人は娃子に「(オヤが)
「娃子ちゃん、顔に穴、開いとるよ」
翌日、絹枝は担任教師にくってかかる。そのことで授業は中断され、クラスのほとんどが「やれやれ、また始まった」という目で見ていた。
そうなのだ。娃子の顔の皮膚は人とは違う。表面はまだ柔らかく、冬になれば、顔色が紫色になり、絹枝はクリームを塗ってやったりしていた。
それだけではない。赤ん坊の時の火傷は娃子の顔の骨格すら変えた。皮膚が引き
それにしても、娃子の学年はすごかった。娃子を筆頭に、足の悪い子が二人。
だが、教師にとっても同級生にとっても、娃子が一番の醜悪ジョーカーであり、どうしようもない異分子でしかなかった。誰も、担任になりたくない。同クラスにもなりたくない。なってしまえば、運が悪かったとあきらめるしかない。
濡れ衣を着ているような毎日。
この気持ち悪さ…。
何とか乾かそうと必死でそれに耐え、後少しで乾くと思ったら、次の瞬間、また、濡れている…。
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