第9話 磁石

「救世主はご存じでしたか? 羅針盤は北を指さないものだと」


 今日一日でその比喩を用いるのは私以外で三人目だ。

「何が言いたい、タジルー」

「ご覧下さい」


 そう言ってタジルーは壁に掛けられた羅針盤を外して絨毯カーリシュの上に置く。

 海に憧れ、海を知らぬ少女が、ペルシアの商人を介して手に入れた宝物だ。

「北を指しているではないか」

 タジルーは立ち上がって宝石箱を取りに行き、そこから小さな黒い石を取り出し、羅針盤に近づける。

 北を指していた羅針盤は石に強く引きつけられてそこで止まる。


磁石ムクナトゥス?」

 昔から好奇心が強く変わった娘だった。

 タジルーはうなずく。

「羅針盤は磁石が近くにあると、磁石に引きつけられ、磁石の方を向くのです」

「だから?」

 オスマン軍がタブリーズに迫りつつあるというのに、何を講釈しているのだこの女は。


「兄が羅針盤だとしたら、救世主は磁石なのです。

 羅針盤に北を指すという神のことわりを忘れさせるのが磁石なのでしょう」

 怒りと悲しみと、そして嫉妬の混ざった声でタジルーは言い、磁石を絨毯の上に投げ捨て、羅針盤だけを持って荷造りを続けた。


 私は絨毯カーリシュに膝をついたまま、動かなかった。動けなかった。


 私は救世主ではない。北斗星でもない。

 私は、羅針盤に神の理を忘れさせる磁石。

 生きるべき友に命を捨てさせた罪人。



 その後、どのようにしてタブリーズを離れたのか、もはや覚えていない。

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