流れず止まず 二
親戚は地元にもある。歩いていけるところに義男のアネが二人で住んでいた。
「はっ、ただいま取り次ぎますゆえ、今しばらくお待ちくださいませ。はっ、はっ」
いくらご立派な家の出か知らないが、子供相手にここまでしなくていいと思う。
「ジョーヒンな」
と、絹枝は言うけど、娃子は心の中で、やりすぎの過ジョーヒンだと思っている。が、肝心の義男のアネ達もまた難しい。
長姉は元看護婦で今は生命保険の外交をしている。いつも着物姿でとりすまし、度の強いメガネ越しに娃子をにらみつける。その蛇のような視線にぞっとしたものだ。女学校を出ていることを鼻にかけ、日舞もやっていた。
「教養心の高い」
絹枝はいつもそう言っていた。
やせぎすな長姉に比べ、次姉はぽっちゃりとして幾分おっとりとして見えるが、すべては長姉のいいなりであった。息子が一人いて、医者になったとか聞いたが、その実はよくわからない。
いつだったか、金に困った絹枝が二千円貸してほしいと頼んだことがある。
「抵当もって来い」
長姉は当然のように言った。絹枝は腕時計を持って行き二千円借りたが情けなかった。仮にも娃子は血のつながった姪ではないか。その娃子を育てている絹枝の窮状を知っていながら二千円の金を借りるのに抵当をもって来いとは……。
絹枝はできるだけ早く借りた金を返したものだ。
「まあ、あの人はお宅の親戚よね。それなのに、うちまで来ながらお宅に寄りもせんと帰るんね」
近所の人から、その家に長姉が生命保険の集金に来ても、立ち寄ることもなく帰ることを知らされた。
「そうよ、貧乏しとったら、そこにおるかとも言わんわぁ」
その近所の人は、別の人の勧誘で生命保険に入ったのだが、集金はなぜか長姉が来るようになったのだという。
ほんの目と鼻の先まで来ながら、知らん顔で帰る従姉であっても、絹枝はたまに娃子を連れて行く。この絹枝の真意も娃子にはよくわからない。
それでも行けば菓子などを出してくれるが、食べてもなぜか味がしないし、大人しくしていることに慣れている娃子でも、気詰まりな家だった。
ある日、少量の小さなイチゴを出してくれた。娃子がそのガラス鉢を手に持ち、イチゴにフォークを刺そうとした時だった。
「つぶして食べ」
とっさに何のことだかわからなかった。
「つぶして食べ!」
え、イチゴとはつぶして食べるものだった……。
イチゴなどめったに食べられるものではなかったし、つぶさないほうが見た目にもきれいだと思うのだが、例の蛇のような眼ににらまれれば、それだけで食べる気が失せてしまう。
さらに、絹枝は事あるごとに「本家」と言う。娃子にはその意味・役割がよくわからない。その本家とはバスで10分くらいのところにあり、家はそこそこ広いものの古い家に、年寄りが一人で住んでいるだけだった。この年寄りが薄暗い中で縄を
娃子が小学校四年生の時、本家のその年寄りが死んだ。年寄りは信心深い人で、せっせと近くのお寺に金を運んでいたそうだ。
「絹枝、少しはお寺さんにあげてくれえや」
と、絹枝に金の無心をすることもあり、信仰心など持ち合わせておらぬ絹枝であったか、いくばくかの金を出したこともあった。そして、臨終を迎えようとしている年寄りの側に娃子を座らせ、その手を握らせた。
「お婆さん、娃子が手ぇ握っとるよ」
この老婆が義男たちのハハオヤであり、娃子の実祖母だった。
何と言っても、娃子は実の孫である。その孫に死に際に手を握ってもらえばうれしかろうとの絹枝の配慮だったが、反応はなかった。そのことより、娃子は火葬場での出来事が忘れられない。
「最後のお別れを」
と、坊さんが棺のふたを開けようとしたとき。
「はあ、ええ、はあ、ええ」
と、義男の長姉はめんどくさそうに言い放った。だが、その後、四十九日にも一周忌にも呼ばれることはなかった。
