流れず止まず 三

「子供が、酒飲むかい」


 やはり、娃子あいこは何もわかってない。大人だから、酒を飲むのであり、パチンコをし、女と遊ぶのだ。それが、男であり、大人なのだ。それが世の道理なのに、娃子は庄治を子供だと言った。

 酒もタバコもギャンブルもやらない男など、本当の男とは言えない。大人とも言わない。それでは世間の笑いものになってしまう。いやいや、時には庄治も反省する。やりすぎたなと思えばちゃんと反省している。それこそ、涙ながらに反省しているではないか。それをいつまでも、ぐちぐちと…。

 男の少しくらいの遊びはおおらかな気持ちで受け止めるのが女であり、それが大和撫子ではないか。

 

----今にわからせてやる。覚えとけ!


 子供とは、一体何者だろう。

 この世に生を受け、大人になるための過程にしか過ぎないのだが、その過程は様々である。その全権はオヤ、大人に握られ、大人の都合に振り回されるだけの存在なのか。庄治でさえ言う。


「煮て食おうと、焼いて食おうとオヤの勝手じゃ」


 そして、何はともあれ、大人になってしまえば、いや、子供時代を何とかやり過ごせば、年数さえ経てば、大人と言う者になり、世間を大手を振って歩ける。そして、自分の子供時代のことは棚に上げ、子供に「訓辞」を垂れる。

 絹枝はおしゃべり女というほどではないが、話好きである。だが、絹枝の話は。いつも、唐突に話し始める。娃子は急いで頭を巡らさなければならない。それは、いつの時の、どの話であるのか。

 十年以上も絹枝と一緒に暮らしていれば、少しは絹枝の言わんとすることが何であるか、わかるようになっては来たが、それでも、さっぱりわからない時もある。

 娃子は、絹枝とも庄治ともあまり話はしたくはない。絹枝はいつもうるさく、何かにつけて文句をいい、すぐに怒り出す。

 庄治はいつもニタニタと気持ち悪いし、はっきり言ってものを知らない。己の不運はすべて学歴のなさで片付けてしまう。

 兵隊に行っても中々出世できなかったのは確かに学歴のせいもあったが、戦後も何の努力もせぬまま今日に至っている。


「わしら、学校行っとらんけんの。わしでも学校いっといたら、もっとどうにかなっとるわ」


 世の中には庄治のように小学校もロクに出てなくても、立派な人はいる。


「そら、あの人ら、運が良かったんよ。世の中は運じゃけんの」

 

 と、意味ありげに娃子を見て、例のニタニタ笑いをする。

 娃子は庄治のことはほとんど無視している。庄治と話をしたからといって、得るものなど何もない。逆に損した気分になる。

 絹枝の話もたいしたことはないが、ある程度聞いておかないと今後のこともある。だが、絹枝の話もあやふやでしかない。まず、物事を順序立てて話すとかの頭の働きはない。

 いつでも唐突に話し始め、さらに、断片的でしかない。そして、いつしか、話はとんでもない方向に行っている。それらの話の前後を拾い集めて、娃子が判断するに要は己の自慢話であった。

 子供のころ家が貧しく、その上、絹枝は病弱だった。それがある時、チフスに罹ってしまうが、ハハオヤが隔離し、近くのお堂に日参して助かったそうだ。

 何とか健康を回復した絹枝が近所の三味線の師匠に可愛がられ、見よう見まねで三味線が弾けるようになれば、周囲は芸者に出せと言った。だが、ハハオヤは頑として「芸者にはださん」と言い張った。

