眠り
戦局を決定的なものとし、バシュトーにとどめを刺さずに帰還を行うパトリアエにバシュトーが抵抗しなかったのは、王の傍らにある騎馬に、黒い墜星の姿があったからであろう。
その姿を見て、それに刃を向けようというような者はなかった。
ザハールが生きているとして、それを人質にしているというわけではない。死んでいるとして、その亡骸を盾にしているわけでもない。ただ、無敵の軍神のようにしてバシュトー軍の中で、いや、この天地の中で名を轟かせていたザハールですらこれほどに傷付き、このような具合になってしまうほど、戦いというものは恐ろしいのだということを彼らは見た。見て、知った。
これまで長きに渡り、どれくらいの数の者がこうして戦ったのか。そして、どれくらいの数の者が死んだのか。空にある星を数えることができぬように、それを数えることは誰にもできない。
この戦場には、何も残らなかった。いや、戦いは、彼らに何ももたらさなかった。戦うことで示すことができるものなど、はじめからなかった。
彼らは、一様に知った。だから、グロードゥカを目指すパトリアエ軍の背を突いて一矢報いようとする者がなかったのだろう。
戦場に吹く風にさらされるばかりのバシュトー人たちはパトリアエ軍を見送るだけ見送ると、なんとなく集まり、なんとなく南を目指しはじめた。そういう姿こそ、むしろ自然な姿であるようにも思えた。彼らは、もともと、広大な乾燥した原野で家畜を飼う人々なのだ。
これから、彼らはどうするのか。建って間もないバシュトー王国はどうなるのか。それは、史記はこの時点では題材とはしていない。ただ、彼らが退いてゆく姿を端的に描くのみである。
ノーミル暦五〇九年、二月。古くから用いられたこの暦が四八一年であった頃に端を発した、いわゆる創世の戦いは、二十八年という歳月を経て、ようやくその終わりを見た。
戦後というものは参加した者への論功行賞や、損害を受けた部隊を別のそれに組み入れたり、配置換えをしたりと様々な処理を行う必要があり、忙しい。
その処理の一環として描くべき出来事があったのは、五一〇年の四月二日のことである。
この日、グロードゥカの中央の広場に、ある男が引き出された。集まった人々は万を超えていたといい、それらは揃って亀のように首を伸ばし、これから広場の中央で起こることを見守ろうとしている。
進み出てくる、復活の巫女。そのうしろには、かつて大精霊の巫女として立ったその母。復活の巫女に寄り添うように、隻腕隻眼となった将スヴェートがいる。彼は右腕しか持たぬようになったが、そのたったひとつの腕の先にある手を、復活の巫女リシアの背にそっと添えていた。
しばらく、それは静寂に身を任せていた。それが解かれたのは、しずかに王の旗が王城の方からこの広場に進んできてからだった。
王は、儀礼のときの服装をしていた。その姿でしずかに群衆を見渡し、そして眼を落とし、視線を言葉に替えた。
「これにあるのは」
黒い墜星ザハール。罪人のようにして引き出されてきた男のことを、王はそう呼んだ。
「かつて、ウラガーンとして我らと共に立ちながら、その刃を大精霊に向けて返した」
それは、死をもってしてもなお償えぬほどの罪である。
「だが、彼もまた、人である。彼を知る人がいる。──これに」
アナスターシャと、リシア。二人の女性が、眼を伏せている。
「俺は、どうしても、この黒い墜星ザハールを罪人として殺す気になれぬ。かつて天をともに戴いたからではない。彼を知る人がいると思うから、そうすることができぬのだ。俺には、どうやら、王たる資格が薄いものらしい」
しかし、誰もその通りだとは思わなかった。この天地の間に、ザハールの死を願う者など誰一人としていないのだ。
「しかし、ここには、国がある。ひとつ、これを許してしまえば、またいつか、新たな乱れが生まれ、我らの子を、その子を、孫を苛むやもしれん。我らは、それを恐れる」
そうだろう、と問うような響きが王の言葉にはある。人の同意を、自らの行動の理由としたがるように。
「我がひとつの心のことではない。終わりなく連なる、人の心を想おう。俺たちの国とは、そういう国なのだから」
このとき、はじめて王の姿を見、言葉を聴いた者も多い。これが王かと感嘆を漏らすほど、それは人の目に、心に染み込んでいった。
「俺は、すでに我が友サヴェフを失った。ここにある者の中にも、多くそのような者があろう」
誰もが、痛みの中にいる。この二十八年、いや、この数百年の間、ずっと。
「ひとつの痛みを甘んじて受けることで、のちの痛みを避けることができる」
