第三章

誰も知らない 一

 娃子あいこが初潮を迎えたのは、中一の十月だった。娃子より、少し背の低い峰子の方が二ヶ月早かった。


「意外と遅いね」


 と、峰子も言ったが、後で気が付いた。そのとき峰子は13歳、娃子は12歳だった。

 初潮のことは庄治には気づかれぬようにしていが、すぐに嗅ぎつけられた。ちょうどその頃、近所の男の子も変声期を迎えていた。


「ほう、あの子も、声変わりじゃ」


 と、絹枝が言えば、すかさず庄治も言った。


「娃子も変わったで」

「あんたア、なに言うとんの。娃子は女の子じゃ、女の子は変わりゃあせんわ」


 絹枝は庄治の言葉をにべもなくはねつけたが、娃子は庄治の言っている意味がわかる気がした。

  

 娃子の初潮に気付いてからの庄治は、例のニタニタ笑いとともに、明らかに娃子を見る目付きが変った。

 娃子は、当時の庄治と絹枝の年齢をはっきりとは知らないが、後になって考えてみれば二人とも50代。

 色白の絹枝と対照的に庄治は地黒で、さらに長年の酒でギトギトの脂顔の延長上にある坊主頭は一種異様だった。なぜ、庄治が坊主頭になったかと言えば、セメント担ぎの仕事をしていた頃、絹枝が勧めたそうだ。それから、ずっと坊主頭である。以前は一升酒を飲んだ後でも平気で銭湯に行っていた庄治だが、その時、なぜかタオルを頭に巻いていく。

 娃子はそれが嫌でならなかった。それこそ、黒いタコ入道が少し与太りながら歩く気味悪さ。さすがに今はそれはしなくなったが、別に娃子に嫌われたからではない。

 酒を飲むこと以外の庄治の関心は大人の女である。まして、よその子供のことなど、取り立てて気にもしないが、さすがに、娃子と同年代の子供の視線に気づく。何と、その子たちが、庄治のタコ入道姿を奇異の目で見たり、笑ったりしていたのだ。それで、タオルを頭に巻くのだけは止めたと言う訳である。

 一方の大人の女への関心はと言えば、先ずは家の筋隣りの二号さんだった。

 二号といえば、昼間から風呂に行き、お手当てをもらって優雅に暮らしている女性を想像するが、その二号のおばさんは化粧気もなく、近くの花かつお工場で働いている人だった。たまに、ダンナが自転車でやってくる。そのときには何か色々持って来るらしい。

 絹枝は知らないが、庄治はせっせとそのおばさんのとこへ言って話し込んでいた、とは言っても全く相手にされないままに、元から口の軽い庄治は、その二号さんの気を引くため、娃子のことも洗いざらいしゃべってしまう。一応お決まりの口止めはして置くが、これも口だけのことであり、そのおばさんは、早速にそれを工場に行って話す。

