養親たち 二

 だから、聞いているではないか。こうしろと言うから、その様にしているのに、今はそれではないと怒る。それでは、この前と話が違う。


「この前はこの前、今は今、そこは臨機応変にやれ」


 その臨機とは絹枝の臨機であり、応変は娃子あいこが忖度しなければならない。それは無理と言うものだ。絹枝の臨機など、一秒たりとて同じことはない。これでは、全知全能の神でも手に負えないだろう。

 ある日、絵の具を買うからと十円もらった。その夜、買った絵の具を見せろと言うから絹枝の前に差し出せば早速に言われたものだ。


「あっ、こりゃ、ウソじゃ。なんか別のもん、買うたんじゃ」


 黒色の絵の具を買ったのだが、使った量が多かったことで即座に疑われてしまった。確かに、娃子も多く使ったが、ある女子がちょっと貸してと言って、自分のパレットにかなり絞り出したのだ。だが、それを言えば、また、絹枝が学校に怒鳴り込んでくるだろう。ここは黙って怒られるしかなかった。

 そして、庄治の毎日の酒を買いに行かされるのも娃子だった。ただ、買いに行くだけならいいが、二軒ある酒屋のうち、何か気に入らないと言っては絹枝からあっちで買うな、こっちで買うなと言うのだ。

 もう、いい加減にしてほしいと思うが、絹枝のエネルギーはそんなものでは治まらない。


「これ、買うて来い」


 ある日、一つの樟脳が娃子の前に投げられた。赤いセロファンに二つの樟脳玉が包まれていた。娃子が店に行ってみれば、今は同じものはないと言われた。それなら代わりのものをと思うが、余りにも形状が違いすぎた。こうなったら悩むのは娃子である。一体、どれを買って帰ればいいのだろう。店の人が呆れるほど悩み、仕方なく一つの樟脳を買って帰る。


「ウソやぁがれ。あるわい。お前は買いもんもようせんのんか!」

 

 いくら同じものはなかったと説明しても、娃子の言うことなど、端から聞く耳を持ってなく、散々文句を言いながら、その樟脳を衣装缶の中に入れていた。しかし、これが同じものがなかったと言って、買わずに帰ればそれはそれで怒られる。


「なけりゃ、似たようなものを買うてくりゃあええんよのう。お前にゃ、それくらいの機転も効かんのんか!」


 そんな絹枝が家の解体の仕事に行けば、不要になったものを貰って帰ることがある。


「祝いの品の上に掛けるもんよ」


 それは表が翁の面、裏に寿の文字の四角い袱紗の様なものだった。だが、ある時、それが紛失したと言って、またしても、延々と怒られてしまう。


「お前が人にやったんじゃろう」


 確かにそれは、娃子にとっては珍しいものであり、近所の子に見せたりもしたが、人にやったりはしていない。


「ウソやぁがれ。どうしてお前は、そう、ウソばっかり言うんない」


 いくら、ウソではないといっても、絹枝がウソだと言えばウソなのである。例によって、延々と文句を言われたものだ。だが、しばらくして、それは出て来た。絹枝が仕舞い込んでいただけである。

 あるではないかと言えば、絹枝は黙ったままだ。絹枝にすれば、あればいいのである。それを一々娃子に知らせる必要はない。

 さすがに頭に来た娃子も黙っていられない。それを目にした時は、なくなったと言って、よく怒られたものだと言いたくもなる。

 

「お前はのぅ。過ぎたことをいつまでも、ぐちぐち言うもんじゃないわっ」


 また、ある時はとんでもない勘違いをやってくれた。


「お前、37番か。ダメじゃないか」


 何のことかと思えば、それはいろは順の出席番号だった。一応説明しておいたが、どの程度理解しただろうか。何しろ「うん」と言えば「はい」と言え。「はい」と言えば、その時は「うん」でいいと言う。

 一体、どっちなんだ。

 いや、どちらにしても、顔を見れば何か言われる。言われない「時」はない。

かと思えば、未だにとんでもないおふざけの相手もさせられる。


「娃子、アカ言うてみい。アカ言うてみい」


 この時にはすでにアカンベェの構えをしているが、一体、どこの小学生がこんなくだらないことの相手などするものか。

 