だから、と王は言葉と唾を飲み込んだ。
「だから、今から俺がすることを、許してほしい」
人の中には、涙を流している者もある。しかし、ふしぎと、ふたりの巫女は落ち着いていた。スヴェートがリシアに小さくなにかを言ったが、リシアは静かに頷いただけである。
「ここに大精霊の刃を受け、黒い墜星ザハールは死ぬ」
その前に、アナスターシャとリシアとを会わせてやりたかったのだろうか。シトはバシュトーと共に南へゆき、行方は知れない。
「俺が言いたいことは、これで全てだ」
黒い墜星は、なにも言葉を発しなかった。しばらくまた静寂を呼び、英雄王はそれを見守った。
「では──」
自らの剣を抜いた。それをゆっくりと掲げ、振り下ろし、彼らの痛みを断ち切った。
筆者は、思う。このとき群衆の前に引き出されてきたのは、ほんとうにザハールであったのかと。ザハールはあのウィトゥカ大会戦のときにヴィールヒと渡り合って死に、その死体は記された通り回収されたにしても、それをあたかも生きていたかのようにしてこういう場を設け、人に戦いの終わりを知らしめるための演出のようにしたのではないかと思えるのだ。
しかし、その真実がどのようなものであったのかということを論じることはない。このときの人々にとって大切なのは、創世の英雄の死によって、彼らが求めたものが歪んだものであると断じ、人がもともと持つものこそ人が求めるべきものであると定めたということである。
墜ちた。多くの星が、数えきれぬほど。その光が、歌が、人の目に、心にある。
だから、彼らはゆく。
墜ちる星の滴の歌の、その先に。
その後すぐ、パトリアエは、騎馬隊を持たぬようになった。その代わり、その強力な生産力をもとにして各地の要所の防備を強化し、兵の武装もかつてルスランが率いたような重装歩兵を主体としたものに切り替えられた。ベアトリーシャがもたらした兵器なども多くはその建造法から封印された。
守るために必要のないものは、全てパトリアエから消えた。その代わり、誰にも手を出せぬほどに強力な守りを彼らは得た。それが、こののちのパトリアエ王国の伝統のようになり、この長い史記の終わりの時代まで続くこととなる。
ザハール処刑のそのとき、それを見守るリシアの傍に立つスヴェートは、そっと声をかけた。
「俺たちが、いや、人が求めたものとは、人として産まれながら、当たり前に持つものだったのだろうな」
リシアは、首のない英雄の身体に眼をやったまま答えた。
「はじめから知っていて、それだけでよかったのに、ほかのものなんて、なにもいらなかったのに。それなのに、どうしてこれほどまでに血を流し、痛みをこらえ、戦って、求めなければならないの」
それに応じる代わりに、スヴェートは言った。
「俺には、お前がいる。片腕も片目も失ったが、そのことを嘆くより、お前が生きてここにいることを喜んでいる」
リシアが、はじめてスヴェートに眼を移した。それを受け、スヴェートははっとした。
「あなたは──」
リシアの目が、揺れている。それはひとつ光り、滴となって墜ちた。
「──どうして、それほどまでに傷ついてなお、わたしを?」
「簡単さ」
驚きのために開かれたスヴェートの目が、柔らかく細まった。
「俺は、お前を知った」
リシアがなにか言おうとしたとき、英雄王がまた群衆に向けて言葉を発した。
「国を。誰にも触れられぬ、我らの国を。誰にも奪われず、誰から奪うこともない。ただ、求めていよう」
光を。戦いではなく、光を。血も、屍も、英雄もいらぬ。それが喩えられる、龍も。全てを打ち壊す風も、それを押し流す雨も。
人が星を見上げるのは、それに与えられた物語を歌うため。しかし、見上げていては、進めぬのだ。
星の歌ではない。それを歌う人こそが。それをこそ、光という。人が求めるべき光とは、目に見える星ばかりでなく、もともとその目の中にあるのだ。
「それを、俺たちは、いや、俺は知った」
戦いの中で。知り人の死で。それが生きたときに燃やした、まばゆい光で。英雄王は、人にそう語りかけたという。
人はそれをその耳と心に深く刻み込み、リシアがその瞳から滴をいくつも、いくつも墜としながら、それでも懸命に、自らの傍らで静かに微笑むスヴェートを見上げ、それと同じ顔を作ろうとしているのを見たという。
──龍、戦い止みて、ひとときその牙を収む。その眠る間、大精霊、これを翼のうちで庇う。
ウラガーン史記 第百五十九節七頁「眠り」より抜粋
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