誰も知らない 二

 人を殺すとは、どういうことだろう…。

 やってみれば、案外、簡単なことかもしれない。

 絹枝に対する殺意はこの時が初めてではない。震えるほどの怒りのあまり、側にあった果物ナイフを握りしめ、絹枝に向けたことがある。その時、絹枝は平然としていた。


----ふん、ガキが。やれるもんなら、やってみい!


 庄治の方が幾分びびって、娃子あいこなだめたものだ。


 そして、今…。

 よくも、よくも……。

 よくも、ぬかせたものだ。

 今までも絹枝の身勝手さに散々、振り回されてきた。

 それでも、もんぺと地下足袋で、きつい仕事をしていることを思えば何も言えなくなってしまう。

 だから、無意味な怒鳴り声にも、暴力にも耐えてきた。

 絹枝が何か文句を言わない日は半日たりとてない。いや、常に娃子の一挙手一投足に目を光らせ、例によって、あれもダメこれもダメ。あれをするなこれもするな。あれをしろこれもしろ。また、それらのことはいつも気まぐれにコロコロ変わるくせに、気に入らない時は罵倒する。

 いやいや、この程度なら、まだ、いい…。

 もう、娃子のすべてを否定するのだ。

 何でも、否定する。

 娃子のやりたいこと、やりたくないこと。

 いや、人間性そのものすら。


 そうなのだ。絹枝にとって、娃子など、人間ではない。実際のところ、金のかかるバケモノでしかない。

 そのバケモノが、飽きもせず鏡を見ているのだ。これはもう、滑稽と言うしかない。だから、絹枝は当たり前のことを言ったまでである。それも、誰が聞いても、バカバカしいくらい当然のことではないか。何なら、今、その辺の人を呼んで、事の顛末を話してやろうか。

 さすれば、それを聞いた、誰もが呆れ返って笑い転げることだろう。何なら、もう一度、いや、何度でも言ってやる。


「鏡ばっかり見て、お前、そんなにベッピンかあ」


 よく言えたものだ。

 こんなこと、よく言えたものだ。

 

 ぶっ殺してやる、ぶっ殺してやる…。


 ぶっ殺してやる!!


 こんなオヤ、殺して何が悪い。


 庄治の視姦と、絹枝に対する殺意。


 このことは、誰にも言ったことはない。


 誰も知らないことである。


 誰も…。







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