隊列
この決戦の場に集った兵が、それぞれわっと声を上げて駆け出した。両軍合わせて二万近い数である。そうすると、天地が震えるようであった。
これが、彼らのよく知る戦いの場なのであれば、両軍の兵はこのあとただちにぶつかり合い、そのいのちを奪い合うことを始めるだろう。
しかし、違った。これは、史記において描かれる無数の戦いのうち、きわめて異質なものであった。
両軍の兵は、それぞれ駆けた。駆けて、それぞれの将のところに集まった。パトリアエ軍は傷ついて瀕死になっているスヴェートを、バシュトー軍は血を流して気絶しているシトを──おそらく、顔の骨が折れていることであろう──抱え上げ、互いに潮の引くようにして退いた。
パトリアエ中央軍歩兵が合流したが、それは復活の巫女の軍を収容する役目だけを担い、バシュトー軍を揉み潰すようなこともなかった。
戦いは、彼らの思い描いた戦いは、このようにして終わった。さいごに、彼らはそれまで求めてきた戦いとは別のところに至り、それを決着とした。スヴェートが史記に名を深く刻むのは、間違いなくこのときの働きによる。彼は、あらゆる意味で前例がない存在であった。親を知らず、混血で、混沌の中で青年期を過ごし、人が彼に何かしらの希望を重ねて押し上げた。そうして彼を作ったあらゆるものが、そのまま、彼の内側で奇妙な醸され方をし、このきわめて特殊な存在を生み出したらしい。
「スヴェート」
収容され、素早く手当てが施されているスヴェートにマーリが駆け寄る。彼は戦いの中で己の才に目覚め、それを世の役に立てようと努めてきた。それはすなわち、スヴェートを
しかし、彼は、このとき知った。策ではないのだ。戦いとは策ではない。どこに何千の兵を配置して、とか、行軍にどれほどの時間を要するから、とか、敵の兵站はどうなっていて、など、そういう山道に散らばる石ころのようなものをいくら集めても、世のことは成らぬのだと確信した。
人には、器というものがある。それを、改めて知った。スヴェートという計り知れない器を、このあとの世を容れるだけのものに磨きあげることに自らの生を使うべきだとこのとき思い定めたのだという。
顔を白布でぐるぐる巻きにされ、左腕の肘から先を失い、全身に数えきれぬほどの傷を受けたスヴェートを見てそう思うというのは、マーリもまた常人の感覚から外れたところにあるということであろうが、当人にその自覚はない。このときは、ただ、目の前にあるものを見て感ずることに従順であるのみであった。
ふと、バシュトーの陣に眼をやる。そこにはやはり兵の人だかりが出来ていて、あちらも同じことをしているのか、とマーリは思った。
ここにいる将は、死ぬためにここに至ったわけではない。誰もが、その生を願っている。ただそれだけの、当たり前のことが見て取れた。
多くの者が、スヴェートの名を呼んだ。人はまるで陽にかかる笠のように彼を囲み、それぞれに声をかけている。そのどれもが異なる色と温度を持ち、同じ音色をしていた。
その中に、またひとつの声が混じった。
「スヴェート」
透き通った、まるい、砂漠をゆく人が荷に載せてくる陶器が鳴るような。その声を、史記はそう表している。
人の海をかき分け、恐る恐る、それでいて急いで駆け寄り、両の膝をついた。
「──手が」
取ろうとした手が無く、行き場を失ったようにして自らのそれを泳がせている。
「リシア」
スヴェートもまた、名を。
「とんでもないことになった」
ぐるぐる巻きにされた白布の奥で、笑ったのが分かった。それを見て、リシアは不意に涙が溢れるのを禁じ得なかった。
「傷ついているのは、あなたなのよ。こんなときは、痛いと言えばいいのに」
傷ついてなお、リシアを気遣っている。苦しみを叫べばリシアが悲しむ。そう思って、冗談のような口調でものを言うのだろう。スヴェートには、こういう明るさとも違うものがある。それを表す言葉を、史記はこう残している。
「心細かろう」
リシアは、そのスヴェートを見て、言った。
