バケツの中
----なんや、そやったんか。そやから、こんなに怒るねんな。それやったら、うちも負けへんわ!
茂子が自分が養女であることを知ったのは、高校入学時だった。
「早よ、起きやあ。早よ、寝えや」
子供の頃から、これが朝夕の挨拶であり、朝ご飯を食べている時から、学校へ行くまでの間、一々指図される。
「そんなん、わかってるって。今やろうとしてたとこや」
「何でもええよって、早よしっ」
「毎日毎日、うるさいわ」
「また、そんな、口答えしてから!お前がちゃんとせえへんからやないか!」
と、とにかく、うるさい。秀子も怒ることが教育だと思っている。怒らなければ、子供は言うことを聞かない、言うことを聞かないから怒る、怒られるのだといくら言って聞かせてもわからない。だから、怒り続ける。
「もう、何でも、茂子やからな」
また、何か不都合、特に物が見当たらなくなれば、すぐに茂子と決めつけられ、後でそれが見つかれば、それでいい。例え、そのことに文句を言ったとしても、適当にはぐらかされ、いつの間にか、説教へとすり変わってしまうのがオチである。
「そやから、人さんにようしといたら、それが自分に返って来るねん」
「そない言うたかて、オカアチャンかて、してることと、言うてることちゃうやんか。口では何とでも言えるわ。ほんま、大人て、勝手やわ」
「また、お前はろくでもない事ばかり言うてからに!」
「そやから、もう、うるさいて!」
----なんや、絹枝のオバチャンから借りた金、返しもせんくせにオバチャンのこと、なんて言うた。おなごしやて言うてるやんか。
何より、嫌なのが、
毎日、怒られるだけでも気分が悪いのに、さらには、かなり年下の娃子と比べられることが余計にも茂子を反抗的にさせてしまう。
娃子も養女であることは知っているし、大人しいいい子であることも認めるけど、あんな年の離れた子供と比較されて、文句を言われるとは、まったくもって面白くない。
----そら、絹枝のオバチャンの子やもん。あんなやさしいオバチャンがオヤなら、そら、誰かて、ええ子になるわ。ならいでか!
茂子は絹枝が大好きだった。いつもニコニコして、面白いことを言って笑わせてくれ、おいしいものをいっぱい食べさせてくれた。だから、小さい頃は絹枝がやって来ると、すぐに押し入れから背負い紐を出して来た。絹枝に背負ってもらって、三重県の田舎に行くことが、毎日秀子から怒られる暮らしの中で唯一の救いだった。
「オバチャンが、オカアチャンやったらええのに…」
だが、数年後、絹枝にも娃子と言う子供が出来た。
「もう、うちより、娃子ちゃんやなあ…。娃子ちゃん、ええなあ…」
娃子は茂子の年齢をはっきりとは知らない。多分、十歳以上離れていたと思う。
それにしても、自分が養女であることに高校生になるまで気がつかなかったとは…。
娃子にしてみれば、これはもう、滑稽と言うしかない。それほど大事に育てられたわけでもなく、娃子同様、毎日怒られまくっただろうに、そんな日常のどこから、秀子の何からオヤと認識したのだろう。
そんな茂子に、娃子は庄治と同じ能天気さを感じていた。
いや、絹枝が茂子を怒らなかったのは、責任がないからである。所詮は他人の子であり、秀子の養女である。どうなろうと知ったことではない。
これを茂子はやさしさと勘違いしているに過ぎない。また、茂子が秀子に引き取られたのは、娃子のように赤ん坊の頃ではない。恒男が言っていた。
「茂子はここへ来てから、三日間泣いてたわ」
その時の記憶すらないのか。いや、ちょっと考えれば気がつきそうなものだ。リョウシンがともに地黒なのに、自分だけが色白ぽっちゃり。これだけでもおかしいとは思わなかったのだろうか。リョウシンのどこにも似てない自分がおかしいとは思わなかったのだろうか。さらに、実のオジである恒男は日頃は物静かで落ち着いた感じにみえるが、人の自尊心を傷つけるような言葉を平気で言うのだ。そのくせ、普段は誰に対しても無関心。
それでも、高校卒業後は秀子に言われるままに昼は美容学校、夜は洋裁学校にも通っていた時期があるが、この頃から夜遊びはひどくなったものの、美容師の資格は取った。
「あれはひどかったわ。ローションはこぼすし、櫛は落とすし、とにかく、何や、だらーとした態度やったわ」
茂子の美容師免許試験の時の実技モデルは妙子だった。それでも、茂子は合格した。これは秀子がウラでもらったものである。もっとも、これすら、秀子は自慢する。自分にはそれだけの力がある。顔が効く。
そんな状態だから、茂子がパーマをかけると、かかってないと苦情が来る。当時のパーマと言えば、チリチリにかけるのが普通だった。秀子が見てみれば、確かにかかってない。そして、今一度かけ直し、その時には、セット代だけもらっていた。