 だが、それらのことは回り回って、やがては娃子の耳に入ってくる。

 もっとも、絹枝も仕事仲間に、それを匂わせていた。


「まあ!そしたら、ひょっとして、娃子ちゃんは…」

「しっ!言うたらだめよ。娃子は知らんのじゃけえ」


 この点はどっちもどっちである。

 だが、隣の二号のおばさんに全く相手にされなかった庄治に、新しい女が現れた。

 絹枝も仕事で疲れているせいもあり、食卓には出来合いのものが並ぶようになった。近くに総菜屋が出来てからはいつの間にか天ぷら鍋も消えていた。

 そして、また、小さな揚げ物屋が出来た。

 その店のおばさんは、娃子のような子供でも水商売上がりとわかるような如才ない人だった。ひっつめ髪に割烹着姿だが、とにかく愛想がいい。

 いつも笑顔で、体をくねらせながら「まあ、大将!」と、駈け寄ってくれば、これだけで、庄治は大ニコニコなのだ。

 このおばさんは誰に対してもそうなのだが、庄治はこれを誤解していた。


----はあ、ありゃ、わしに気があるんじゃ。


 しげしげとその店に通うも、揚げ物屋とはいえ、庄治にそんなに金があるはずもなく、いつも歯がゆい思いをしていた。


----わしに、金があったらのう。


 だが、その店もいつの間にかなくなっていた。

 しかし、ふと気が付けば、娃子が成長していた。それもこんな近くに、手を伸ばせば届くところに、格好の女がいる。

 まだ、中学生。ちょっと早い、いや決して早くはない。女は女だ。

 これから、ゆっくりとリョウリすればいい。

 それから娃子の何より情けなくもつらい、庄治の視姦とが始まった。


「カアチャンはのう、もう、男になってしもうた」


 などと言い、わざと下着をずらせ裸体を見せつけたり、バナナやウインナーから、連想されることを言い、娃子の反応を楽しむ。

 ただでさえ気持ち悪いのに、ちょっと気を許せば、どうなるかわからない日々の連続だった。

 娃子とて、何もしなかったわけではない。とはいっても狭い家、着替えするための隠れる場所とてない。

 しかたなく布団の中で着替えていれば、絹枝に。


「行儀悪い!」


 と、怒鳴られる。

 夏になれば裸同然の絹枝に、行儀が悪いと言われるのも心外だが、それではどうすればいいのか。


「堂々と、着替えや!」


 仕方なく、娃子は庄治のことを伝えてみた。


「そんなら、一緒に寝んかい言うたんか!」


 その後も逆に聞くに堪えない言葉を浴びせられたものだ。


「娃子に手え掛けたら承知せん、手え掛けたら承知せん」


 と、絹枝はいかにも正義感たっぷりの態で言うが、承知せんと言うことは、どう言うことだろう。まさか殺すということか。

 そんなことはない。

 絹枝が娃子のために殺人をするなど、すべての人類が武器を持って戦いを始めたとてありえないことだ。また、現実に子のために人を殺したオヤがいるだろうか…。

 娃子は自分の身は自分で守るしかなかった。

 誰が、あんな気持ち悪い庄治の餌食になどなってたまるか。

 世の中には実父に犯された娘もいると聞くが、そんなことは絶対!嫌だ。

 そのためには、庄治に隙を見せないことだ。先ずは距離を取ること。物理的、感情的にも決して近寄らせない。もっとも、近寄られただけでも気持ち悪いが、何といっても、狭い家である。近寄らせないために、わざと庄治を怒らせることもあった。

 ちょっと甘い顔を見せれば、すぐにも待ってましたとばかりに襲ってくるだろう。だから、娃子は庄治に対してすぐに怒るか、無視のどちらかで「対抗」したものだ。だが、庄治にも年を経ただけの老獪さがあり、そのことに気付く。


「お前はケンカがしたいんじゃ」

 

 絹枝はその様子をニタニタしながら見ている、そして。


「この頃は庄治と娃子がようケンカしてから」

 

と、これまた近所の人に話して回る。


「娃子ちゃんも、口が立つようになったね」


 近所のおばさんたちから、そう陰口を叩かれているのを娃子は知っている。

 しかし、誰にナニを言われようと、庄治とのケンカをやめるわけにはいかない。

 攻撃は最大の防御である。

 こんなことは、口にするのもおぞましい。また、恥ずかしくて、誰にも言えない。仮に誰かに「相談」したとしても、所詮は他人事である。逆に面白がられて吹聴されるのがオチである。

 だから、娃子は誰にも言ったことはない。

 誰も知らないことである。

 そして、今夜も娃子の金切り声は響く…。


 娃子の必死の「抵抗」により、一応、事なきを得るのだが、その要因はいくつかある。

 先ずは、逆に隠れる場もない程狭い家が幸いしたかもしれない。すぐに逃げ出せる。また、庄治に外に連れ出すような金もない。さらに、同調者がいなかったこと。けしかけられれば、これまた、すぐに調子に乗るが、所詮は一人では何も出来ない。

 何より、思った以上に娃子が強く、庄治が小心者だったこと。また、庄治の老化も早かった。

 例によって、絹枝が庄治に文句を言えば。


「夫婦の力がなったら、そんなに言わなならんのか」


 極めつけは。


「オ〇〇せんけんじゃろうが」


 娃子が近くにいても、平気で言うのである。

 それでも、何事もなく終わったから、それでよかったとされるかもしれないが、思い出したくもない、屈辱にまみれた長い年月だった。


 誰も知らないことはまだある。

 これはずっと後になってからわかったことだが、娃子の肋骨にひびが入った跡がある。また、それは、豊かな髪に隠れてわからないが、娃子の頭頂部は陥没している。

 虐待といえば体中にあざや傷跡が残るような事を連想するが、絹枝はそんなことはしない。

 幼児の頭はちょうど叩きやすい位置にある。ちょっとでも気に入らないことがあれば、絹枝はまず娃子の頭を叩く。そのときに、頭がくらくらっとしたのを覚えている。

 そして、手をひねり上げたり、足蹴にするが、決して体に跡が残るようなことはしない。

 それは娃子がはっきりと意思を伝えられる言語を発するまでは続いた。

 その年齢では記憶に残らないと思ってのことだが、娃子は覚えている。体が覚えている。また、ある時、不意にその情景に襲われてしまうこともある。 

 そして、娃子が言葉を話すようになれば、体への暴力はなくなったものの、頭を叩くことだけは止めなかった。さらに、夜叉のような形相とダミ声でひどい言葉を浴びせたものだ。

 

「お前はダメじゃお前はダメじゃ」

 

 この念仏は今も続いていることであり、その後も座っているときに突然頭を殴られたことも一度や二度ではない。


「殴るど!」


 これが絹枝の常套句であった。

 だから、娃子の頭の陥没はまだ頭が柔らかい頃、頭の上から殴られたことにより出来たものだと思っている。  

 何かの事故によるものならば絹枝が黙っているはずがない。やれ、あの時は大変だったとか言うはずである。

 まだ、不可解なことはあるが、それが明らかになってくるのはやはりずっと先のことである。


 いやいや、これらのことはまだ何とか、回避出来たが、どうにもならないこともある。

 その時、娃子は鏡の前にいた。娃子が鏡の前に座ると長い。確かに、器用に髪をアップにするが、それが終わってもまだ座っている。

 もう、絹枝は呆れるしかない…。


「鏡ばっかり見て、お前、そんなにベッピンかあ」



殺してやる!!!


 


 












 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る