何もない 三

 相変わらずの貧乏暮らしで、気の荒い絹枝

 相変わらず、酒を飲むことしかない頭にない庄治。仕事が終われば飲み屋に行き、行かない日は酒屋で立ち飲み、帰宅しても飲む。それが日課であるからして、いつも酒の臭いをさせていた。また、銭湯の前にあるパチンコ屋にも行く。飲み屋のツケの払いも、質屋の受け出しも、すべて、絹枝に丸投げ。それだけではない。

 絹枝が娃子あいこに貯金することを教えるため、人形の形をした貯金箱を買い与えた。そこに少しずつ貯めていた。そして、少しは溜まったろうと思う頃に貯金箱の底の紙を剥がしてみれば、中の小銭のあまりの少なさに二人して驚いたものだが、すぐにピンときた。

 底の紙が剥がれた様子はないが、庄治が逆さまにして中の金を揺すり出したに違いない。


「何とかなるわい。今まで何とかなって来たやないか」


 絹枝が暮らし向きのつらさを訴えても、面倒くさそうに言う。


「そりゃ、何とかして来たけんよ」

、何とかしたら、ええやないか」

「あんたあ、何もせんじゃないか」


 沈黙は金とばかりに庄治は黙ってしまう。ここは、やり過ごせばいい。それしかない。


----知るか !


 いつも、先ず、酒を飲むことしか頭にない庄治だが、たまに酒が切れるとムスッとしている。また、その酒を買いに行くのも娃子あいこの役目だった。ヤカンや瓶を持ち、中学生頃まで毎日買いに行かされたものだ。

 

大人は年月が経つのが早いと言うが、娃子にとって一年は長く夏と冬は特に長く感じられた。脂肪の少ない子供の身には寒さが堪えるが、何よりいやなのが夏だった。

 庄治のパンツ一丁の姿もいやだが、絹枝の裸同然の姿がものすごくいやだった。

 いくら昔の女性は胸を出すのが平気だったとはいえ、今はそんな女性はいないのに、絹枝は家では上半身裸であった。

 人が来れば何とか服を着るが、ちょっと表に出るくらいは平気で、娃子が恥ずかしいから止めてくれと頼めば、豊満な胸をタオルで隠したが、そうではなく服を着てほしいと、娃子が懇願してもどこ吹く風だった。

 極め付きは昼間でも平気で行水をすること。側を誰が通っても平気だった。

 人はこんなにも簡単に、羞恥心を無くせるものだろうか…。

 それより何より、絹枝の言葉遣いの悪さ…。

 まず、自分のことをわしと言う。大昔、女も「わし」と言ったらしいが、今はわしなどと言う女は絹枝だけであった。もっとも時と次第によっては、無理やり「私」と言う。

 絹枝は地元の人間である。それなのに、方言というより一種独特の言葉を持っている。

 自衛隊をりへいたい、バスはぱす、とこれらは濁音がうまく発音できないだけのことだが、その他にもバナナはバラナ、スプーンはスープン、ブラウスはブラス。この程度のことはわからなくもないが、パイナップルだけはどうしても発音できず、アプルとか言ってしまう。アプルと言えば、誰もがリンゴかと思ってしまうが、それにしてはどうもおかしいと思いつつも、いつの間にか話はうやむやのうちに終わらされるのだ。

 その他にも誰も使わない「絹枝語」が存在する。その一つに「チンピ」がある。きんびらごぼうのことをなぜか「チンピ」と言う。


「チンピにして、チンピにして」

----チンピて、何?


 チンピと聞いてわからない人がいても絹枝は平気である。絹枝は常に「情報発信者」であり、わからない方がおかしいのである。 だが、絹枝はその「チンピ」なるものも作ったことがない。いつも出来合いのものを買ってくる。なのに、さもチンピを作っているような言い回しをしたものだ。また、絹枝は芝居が好きだった。近くの芝居小屋に旅一座が来ると必ず足を運び、そのときだけは目を輝かせてドサ芝居に見入っていたものだ。そのせいか、絹枝自身の語り口調もそのときの所作も、熱が入れば入るほど芝居がかってくる。

 それに引き換え、庄治は単純明快な内弁慶であった。 

 ある日の夕方、仕事仲間の女が何やら文句を言ってきた。絹枝は平然として、相手にもしなかったが、夜になると数人の助っ人を連れて来た。その中の一人の若い男が、絹枝に脅しをかけて来た。暴力こそ振るわなかったが、凄みを効かせて来る。


「よう、おばさんよう。あんまり、なめたマネ、すんじゃねえぞ!」


 肝の据わった絹枝はそれでも黙っている。また、女はしきりに何か喚いていた。その頃には、また、何事かと少し離れたところから近所の人が様子を伺っていた。こんな時の庄司と言えば、日頃の家での威勢のよさはどこへやら、隅で小さくなっている。

 絹枝と女はそれからも言い合いをしていたが、口で絹枝に勝てる筈もなく、しばらくして引き上げていったが、二、三日すると、あの男が謝って来たそうだ。あれから、周囲の話を聞いてみれば、悪いのは女の方だった。


「わしゃあ、知らんかったんじゃけえ」


 この時、娃子は大人も馬鹿だと思った。子供同士でさえ、一方の話だけを聞くものではないと言うことくらい知っているのに、それを子供と見れば常に上から目線で文句を言うくせに、実際に、こんな大人がいるのだ。


「警察に願う!」

「もう、ええやないか」


 憤懣やるかたない絹枝が、交番に駆けこもうとするのを、この時ばかりは必死で止める庄治だった。

 絹枝には暴力をふるい、気に入らねば物を壊し、大声を出すくせに、これが、一歩外に出れば、お人よし丸出しでいつも体よく利用される。

 キヨトと言う名の年下の男がいた。その男を気に入った庄治は気安く呼び捨てにしたものだ。


「のう、キヨトゥ、キヨトゥ」


 だが、キヨトにはそれが気に入らなかった。ある日、絹枝と娃子と一緒に近くの商店街に差し掛かったところで、そのキヨトと出会う。側には数人の若い男もいた。そこで、キヨトは庄治に呼び捨てにするなと凄む。

 もう、それだけで庄治はビビってしまい、黙ったままだが、絹枝は負けてはいない。こんな入れ墨者に往来の真ん中でバカにされてたまるかと食ってかかるが、そこはちょうど交番の前だった。すぐに巡査が飛び出して来て、その場は治まった。

 また、ある日、庄治が妙に大人しく帰って来た。おかしなこともあるだと見れば、頭にケガをしている。

 ケガと言っても、坊主頭の側頭部に血が出たくらいのことでしかないのだが、絹枝が訳を聞いても、庄治は言葉を濁すばかりだった。


「どしたんない。言うてみんさい!」


 絹枝の迫力に押され、やっと庄治が口を開けば、どうやらちょっとしたいざこざで殴られたようだ。この時の絹枝はすぐに立ち上がった。その殴った相手の家に怒鳴り込むではなく、ここからが、絹枝の言うところの「道を踏んでいく」だった。

 その家に行き、先ずはきちんと挨拶をし、上がらせてもらう。それから、徐々に話を本題を持って行く。果ては怒鳴り合いになるのだが、絹枝には道を踏んでいったと言う強みがある。

 だが、これで庄治の絹枝への暴力が治まったとか言う訳ではない。そう、強い者には弱いが「弱い者」には強気なのが、庄治の庄治たる所以である。 

 そんな庄治も、娃子には手を出さない。それには、庄治なりの「訳」があった。


 いや、娃子には、何もない…。



 





  




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