流れず止まず 一
絹枝は折に触れ言う。
「他人は駄目じゃ」
だから、他人には絶対気を許さないし、常に悪意の目で世の中を見ている。
姉の秀子はいつもふんぞり返っている。そして、常に周囲の人間を見下しているではないか。
その、ふんぞり返るために突き出た臨月の様な腹。その分、尻は小さい。また、美容師のくせに、パーマの伸び切った髪、生え際3センチほどの白髪の輪を気にすることなく、周囲にこれまた文句ばかり言っている。
特に絹枝に対してはひどい扱いをしたものだ。年に一二度、娃子を連れてやってくる絹枝に開口一番。
「何しに来たんや」
二三日もすれば。
「いつ、帰るんや」
では、帰ると言えば。
「もっとおれや」
恒男も一応たしなめはしたが、それも一度だけのことである。
「あんたには世話になったな」
戦中、戦後の食料など絹枝のお陰げで随分助かったことに対して、これまた一度だけそう言ったことがあるそうだ。
娃子の記憶の中で、ある年末の秀子宅で、庄治の娃子を呼ぶ声を聞いた。
いるはずのない庄治の声が聞こえたのが一瞬不思議に思えたが、どうやら庄治が一日遅れで勝手にやってきたようだ。すぐに追い返されたものの、秀子から当然のように嫌味を言われる。
「何や、お前とこは三人もやってきてから、それで礼状の一本もよこさんのかっ」
そんなことを言われても、庄治もろくに小学校も行ってないことは知っているくせに、秀子はここぞとばかりに文句を言う。よって、娃子が字を書けるようになると、いつも礼状を書かされたものだ。
先日は大変お世話になりましたと、書きながら、娃子はこっちが世話してやったんじゃないかの思いでいっぱいだった。
大阪の親戚に行く。それだけでなにやら楽しそうな雰囲気が伝わってきそうなものだが、実際は楽しいには程遠いものだった。
秀子はこれ幸いと絹枝をこき使う。働き者の絹枝はそれも苦にならないらしく、
布団の打ち替えなどの用事で明け暮れ、娃子は滞在中絹子宅から一歩も出ないこともあった。
そして、帰宅の途に付く頃、娃子はここに何をしにきたのだろうと思わずにはいられなかった。そんな絹枝をよく知らない人は「姉さんか」と言う。
「妹や」
その時の秀子の優越感に満ちた顔。二つ違いの妹は歳より老けていたし、着ているものもみすぼらしかった。
そんな絹枝を秀子は「おなごしや」とバカにしていたではないか。
それでもあれこれ用事をこなした絹枝に、秀子は石鹸などを持たせて帰らせるものの、絹枝が手ぶらでやって来たことは一度たりともない。
いつも重たい土産を欠かさない。だが、それらの土産の一つでも、絹枝や娃子の口に入ったことはない。
いつでも自分の分だけ残し、後は自分にとって損のない人のところへ配る。その人たちも心得たもので、それで絹枝の来訪を知る。ケチな秀子が何もないのに配り物をするなど皆無である。
恒男が亡くなるまで、絹枝の重たい土産は続いたが、ある時の土産は瀬戸内名産のイリコだった。それも乾物の卸し問屋で一番いいのを買ってきたのに、イリコを一匹かじった恒男はこともなげに言ったものだ。
「うん、これはあんまり、ええイリコやないな」
また、梨を持ってきた時の秀子も言った。
「こんなんな、鳥取から取り寄せた方がええねん」
この時ばかりはさすがの娃子も呆れた。秀子は素知らぬ顔をしていたが、絹枝は娃子がオヤの味方をするほどに成長したのが、少しうれしかった。
だが、いつも手土産を欠かさないのは絹枝だけである。
秀子も何度か絹枝宅にやって来たが、何一つ持って来たためしはなく、娃子に小遣いすらやることもなかった。また、秀子宅から、歩いて五分ほどのところに住んでいる義男ですら、その都度、土産の裾分けをするのに、一駅先に住んでいる弟の正男にしても、誰一人として手土産を持って来る者はいなかった。
本当に水と油の様な姉妹である。秀子はケチ、ドケチ、大阪風に言えば、シブチン、いや、しみったれ。それも、血の濃い順にケチ振りを発揮する。身内にあれこれしてやったとしても、自分がそうであるように、見返りは期待できない。何より、アホらしい。
我こそは成功者。女手一つで美容院を経営し、人を使い、学のない自分であるが、世間からは「センセ」と呼ばれ、また、長女なのだ。
これらのどこに、文句をつける者がいると言うのだ。
これが他人なら、何かの見返りがある。見返りのない者は切り捨てる。
逆に絹枝はケチではない。他人でも我が家にやって来れば、相応にもてなすし、その程度の見返りは期待しない。また、これが血の濃い者となれば、無理をしてでももてなす。さらに、絹枝は一度たりとも、秀子に貸した金の請求をしたことはない。
さすがの秀子もこのことだけは黙っていることはできなかったらしく、このことを近所で知らない人はいない。
だから、秀子が直接金を返さないまでも、汽車賃くらいは出してやるのだろうと近所の人たちは思っていたようだが、そうではないことを知れば、絹枝の神秘さを
いくら姉とはいえ、貧乏暮らしをしているのに貸した金を請求することもなく、実子でない子を育てているのは秀子も同じだか、どうしようもない茂子に比べ、まだ小さいとはいえ娃子はおとなしいいい子ではないか。
