第4話 桟道

 オスマン軍は砲撃戦を得意とする。

 だが、戦いとは人と人が向き合って刀を交えるものだ。憎しみが敬意に変わるまで、目を見、言葉を交わしながら打ち続ける。そうやって仇敵から比類なき忠臣となったものが多くいる。だが背教者セリム自らは陣地の奥に姿を隠し、砲撃の号令を続ける。オスマンのイェニチェリらよ。何故このような主君に従うことができるのだ?


 それとも、セリムより20歳以上若い私がこのように考えること自体、この者らには滑稽なのだろうか。


 だが私は私のために戦う勇敢なる戦士を見捨てはしない。私は臆病者ではない。卑怯者でもない。

「タフマースブ、右軍の退却を援護せよ」

 セリムは敵の王には苛烈だが兵には寛大だと聞く。

 退却にあたり、私が左軍を率いる。セリムは私の首級をあげるために左軍に兵を割くはずだ。

 私が敵を引きつけている間にタフマースブの右軍は退却することができる。


「救世主の身を危険に晒すなどできませぬ」

 忠誠比類なき騎士が、忠誠故に私に逆らう。

「それではこう言い換えよう。そなたが戦場を離脱するのは、タブリーズにいる王妃と王子を守るためだ」


 王妃タジルー・ハーヌムはタフマースブの妹。

 ――救世主はずるい、いつも兄上を独り占めなさって

 そう脹れていた亜麻色の髪の少女は、王妃となった今も顔を合わす度に兄の話ばかりする。いや、私からタフマースブの話を始めているのか。タフマースブを取り合って喧嘩ばかりしていた子ども時代と、何も変わっていない。そうだ、タジルー。私が帰るまで、そなたに兄を返してやる。


 そう言ってもなお、タフマースブは私の身を案ずる。だから問う。

「タフマースブ、私は誰だ?」

「無謬の救世主、アリーの生き姿、シャー・イスマーイール」

 そしてお前のアルカダーシュ

「私が率いる軍は負けない。私を信じるものを死なせはしない」


 各部隊に指示を出し終えた私は、チャルディラーン平原に残り、オスマン軍の追撃を待つ。タフマースブらが退却するための時間を稼ぎながら、敵を西の桟道に誘い込む。桟道は守りやすく攻めにくい。つまり我が方に有利。だが、シャーが相手とあらば、敵は不利を承知で追ってこよう。退却戦としてはこれが最善だろう。


 自分の策をもう一度確認しながらオスマンの追撃を待っていたとき、東の道へ向っていたはずのタフマースブが、私の方へ引き返して来た。

「救世主、もし私がスルタンなら…」

 何か言いかけて言葉を濁す。


「そなたは<冷酷者ヤヴズ>ではない。強く、優しく、温かく、私が最も信頼する者だ」

 断言する私に、タフマースブは言いかけた言葉を飲み込んで微笑む。

「……救世主は、誰よりも美しく気高きお方」

 そう言って、私の乱れた髪を慣れた手つきで整える。


 腰まで垂らした私の黒髪に、煙の臭いが滲みている。思えば朝からずっと大砲の煙の中にいた。

「はやくこの忌まわしい場を離れよ。そして、沐浴の用意をして私の帰還を待て」

 かぐわしき乳香に包まれ、タフマースブが私の髪を梳く。目を閉じ櫛の流れに身を委ねる。

 幼き頃より積み重ねてきたその時間こそが私の楽園。


「待て、タフマースブ。そなたこそ帽子フェズが」

 赤き騎士キジルバシの象徴たる赤い帽子が、先ほどの乱闘のせいで少し傾いている。私は手を伸ばし、翠玉の髪留めで帽子を亜麻色の髪に留め直す。帽子フェズの赤は勇気、翠玉の緑は正義。アッラーよ、私の友はかくも美しい。


神は偉大なりアッラーフ・アクバル

 退却を促しつつ、その言葉通り、神が私にき友を与えたもうたことに感謝した。


神は偉大なりアッラーフ・アクバル

 敬礼して、赤き騎士は東の道へと去る。頭の後ろで束ねた亜麻色の髪が風に揺れる。だが、赤い帽子フェズは翠玉の髪留めで留められ動かない。私は、その姿が見えなくなるまで東の方を見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る