「やさしい人」
そして止めようもない涙で、彼の衣を染める血をわずかに薄めた。
「戦いは、どうなっている」
唇を開こうとしたリシアの代わりに、マーリが答えた。
「両軍、退きました。今、英雄王の軍もこちらに向かって来ています」
「父は──いえ、黒い墜星は」
リシアが憚るように問うた。父の安否は気になるところであろうが、それはパトリアエにとって不倶戴天の敵となっていることを気にしたのだろう。
「おそらく」
その心情を酌んだマーリが、眼を伏せた。ザハールの戦死は、その現場から離れた復活の巫女の軍の位置からでも疑いようはなかった。
「そうですか」
リシアは、その胸のうちの揺らぎをどうにか平静なものにしようと努めている。それを語る沈黙に、スヴェートが言葉を差し入れた。
「朝、目覚めたとき、いるはずの者がいない。それに似ているな」
眠りというのは、人をその営みから遠ざける。そして目覚めとともに自我へと立ち戻ったとき、当然に存在するものが消えている。そういうことがあれば、狼狽し、心が騒ぐ。スヴェートは、このような妙な例えを用いることで、リシアにザハールの死を、我が父の死として捉えてよいのだということを示したのだろう。
「戦いは、終わった。ひとまず、そう言うことができるでしょう」
マーリが、戦局をそう告げた。英雄王が率いる軍がゆったりとした隊列で向かってきているということは黒い墜星を討ち果たしたということに違いなく、なおかつバシュトー本軍も壊滅とまではいかずとも甚大な被害を受けており、さらにそれを率いているシトも倒れた。シトの首を跳ね飛ばし、それを掲げて回らずとも、戦いは終わったのだ。
「英雄王の軍が、もうあれほど近く」
マーリが首を回し、その目にあるものをスヴェートに伝えてやる。なにか言おうとして、それが止まった。
「──あれは?」
思わず、立ち上がる。
「なんだ」
身を起こすことのできないスヴェートが、眠りかけているような色の声を発した。その右手にリシアの手がかかり、強く力が加わった。
「ああ──」
感嘆。ただそれだけがそこにあった。
英雄王の旗。その下にある白馬が、ヴィールヒその人であろう。従っている馬の一頭に、漆黒の軍装の者が載せられている。跨っているのではなく載せられていると言うのが適当であるような具合に、その身体からは力が失われ、騎乗する者に抱えられるようにしてうなだれていた。
生死は、分からない。しかし、それは、紛れもなく黒い墜星であった。単に敵将としてその亡骸を回収したのかもしれない。しかし、それならば、馬の背に括り付けでもすればよい。それをせず、あたかも黒い墜星が自ら手綱を取っているような姿勢を取らせているのは、彼のその誇りや燃焼させた生への敬意とも見て取れた。
リシアは、父の生死よりも先に、その姿がそこにあるということを認めて感嘆の声を上げたのだ。
やがて、英雄王の軍が復活の巫女の軍に合流した。
「戻ろう」
この場にいた多くの者は、英雄王みずから口を開くとは思っていなかったし、開いた結果、このように単純な、ちょっとどこかに出かけていただけであるかのような無感情な色合いのものが降ってくるとは予想しておらず、やや当惑した。
「グロードゥカに、戻ろう」
戦いを労うこともなく、ただ、そう言った。
「俺たちの誰も、ここには求めるべきものを持たぬ」
グロードゥカというのはひとつの例えで、ここにいる者の一人ひとりが帰るべきところ。そこに帰ろうと言ったのだと史記は言うが、ややヴィールヒに好意的てあるようにも思う。
ともかく、パトリアエ軍は戦場を東に向けて運行した。途中、バシュトー本軍を突き分けるような形になったが、交戦はなかった。
彼らの長い、長い隊列は西の国で作られる織物の柄のように粛然としていて、戦いのあとも乱れぬ、人の心の根底にあるものを知る人々が為す列のようにも、葬列のようにも見えたという。
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