「絹枝さん、秀ちゃん、何ぞご馳走してくれる?」
ある時、秀子の長年の友である幸子が聞いた。
「いいや、有り合いもの食わすわ」
「ふーん、秀ちゃん、あんたに金借りてるのになぁ」
二軒の家を一つにしたという秀子宅はちょっと変則であった。道に面した一部は小さな会社に貸し、その脇の部屋には最初は義男夫婦が間借りしていたが、今は歩いて5分くらいのところに住んでいる。現在ははそこに、妙子と言う女と内縁の夫が間借りしている。歳は秀子より幾分若い。
その横に庭いじりが好きな秀子が花や木を植えている、ちょっとしたスペースがある。また、この家の食事はテーブルとイスだから、ダイニングキッチンと言えなくもないが、床はむき出しのコンクリート、テーブルは昔の大きな机を二つ合わせたものに、細長い木の椅子と丸椅子が二つほどあった。
恒男も酒好きである。庄治のように乱れることはないが、焼酎の入った巨大なジョッキにビールを注いで飲む様が、娃子には異様に感じられたものだ。何より、不思議なのは、恒男の前に刺身がないことだった。庄治は毎日のように刺身を肴に飲んでいるのに、刺身はおろか酒の肴らしき物もなかった。ある時など、たくあんをかじりながら飲んでいた。
恒男は近くの運送会社に勤めており、収入もそこそこあるはずなのに、秀子のケチ精神に付き合わされてか、収入の少ない飲んだくれの庄治より粗末なものを食べていた。
もっとも、秀子が用意する夕食に刺身など論外、すき焼きも切り身の魚の姿すらない。そんな秀子が珍しく娃子になにが食べたいかと聞いたことがある。
娃子は肉が食べたいと言った。そう言ったからにはひょっとして、今夜はすき焼きかと、淡い期待を持っただけ損であった。それは、スジ肉とジャガイモだけの甘い甘い煮つけだった。ジャガイモはともかく、スジ肉は菓子の様な甘さだった。何ごとにもケチな秀子が砂糖をケチらないのが不思議でならなかった。また、確かにこれも肉には違いない。いや、秀子にとっての肉とは、スジ肉でしかないのだ。
だが、娃子が今までに食べた一番まずいものは秀子のカレーである。いつもあり合わせのもので済ませる秀子が珍しくスジ肉カレーを作った。だが、出来たカレーを口にいれた途端、だれもが絶句…。
何がどうなったのか、頭はパニック。その得も言われぬ味に、全員、しばしの沈黙。そして、恒男が叫んだ。
「ああ、これは、塩が入っとらん!」
秀子は急いで塩を加えたが、それとて食べられたものではない。後年、絹枝が秀子とは真逆のことをやった。カレールーが出始めた頃のことである。ものすごく塩辛いカレーを食べさせられたものだ。カレールーを使う時は、塩を入れる必要がないことを絹枝は知らなかった。その時は、二重の塩入りカレーを黙って食べるしかなかった。
秀子がどうであれ、絹枝は最大限のもてなしをする。秀子がやって来た時は必ずすき焼きだった。
「娃子、肉ばっかり食べんと、野菜も食べや」
糸こんにゃくばかり食べていた娃子がたまに肉に箸を伸ばせば言われたものだ。肉ばかり食べているのは秀子ではないか。庄治はと言えば、やはりこの義姉は苦手であり、強い者の前では弱い気質そのままに、酒すら遠慮がちに飲んでいた。
それでも絹枝にとって、秀子や正男は大きな心のよりどころであった。
今はともかく、いざという時、他人は知らん顔するが血のつながった姉弟なら放っておく様なことはしないと絹枝は力説するが、その、いざとはいつの時のことを言うのだろう。
「いざ言うたら、いざよ」
では、あれはいざという時ではなかったのか。
娃子が幼い頃、絹枝が海でオコゼに刺されたことがあった。
そのことを今でも絹枝は「冷たいアネ」と言うではないか。
いざという時にロクに助けてもくれもしないのに、それでも絹枝は血のつながりを信じてやまない。
また、弟の正男もしばらく居候していたことがある。そう、この狭い家に。それだけでも庄治は欲求不満を募らせていたが、間の悪いことが起きてしまった。
庄治の飲み友達に桑村という男がいた。年は庄治よりかなり上だが、いつも庄治を誘いにくる。それを桑村の妻は庄治が誘うものと思い込み、庄治を毛嫌いしていたが、娃子もこの桑村も嫌いだった。いや、酒飲みは皆嫌いだった。
当時、義男の弟が近くに住んでいた。
「お前の従弟が桑村に金借りたから、わしは桑村に頭上がらんやないか!」
「知らんよぅ」
「なにぃ!」
それからの庄治は、絹枝を殴る蹴る。髪を掴んで引きずりまわし、着ているものはビリビリに破かれた。
幼い娃子はその凄さに、泣くことも出来ないほどにおののいていた。
当の正男はと言えば、義兄の暴力をとめるでなく、アネをかばうでなく、娃子を気遣うでもなかった。
正男がうすぼんやりとただ突っ立っていたのを娃子は覚えている。
近所の人の通報で、巡査がやってきた。
娃子はその後、この夜のことを口にしたことはないが、どう見ても正男がいざという時に何かしてくれそうな男とは到底思えない。
それでも、絹枝は血の濃い人間しか信用しない。
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