「ベエー」


 と、一人アカンベェをする。まったく、これのどこが面白いのだろう。いや、絹枝はその時はそれがやりたいからやっているにすぎないのだが、それを娃子も一緒にやれと言うのだ。オヤの好きなことに同調しろ、少しくらいオヤの機嫌を取っても罰は当たらない。それくらい頭を使え。そして、大恩あるハハオヤを気分良くさせろ。そうすれば「ほんそほんそ」してやる。

 ほんそとは、大事な、大切なと言う意味らしく、この辺りでは「かわいいかわいい」と我が子を抱きしめる時「ほんそほんそ」と言う。もっとも、今は昔の言葉でしかない。

 絹枝も一度だけ、それも唐突に人のいる前でやってくれたものだ。


「のう、うちのほんそじゃけんのう、のうのう」


 だが、すぐに飽きて、トンと突き放す。これは、絹枝の三大性格のうちの一つ、気まぐれである。

 こんな面白くもない毎日を過ごしているのに、どうして、傍目には大事にされていると映るのだろう…。


 一方の庄治はと言えば、本船のセメント担ぎをやっていた頃、絹枝に勧められ坊主頭にしていた。だから、娃子の記憶にある庄治はいつも酒の臭いをさせた、真っ黒なタコ入道でしかなかった。一升酒を飲んでも平気で、地黒の脂ぎった額にタオルを巻いて銭湯に行く姿が何とも嫌だった。

 さらに、娃子が学校から帰ると、すえた匂いの充満する中で酔いつぶれている庄治が洗面器を持って来いと言う。娃子は洗面器だけ渡して逃げたものだ。また、別の日には、腕に包帯を巻いた庄治がニタニタ笑っていた。ケガをしたので仕事をしなくて済むことを喜んでいるのがわかった。夜はそれこそ大手を振って酒を飲んだものだ。どういう訳か、その頃の庄治はよくケガをしていた。

 娃子の通う小学校は商店街の途中にあった。かなり長い商店街で間に踏み切りがあり、側にちょっとした砂地があった。そこに時々酔っ払いが寝ていたりするが、庄治も一度だけそこで寝ていたことがある。娃子はすぐにその場を走り去った。

 

「そうや、わしゃ、知らんわ。酔うた時のことは覚えとるかい」


 幾ら、絹枝に文句を言われようが、娃子が恥ずかしさのあまり泣き出しても平気であった。

 そんな庄治でも、時には娃子にオヤとしての「威厳」でも示そうとするのか、どこかで聞きかじったような言葉を得意げに、まさに、馬鹿の一つ覚えを披露したものだ。


「ジャックバランに、ジャックバランに、ジャックバランに」


 それは「ざっくばらん」だと言ってやろうかと思ったが止めた。また、娃子が学校で九九を習うようになった頃。


「インイチガイチ、インニガニ、インサンガサン」


 と、得意そうに唱え始めたが、それは一の段だけで、娃子はそれ以上は知らないのだと思った。さらには、高学年になった娃子が台所の外で七輪で魚を焼いていた時、庄治はしたり顔で言った。


「の、海の魚は身から、川の魚は皮から焼くんで」


 それくらい娃子も知っていたが、庄治は人が通る度、そのことを吹聴したものだ。


「今、海の魚は身から、川の魚は皮から焼くんじゃと教えてやっとったんよぅ」


 と、いいチチオヤアピールをするも、皆、日頃の醜態を知っているからして、適当に相槌を打って通り過ぎて行く。それでも得意満面の庄治だった。だが、さすがに娃子が成長するにつけ、庄治の飲み友達はあまりやってこなくなった。

 それは娃子だけでなく、それぞれの子供が成長し、オヤの酔態に嫌悪感を示すようになったからに他ならない。事実、そんな子の一人と同じクラスになったその時は互いに知らん顔したものだ。