「のう、娃子くらい呼んでやってもよかろうに、飯の
やがて、その本家も取り壊され後にはマンションが建った。
どっちにしても、娃子にとってはどうでもいいことであった。
また、少し離れたところに叔母が養女のキヨ子と住んでいた。昔、絹枝が五千円の金を貸した男の妻である。戦後その五千円の金を返したのは市役所に勤めていたキヨ子であった。
安月給の中から、金を返さなければならなかった辛さ、悔しさをキヨ子はよく口にしていた。特に秀子には娃子が側にいても平気で、金を貸した絹枝の方を悪く言ったものだ。
「絹枝はアホやから」
と、秀子も調子を合わせるが、借りた金を返すのは当然ではないのだろうか。だが、絹枝が叔父に金を貸したのは戦前のことであり、それを少しずつ返してもらった五千円は戦後の価値での金額でしかなかった。
それなのに借りたまま返さない秀子も、なんとか金は返したものの、貸した絹枝を悪く言うキヨ子も娃子はどっちもおかしいと思うのだが、絹枝も陰では不満はいうものの、面と向かっては何も言わない。
それどころか、娃子にキヨ子を見習えという。
キヨ子が養母をそれこそ「手のハラ」にのせるように大事にしていると言う…。
それにしては、キヨ子はいつ見ても仏頂面をしている。表立って、養母のことは言わないものの、いつも何かしら愚痴っているではないか。
「ふうが悪うて、人にゃあ言わりゃあせんけど、あんたとこのオトウサンによう、カニのツメもろうたわ」
その昔、チチオヤに言われて、カニの爪をキヨ子のとこへ届けたことが何度かあった。
「ツメじゃあ言うても、身はいっぱい詰まっとったのに…」
せっかくのチチの善意を、ふうが悪いとは…。
しかし、これも元はキヨ子の養母が言ったことである。
「ふん、アネのところへはツメしか持って来んのんか」
また、このキヨ子にも子がいない。年頃になり婿を迎えたが、子のないまま戦死した。それからはこの養母と暮らしているが、二人の間にも幾多の葛藤があったことだろう。今は九十近いとはいえ、この面構えからして一筋縄で行く相手ではない。その結果が、キヨ子の仏頂面ではないのか…。
こんなキヨ子を見習う気など、さらさらない娃子だった。
さらに、忘れはいけないのが庄治である。夫婦とは他人である。他人であるが、ある意味、切っても切れない腐れ縁である。
庄治にもハハオヤの記憶がない。チチオヤの記憶も薄い。上にアネが一人いるが、庄治が幼い頃にハハオヤは亡くなり、やがて、チチは後妻を迎え、男の子が生まれた。そうなると、長女はともかく、邪魔になるのが庄治である。そこで、夫を焚き付け、庄治を追い出す。これがよくあるママハハのママコいじめのパターンである。
「わしを奉公に出しやがった」
庄治もその様に受け取っているが、実際は少し違う。
家は何かの商売をしていた様で、釣銭入れのザルがぶら下がっていた。庄治はオヤの目を盗み、その中の金を鷲づかみにし外へ飛び出し、その金で近所の「子分」たちと買い食いや、博打の真似事をやっていた。それも一度や二度のことではない。これを小学校に上がる前の子がやるのだ。
いくら、男の子はやんちゃくらいの方がいいと言え、その悪ガキぶりに手を焼いたチチオヤも決断したのだろう。洗い張り職人の許へ奉公に出すことにした。
奉公とはつらいものである。そこでの暮らしは今までとは天と地ほどの差があり、庄治はオヤを恨んだ。
そんな庄司も洗い張りの技術を身に付けた頃には、
酒屋へ行き、酒を一升と注文するが、量り売りの時代に入れ物を持ってない。
「あの、どちらへ…」
「升で」
と、
やがて、庄治も兵役にとられる。だが、そこは学歴社会だった。ろくに漢字も知らない者が出世できる筈もなく、それでも古参兵として羽振りを聞かせていた。