 その代わり父親と一緒に漁に出た。末弟の正男はともかく、その上の弟は漁師が嫌いの上に、なかなかの男前で女の子にもてた。

 そう、この四姉弟は、長女長男はそこそこ美形であったが、次女、次男は不器量だった。

 あるときチチオヤが、ちりめんじゃこを絹枝と二人の弟に持たせ、いくらでもいいから売ってこいと言った。絹枝はすぐに売り切ったが弟達は売り残した。

 すべてにおいて絹枝は気のきく働きものであり、チチオヤは「絹枝が男の子なら」と嘆いたものだ。

 このことを絹枝は最大限に自慢する。


「ああ、わしは家の為にゃなった、家のためにゃなった。わしほど家のためになった者はおらんわ」


 これは暗に、娃子は役に立たないと言っているのだ。そして、何かものを買ってもらう度に言れたものだ。


「娃子は果報じゃ。わしら、オヤに、これだけのことはしてもろうとらん!」


 これだけのこととは、どれだけのことだろうか。

 絹枝の断片的な話から、昔を推し量るのは容易ではないが、娃子には絹枝がそれほど不幸な境遇だったとは思えない。


「ホウ、コウ(奉公)にいってみい。辛いんじゃ」


 絹枝がそう言うから、芸者には出なかったものの、どこかに奉公に行ったのかと思ったが、言うだけで絹枝自身は奉公には行ってない。

 家が貧しく、欲しいものを買ってもらえなかったとはいえ、芸者にも出ることもなく、紡績の女工でもなく、結婚するまで親元にいたことがこの時代そんなに不幸なことだったのだろうか。

 その結婚も未だに恨みたらたらに話す。。


「何もいりません、裸できてくれたらいいです。その約束で行ったのに、のっけから、あんたぁ、道具はこれだけねといじめられたもんよ。腹がたったけえ、うちは貧乏だからこれだけですと言うてやったわ。の、娃子、わしら、こうやって苦労してきとんじゃ。それに比べたら、おまえなんか果報なもんよ」


 いじめられたと言うが、負けずに言い返しているではないか。また、話の端に「髪をつかんで引きずり回してやった」と聞いた記憶もある。要するに、絹枝が黙ってやられることなどある筈もない。

 絹枝に限らず、当時の大人達はよく苦労自慢したものだが、絹枝は群を抜いていた。

 そのくせ、戦争の話をおどろおどろに語り、娃子たち子供を恐がらせて楽しんでいた。

 娃子も今は戦争の話など、無関心を装えるようになったが、幼い頃は恐くて震える思いだった。泣くまいと必死に堪えているのに、その様を面白がる。耐え切れずに娃子が泣き出すというより、泣き出すまで話をやめない。


「ふん、恐れじゃ」


 と、絹枝が言えば。


「そんなに恐れで、これから先どうするんじゃ」


 これまた、庄治も例のニタニタ笑いで便乗する。


「つまらんヤツで」


 絹枝の苦労話をイヤと言うほど聞かされた上に、オヤとしての「教え」も聞かされる。


「今日は、おたんやよぅ」


 そのおたんやとは何かと問えば、少しの沈黙の後にふてくされて言う。


「おたんや言うたら、おたんやよう」


 知らなければ言わなきゃいいのに、言わずにおれない。

 その「おたんや」とは、「大逮夜(おおたいや)」がなまったものと言われている。 まず「逮夜(たいや)」とは、亡くなられた人の命日の前夜を指す。

  親鸞聖人が、今の暦で1月16日に亡くなられたので、毎月の15日を「逮夜」と言い、それが「おたんや」と呼ばれるようになった。

 信仰心のかけらもないくせして、形ばかりの「神棚」に手すら合わせたこともないのに、なぜか、親鸞聖人の命日前夜の話をする。だからと言って、おたんやだからと言って、取り立てて何をするわけでもない。

 さらに、ろくでもない「遊び」の相手もさせられる。

 それも、先出しじゃんけんに負けろと言うものである。後出しじゃんけんではない。何事も忖度して、負ける手を先に出せと言うのだ。そして、大恩あるオカアサマを勝たせろと言うのものだ。

 そんなことで勝って楽しいのだろうか…。

 それが絹枝には楽しいのだ。特に娃子相手では、勝たなくてはいけない。いや、常に勝って当然なのだ。常に勝って、娃子を見下す。それが絹枝のルールなのだ。

 いつまで、こんなバカバカしいことをやれば気が済むのか……。




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