 娃子が小三の夏、初めて一家で海水浴に行った。とはいっても人の来ない砂浜で、庄治は釣りをし、泳ぎの達者な絹枝は存分に泳ぎ、一人ではしゃいでいた。

 娃子はちっとも楽しくなかった。しかしこの日のことは絹枝の後々までの語り草になる。


「娃子が小さいときはよう海に連れってちゃったもんよ」


 たった一度のことが絹枝にとっては「よう(よく)」になるのだ。   


 また、それは娃子が四年生のときに起こった。

 雨の日、娃子は教室の後ろにある傘立ての中から自分の傘を取りだそうとしたが傘がない。当時の傘は男子は黒、女子は赤いこうもり傘で、ちょっと目には同じだが、自分の傘というものはなんとなく見分けがつくし、手に取るときには名前を確認する。

 その日はどうしても自分の傘が見当らないので、みんなが帰るまで待ってみた。

 最後に赤い傘が残った。自分の傘でないことは一目でわかった。一応名前を見たが、その女子の家は知らなかった。まだ雨も降っているので、明日取り替えてもらえばいいと思い、その傘をさして帰えることにした。

 雨の日は仕事のない絹枝が家にいた。それでも娃子は絹枝に気づかれぬように傘をそっと隅に立て掛けたか、狭い家の狭い玄関。目ざとい絹枝はすぐに傘の違いに気付く。


「こんなぼろ傘と取り替えられてからに、この、ぼんやり作!」

 

 娃子がいくら明日持って行って取り替えてもらうからと懇願しても聞かず、再び、絹枝に引きずられ学校に舞い戻ることとなった。

 ちょうど担任教師は教室にいた。絹枝は教師から傘を間違えた女子の家を聞き出した。これだけでも情けなかったが、さらに捜し当てた家で文句を言う絹枝の側に立たされた時には、いたたまれなかった。

 翌朝、学校に行くのが特に憂鬱だった。


「傘を間違えただけで、あそこのおばさんが怒ってきた」


 傘を間違えた女子が言った。

 それだけではない。クラスの全員が、お前はそんなことまでオヤに言うのかという目で見、生徒だけでなく教師もそんな顔をしていた。


「いいわねえ、なんでもオヤがやってくれて」


 話は娃子が傘を間違えられたから、取り返しに行ってくれとオヤに泣きついたということになっていた。

 娃子は誰かに泣き付いたりしたことはない。泣きつくより、今泣きたい気持ちのまま、何も言えない自分が情けなかった。

 それだけではない。比較的仲の良かった牧子がぽつんと言った。


「あんたとこのおばさん、駅の前に立ってた」


 駅の前で立っていた?それ、どういう事?

 どういう事か聞こうとしたが、彼女はそのまま行ってしまった。その夜、娃子は絹枝に何げなくそのことを話した。


「なにぃ!」


 まさか、これくらいのことで、絹枝が怒りだすとは思ってもみないことだった。それだけではない、翌日、教師に食ってかかる。


「私ゃ、駅の前になんか、立っとりゃあしませんよ!」


 教師にしてみれば迷惑な話である。子供のちょっとした言葉にここまで過剰反応するとは。当の牧子は泣き出す。もっとも、牧子はちょっとのことですぐ泣き、忘れるのも早い。

 それでも、娃子はわからない。

 絹枝という人となりがわからない。

 ほぼ十年一緒に暮らしてきたが、さっぱりわからない。

 誰が考えても同じクラスの中での傘の取り違えでしかなく、何気なく子供が言ったことではないか。なのに、それほどに絹枝の怒りを突き動かしたものは何だったのだろう…。

 絹枝の価値観、いや、怒りの沸点がわからない。

 一つわかっていることは、金がないと言うこと。貧乏程、人の心をすさませることはない。楽に暮らせるだけの金のある家の人たちのおっとりしていること。金があれば絹枝の気持ちも少しは落ち着くだろう。だが、それこそ娃子になす術などある筈もない。

 それにしても、金以外のことで絹枝を理解できないまま今日に至ったが、娃子の思考能力の限界を軽く超えてしまった。 

 それでも絹枝に何も言えないのは、娃子の中にものすごく悪い心があるということだ。

 もの心、いや、生まれ持ったものかもしれない。

 一見大人しく黙っている自分であるが、絹枝に言われるまでもなく、その実態は極悪人ではないのか…。

 押さえても押さえても、どうしても頭をもたげる、本当に恐ろしい心。

 こんな自分がいい人間であるはずがない…。

 それでも、絹枝がわからない。そして、またも吠える。


「ミンコを見てみい!ミンコを!」


                                     




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