終戦を迎えた頃には、ちょっとこぎれいな息子持ちの後家の許に転がり込んだ。息子も庄治を「オトウチャン」と呼び、なついていたが、その女はふとしたことで死んでしまう。仕方なく遠縁の寺の坊主の許に身を寄せていた頃、絹枝との縁談が持ち込まれる。
絹枝の不器量さにがっかりしたが、金は持っていると言う。いつまでも寺の厄介になっている訳にもいかず、差し当たって、金のある間だけ一緒にいればいいと思い、ちょっと甘い言葉をかけてやれば、後は容易いものだった。
こうして、庄治と絹枝の暮らしが始まった。さすがに、絹枝はいい着物を持っていた。洗い張りに出されるような着物は高級なものばかりであり、庄治も着物を見る目は持っていた。また、金を持っていると言う話も決して誇張ではなく、貯金通帳には思った以上の金が入っていた。
「わしの通帳は寺で預かってもろうとるで、落としたらいけんけんの」
とっさに、庄治は自分にも金があるように言ったが、その実、そんなものはなかった。だから、金のある女に目を付けたのだ。本当は、絹枝の貯金通帳と印鑑が手に入れば、それでトンズラしてもいいと思わないでもなかったが、その点は絹枝もしっかりしていた。それならと、庄治は酒とパチンコに精を出した。その為の金をいかにして捻出するか、ツケは絹枝に払わせればいい。
そんなある日、絹枝が赤ん坊を連れて帰って来た。聞けば、従弟の義男の子だと言う。
義男は二度目の離婚である。最初の妻との間には男の子がいたが、その子は死んだ。そして、二度目の妻との間に生まれたのが、娃子である。
元妻は娃子を連れて実家へ戻っていたが、このままでは養育費の支払いが発生する。そこで、再婚したとはいえ、この先子供の望める筈もない絹枝に押し付けることを思いつく。それも、元妻の実家へ行き、隙を見て娃子をかっさらって来たと言う訳だ。
「男なら、ええのに」
「男なら、ヨシが離さんわ」
そして、現在の住まいである海の近くに越すことになった。最初は六畳一間と土間だけの家であり、なぜか、畳には多くの五寸釘が撃ち込まれていた。ちょっと歩けば足裏に五寸釘が当たる。あまりの多さに耐えかね、畳屋に頼んでかなり抜いてもらったが、それとて、完全に抜き切れた訳ではなかった。
思えば、ここから、この家から、庄治と絹枝は、五寸釘どころではない地獄を見ることになる。
この娃子と言う赤ん坊、とんでもない疫病神だった。お陰で庄治の人生はすっかり狂ってしまい、また、絹枝も豹変する。
それでも、小さい頃の娃子は絹枝に怯えていた。ものすごい形相で怒鳴り付け、容赦なく頭を殴るのだ。そんな時、庄治はよく娃子を背負ってやったものだ。また、庄治は娃子に手を上げたことはない。絹枝と同じことは出来ない。いくら何でも、まだ小さい子を朝から怒鳴りつけ、容赦なく頭を殴るとは…。
しかし、そんな娃子も成長すれば、何と絹枝の味方をするようになってしまう。そして、二人して、庄治を攻撃するのだ。それが、例によって、庄治が酒を飲んだ後の失敗を蒸し返すのだ。
「酒飲んだ後のことなんか、覚えとるかい!」
この女どもは、酒飲みのちょっとした失敗を飽きもせず責め立てるのだ。
だが、それもこれも、娃子が本当のことを知らないからである。庄治は何度、娃子に本当のことを言ってやろうかと思ったかしれない。
いやいや、それを言っては、娃子がかわいそうだと、こうして情けをかけてやっているのに、うるさいことこの上ない。
----今に見とれ。ほえ面かかせてやる。本当のことを知れば、そら、もう、泣きわめくだろう。そして、娃子も改心する。手を付いて詫びることだろう。まあ、それはもう少し、先のことに…。
ある日、いつもの様に庄治が酒を飲んでいると、娃子が妙なことを言う。
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