それをいくら注意しても、どこ吹く風の茂子はプチ家出をするようになる。気が向けば、家に帰って来る。また、ふらりと出て行くが、その都度、家のものを持ち出しては売る。いや、時にはとんでもないことも仕出かす。
この家の風呂は外にあり、妙子たちももらい風呂をしていた。当然盆暮れにはビールを届けていた。そんなある日、妙子の妹がやって来た。別にこの時が初めてでもなく、いつものように妹も風呂に入ったが、腕時計を風呂場の棚に置き忘れたことに気が付き、風呂場に行ってみれば中から茂子の歌声が聞こえた。ソプラノのいい声で歌っていた。妹はそのまま引き返し、茂子が風呂から上がった頃を見計らって再度風呂場に行ってみるが、腕時計はなかった。
それでも、一応訪ねてみた。
「そんなん、うち、知らん」
「この当たりに、落ちてんやないか」
と、秀子と恒男は風呂の焚口の当たりをわざとらしく探し始めるが、見つかるはずもなかった。
「もう、諦め」
妙子は妹に言った。これが、持つ者と持たざる者との違いである。いくら家賃を払っているとはいえ、そこは、家主の方が絶対的優位である。特に秀子には今まで、どれだけ只働きをさせられたことか。
酒は飲まないが、人を呼び歌ったり踊ったりして騒ぐのが好きな秀子である。そして、その都度、妙子に声がかかる。材料の下ごしらえなど当然のように手伝わされたものだ。なのに、寿司の一皿とてご相伴に預かったことは一度たりともない。
そんな手伝いと、時計の紛失は別のことであるにしても、そこは、借家人の辛さである。
だが、娃子も衝撃の光景を目にする。何と、秀子が茂子の下着を手洗いしていた。それもただの下着ではない。
茂子は家事をしない。いや、何も出来ない。また、する気もない。それでも、さすがの娃子も、これはない…。
秀子が洗っていたのは、茂子の生理の血が付いた下着だった。茂子は血の付いた下着をバケツの中に入れ、上から水を張る。それ位のことはする。だが、そのままにして、また、家を出て行く。
それでも、秀子は茂子に何度も見合いを勧めるが、すべてまとまらず、一方で茂子は放蕩の限りをし、中絶も売春も平気だった。
そんな状態が続いていたが、ある時、茂子は結婚相手を連れてきた。娃子も会ったが、水商売風の男であるにしても、感じのいい中年男性だった。事実遊技場の経営者であり在日であることに、恒男は引っかかっていたが、そんなことはたいした問題ではない。これで茂子が落ち着いてくれればの思いで承諾した。
だが、この結婚生活も長くは続かなかった。茂子には貞操観念と言うものが全くなく、その時の気分で、平気で誰とでも寝る。当然離婚となる。
さすがの恒男もこれから先が思いやられた。今後、もし、茂子がやくざ者とでもかかわりを持てば、この家とてどうなるものかわからない。恒男は秀子に離婚を切り出した。
何といっても、茂子は自分の姪である。その姪の所業に頭を悩ませはしたが、結局のところ、酒に逃げてしまった。それでも、すべてを秀子に押し付けた後ろめたさくらいは持っている。このままではいけない。
だが、秀子は恒男との離婚より、茂子との養子縁組解消を選んだ。これも別に恒男に未練があったわけでもなく、やはり、形だけでも夫がいるのといないのでは、世間の目が違う。
秀子は茂子との養子縁組を解消することにした。
とは言っても、今までと何ら変わりはない。ただ、家出の期間が長くなったにすぎない。また、茂子もよその美容院で働いたことはあるが、長続きするはずもなかった。
「うちはな、年寄りの髪結うて免許取ったんやさかい、若いもんの髪よう結わんわ」
秀子の店の客のほとんどは年寄りだった。カットの客など皆無に等しく、秀子自身も、学生カットすら苦手にしていた。その代わり、髪の毛がほとんど抜けてしまった高齢者に
だが、何ということだ。茂子は脳梅毒に罹り、町をうろついているところを保護され、病院送りとなり、今もって精神病院に入ったままである。
「オバチャン、ここにいてたら、頭おかしゅうなるで」
と、妙子に言っていたそうだが、実際におかしくなってしまった。
秀子は月に一度、面会に行く。貝塚まで電車を乗り継ぎ、片道2時間、その時は誰かと一緒に行く。主に則子だったが、今は正男やその末娘の博美となっている。
そして、面会に行けば、折り返し茂子からハガキが来る。
『私は面会だけがたのしみです。面会にきてください。もってきてほしいもの。すし、おまん、くだもの』
と、毎回同じような文面のハガキが、部屋の至るところに捨て置かれたままだ。
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