第二章
何もない 一
生まれたとき♀だった。
すべては、そこから始まった…。
最初、何か大きくてぼやけた色が見えた。
濁った赤や緑。
水を含みすぎた水彩絵の具のように、決して下の色を隠すことは出来ない。
その前から、さまざまな声とも音ともつかないものも聞こえていた。
体は生き物として機能していた。
みんな、覚えてないのだろうか。
もの心ついたあの日のことを。
「……!!」
気がついた時、外にいた。
季節は夏。
自分は、今まで何をしていたのだろう。
これからどうすればいいのだろう。
これからどうなるのだろう。
思う間もなく、ものすごい現実がやって来た。
また、あの声だ。
意識のないまま聞き慣れて来た、あのカギ裂きのような声。
今までずっと見つづけてきたはずの顔も、改めて目の前に立ちはだかれると、やはり恐い。
これから何がはじまるのだろうか。
体がぶるぶるっと震えた。
「あいこおぉ!」
目の前には夜叉の様な顔があった。また、何か、怒られるのだ。
「もうしません言え!もうしません言えぇ!」
これが、
とにかく、朝から怒られる。何で怒られるのかわからないままに怒られる。
娃子は大げさではなく、自分ほど「オヤ」に怒鳴られた者はいないと思っている。
娃子の記憶の最初はそれこそ「何も」なかった。
家はアパートというより、二階建ての長屋のような造りだった。家の前には運送会社の車庫が立ちはだかり、階下の家には陽が当たらない。それだけではない、なぜかこの家の天井は黒い
これが、娃子には眠りにくい。妙な幻覚みたいなものが見えてどうしようもない。
六畳間と四畳半ほどの板間にはゴザが敷いてあったが、後に畳敷きとなるが、家具とは呼べないようなちゃぶ台と庄治が作った吊り戸棚があり、冬は火鉢。後に古道具屋経由で水屋が。扇風機は娃子が小学校に上がる頃やってきた。
家の側は路地になっていたが、ごつごつした壁の一部になぜか板を打ち付けた箇所がある。部屋もそこだけ切り取られたようになっていた。その部分に棚をつけ、ろうそく立てや線香立てとともに位牌が置いてあった。この位牌は絹枝の前夫のものであり、黑いアルバムには前夫の写真も数枚あった。
娃子もその意味がわかるようになった頃、この点だけは庄治に同情する気になったものだが、それを引いても余りある庄治の行状であった。
絹枝がやっとの思いで貯めたへそくりを、ここならわかるまいと隠しておいたのを見つけそ、パチンコに行く。また、着るものは質屋に持って行く。
そして、凄まじい夫婦けんかが始まる。ものが飛び交う、あまりのすごさに近所の人が止めに入ったことも一度や二度のことではない。
「娃子!警察呼んで来い!」
そんなことを言われたところで、幼い娃子にはどうすればいいのかわからない。実際に交番の巡査が仲裁に入ったこともある。だが、一夜明ければ絹枝も庄治も平然としている。別に和解したとかではなく互いに反目しあっているのだが、隣近所に迷惑をかけたとかいう意識はまったくない。
狭い家がひしめき合っているところではどこの夫婦けんかも筒抜けだが、こんなにも、みっともないけんかをするのは絹枝と庄治だけであった。一番の原因は庄治の酒癖。
「男が酒飲んで何が悪い!誰にでも聞いてもらえ!」
これが庄治の持論だが、実際はろくに仕事もせず飲んでばかりいる。いや、飲むことが仕事なのだ。いかにして少しでも多くの酒を楽しく飲むかということしか庄治の頭にはない。
絹枝とて酒を飲むなとは言わないが、庄治のは度を越していた。家でも散々飲ませているし、飲み友達がきてもいやな顔もしないのに、それでも足りず外で、それも正体無くすほどに飲んで帰る。
これで文句を言わない女がどこにいるというのだ。庄治がなんと言おうが、絹枝の方が正しいのはわかりきったことであり、世間はすべて絹枝の味方であるからして、我慢の限界を超えた怒りをぶつけた当然の結果と言えた。
しかし、やっぱり娃子は恥ずかしい。
庄治の酔態も恥ずかしい、凄まじい夫婦げんかも恥ずかしい。
飲み友達がやってくるのもいやだ。それも、男だけではない。絹枝は飲まないが飲む女は多く、大人たちが飲んでいる間、部屋の隅で所在なく座っている娃子を側に引き寄せ酒臭い息を吐きかけ、嫌がっても離そうとしない。嫌がれば嫌がるほど面白がるのだ。
外面のいい絹枝は、娃子がいくら嫌がっても知らん顔していた。それはひとえに世間の己に対する評価のためであった。皆口を揃えて言う。
「絹枝さんはえらい。立派だ。あれだけのことはなかなかできるもんじゃない」
そして、返す口で必ず言う。
