第12話 羅針盤は北を指さない

赤き騎士キジルバシ団長タフマースブ」

 思わぬ名をスレイマンが口にする。

「ハターイーに魅かれたが故に、ハターイーの心を鎖で縛る者。

 その苦しみ故、ハターイーは葡萄酒に酔う。しかし世の人は知らぬ。ハターイーは珈琲によって醒めると」

 思わず私は珈琲のグラスを置く。

「……そなた初めから私をハターイーと知って……」

 スレイマンのもったいぶった口調からそうかとは思っていたが、何故タフマースブの名が出てくるのだ。


 スレイマンが小箱を取り出す。

「これをお渡ししたかったのです。チャルディラーンで我が軍が戦利品として得たものの中に……」

 小箱には翠玉の髪留めが入っていた。

 サファヴィーの赤き騎士は帽子フェズを髪留めで止める。

 髪留めは騎士がそれぞれに職人に作らせ、同じものは一つとしてない。

 私がこの髪留めを見誤るはずがない。

 震える手で、裏返すと、銀に刻まれた稚拙な文字が読める。


 ―イスマーイール 汝の友

 これを彫ったのは、銀細工師ではない。

 私だ。幼い私が未来の赤い騎士団長となる少年のため、銀細工師のもとに通い未熟な手で彫ったものだ。


 動揺を抑えながら問う。

「スルタンの戦利品であろう、何故私に?」

 それには答えず、スレイマンはまた話を逸らす。


「これもシャーに」

 スレイマンが差し出したのは先ほどの美しく装飾されたハターイーの詩集。

「……要らぬわ」

 何故他人から自分の詩集をもらわねばならぬ。

「表紙の裏を見て下さい」

 言われた通りに表紙をかえすと、そこにはアラビア文字から成る鮮やかな花押トゥグラ。それが示す名は。


「……スレイマン?」

「はい、あれこれ意匠を考えた末、そのような形にしてみました。如何でしょう?」

 如何でしょうと言われても。ため息が出てくる。

「…良いのではないか?」

 そう答える他あるまい。何故私がスレイマンの花押について評論せねばならぬ。

「その下を見て下さい」

 ――ハターイーの詩を愛する者


 苦笑するしかない。この王子は一体何をしに来ているのだ?

「私はハターイーの詩に心とらわれた故、私の名を書に印しハターイーに捧げるのです。そのように、赤き騎士団長に心を囚われたイスマーイールはその名を髪留めに刻み、騎士団長に捧げたのでしょう」

 そう言いながら髪留めの裏の名を指して、私の目を見る。私はそのみどりの目から逃れるように言う。


「イスマーイールなどよくある名だ。それに何故この髪留めの持ち主が騎士団長だとわかるのだ」

 この問いにはスレイマンは少し答え辛そうに、だが答えた。

「……捕虜を通して遺体の検分を行いました。お望みならば、詳しくお話しますが……」

「いや、聞かずともよい」私はスレイマンの言葉を遮り即答する。

 どこかで生きているなど、そのような希望はもとより捨てていた。だが、はっきりと聞きたくはない。

 それに、私が名を刻んだ髪留め…。

 私は少しいてスレイマンに言う。

「何も言わずともよい、英知の王ソロモンの名を持つ王子よ。髪留めも詩集も感謝して受け取ろう」

 これ以上この話を続けていれば、この聡明な王子に心の内を見透かされるばかりだ。

 ……いや、既に見透かされてはいるが。


「王子、珈琲をもう一杯いかがか?」

「喜んでお受けします、王」

「それから、そなたの花押は見事だ」

 その花押よりも華やかな笑顔を浮かべ、スレイマンが珈琲のグラスを差し出す。

 手鍋ジェズヴェを傾け、グラスに珈琲を注ぐ。

 他愛ない話に離宮の午後は過ぎゆく。そして日が傾く。


「私はそろそろ戻らねば。王よ、いつかまたお会いできる日を」

 持って回った物言いで散々人を振り回したが、最後には屈託のない笑顔で王子が別れを告げる。

神の望むままにインシャーアッラー

 私が見送るのはこの部屋の入り口までだ。

 皇帝スルタンスレイマンの時代―そのときが来ても私はこの部屋で永遠に明けぬ喪に服しているだろう。


 金色こんじきの光が去った部屋は、また喪の色に戻る。

 羅針盤は北を指さない、か。

 サファヴィー教の信徒は私を北斗星になぞらえ、タジルーとスレイマンは私を磁石になぞらえた。


 だが、私自身が羅針盤だとしたら。

 翠玉の髪留めを手に取る。

 心囚われし故、名を捧ぐ……そのように考えたことはなかった。

 いつからか、などわからない。だが、この髪留めに名を刻んだ時、私の心は既に囚われていたではないか。

 暮れゆく空に北斗星を探す。

 だが、罪人ハターイーの羅針盤は北を指さない。

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