「娃子ちゃんは果報よ」
娃子には果報の意味がよくわからない。いい意味の言葉らしいが、では、この不安はいったいなんだろう。
何か、いつも不安なのだ。
不安の正体は、それこそ果報以上にわからない。
♪酒飲むな 酒飲むなの ご意見なれど~
飲み客の歌が始まり、庄治が最も得意になる時だ。
品のない会話、下卑た笑いの中。
「お前、橋の下で拾うたんじゃ」
絹枝の冗談でさらに場は盛り上がり、最後は戦争の話。
娃子は戦争の話が大嫌いだった。戦後生まれの娃子であったが、なぜか戦争の話は恐かった。恐がれば大人たちはさらに面白がり、実に楽しそうに戦争の話を続けたものだ。
そんな飲み客も帰って行けば、途端に絹枝も庄治も不機嫌になる。絹枝の不機嫌さはともかく、庄治にすればこのままずっと続いてほしい時が終わってしまうのが嫌なのだ。
客が帰った後の重く白々しい空気。つい先ほどまでのざわめきの陰鬱な澱みが娃子には耐え難い。残されたタバコの煙と酒の匂いが合いまった中で眠らなければならない。また、苦しい眠りがはじまる。
そんなある夜、酔っ払いが二人ほど玄関の戸を叩きながら何か喚き始めた。それでも、絹枝と庄治は平気で寝ていた。娃子はますます眠れない。どのくらいたっただろうか、やがて声がしなくなり、やっと眠ることが出来たが、朝は早々に叩き起こされた。
これから、絹枝とともに「
戦後の爪痕の残る頃、軍需関係の施設の近くを掘れば何か出て来た。また、海に打ち捨てられた残骸もある。鉄だけでなく、特に
また、夜、娃子を寝かしつけてから出かけて行くこともあった。その時は、早く寝ろ寝ろと迫られたものだ。だから、娃子は必死で眠った。いや、絹枝も必死だった。
長く雨が降り続き、金も使い果たし、その時は米もない状況だった。掘っても掘っても収穫はなく諦めかけた頃、大きな砲金が出て来た。それは八百円の値が付いた。その金で闇米を買うことが出来た。その時の嬉しさは後々までの絹枝の語り草となった。
いや、これらの多くは違法行為である。見回りもやって来て、見て見ぬ振りをしてくれる時もあるが、警察に連れて行かれたこともある。しかし、こんな時でも、庄治は要領よく逃げ延びたものだ。
娃子にも家に金がないと言うことはわかっているが、さりとて、幼い子供に何が出来ると言うのだろう。
そんな絹枝の不満は娃子にぶつけられる。とにかく朝から怒られるしかない。
ついさっき怒られたことを繰り返すまいとしても、怒られる。オヤの言うことを聞けというから、聞いているのに怒られる。
近所の大人に対する口の聞き方とかは、まだわかるとしても、子供同士の軽口でさえ怒られ、転んで膝を擦りむいただけでも怒られる。
「転ばんように、遊べんのか!」
娃子は絹枝がうるさいから、気をつけているつもりだが、それでも怒られる。だが、娃子は近所では大人しいいい子なのだ。
評判悪いのは路地を挟んだ隣の二階の、娃子より一つ下の娘である。みんなから「おマセ」と言われ、おマセのくせに人が菓子を持っているのを見るとすぐに「ちょうだいちょうだい」と食べかけのものでもくれるまでまとわりつく。娃子や他の子達は欲しくても、人に食べ物をねだったりはしない。
それに比べれば、少なくとも娃子は大人しくしているのに、どうして毎日怒られなければならないのだろう。
もっともどこのオヤでも子供をガミガミ怒っていた。それも競争のように怒る。それが教育だと思っているようだ。
ある時、絹枝がしゃもじに付いていたご飯粒をなめた。次に娃子が同じことをすれば、それこそこっぴどく怒られたものだ。絹枝と同じことをしただけなのに、逆に怒られてしまう。
「悪いことはマネせんでもええ。お前は悪いことばかりマネしやがる。少しはええことをマネせい!」
日頃、オヤの言うことを聞いていれば間違いないのだと聞かされているのに、その善悪の判断は自分でしろと言うことか……。
マネされて悪いようなことをしなければいいのにと、言い返すことよりも娃子はあきれてしまう。こんな時、待ってましたとばかりに庄治は便乗怒りをする。
「そうじゃそうじゃ、悪いことばっかり覚えてからに」
庄治にだけは文句を言われたくない。酔っぱらって散々醜態をさらすくせに、ちゃっかりトラの威に張り付く。
そして、うれしそうに笑う。
----やーい、こいつ、知らんのんでぇ。
知っている。
誰に聞いたわけではないけど、娃子は知っていた。
この人たちは本当のオヤではない。
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