記されたその光景

 ヴィールヒの狙いは、ザハールそのものではなく、その周囲にある漆黒の騎馬隊であった。戦場で用いられるはずのない王の旗を翻し、次々とそれを屠っていっている。

 サヴェフは、もとより、このような激突を望んではいなかった。彼は、これを避け、互いに滅びを見るぎりぎりのところで講和を結び、互いに受けた傷のことを思い、人がどこに向かおうとするべきなのかを示すつもりであった。ヴィールヒは、それをしながら、サヴェフの死後、自らの思うようにその言い残したことをことごとく破った。

 それは、いわば、ヴィールヒの自我の萌芽である。長きに渡って彼の心があった地下の暗い闇から、ようやく抜け出そうと足掻くことを始めたとも言える。

 彼は、戦いを選んだ。かつての十聖将は次々と死に、星となって名を残した。

 彼は、求めた。人が求めるべきものを求めるために、求めるべきでないものを求めた者がいたということを人に知らしめることを。そして、それは、悲しく、非生産的なことであるということを。

 それに名を与えて、英雄と言う。彼らの歌を人が歌ったとしても、人は、その先に行かねばならぬのだ。


 戦いの女神ラーレ。我こそが国家の守護者たらんとし、軍備を増強し兵を鍛え、自らもまた女の身でありながら武を極めた。しかし彼女が求めるべきであったのは我が知る人の光のみであった。

 大軍師ペトロ。サヴェフの求めた、歪みを正すためわざと人を歪ませるというやり方に反発し、自らの戦いを選んだ。それをすることが、責任であるとでも言わんばかりに。

 バシュトー王サンラット。はじめ、国など求めもしなかった朴訥な男が、いつの間にか国のありよう、戦いのありように思いを至らせ、武でもってそれを正さんと立ち上がるようになった。しかしその背後には数万、直接戦いに参加せぬ者も合わせれば十数万のバシュトー人がおり、それらはことごとく戦いの場に身を置かざるを得なくなった。

 そして、黒い墜星ザハール。ただ剣に映る己を見、武を磨くことで己を鍛えるようなところがあり、それが彼の全てである。そのような男が国家の存亡を懸けた戦いを取り仕切って、どうすると言うのか。


 誰もが、戦うべきではなかった。その歪みは美しくも何ともなく、ただ悲しい死を積み上げるのみであった。

 しかし、彼ら英雄は、十分に示した。

 この世に英雄など、そう必要とされるべきではないのだということを。

 いつまでも、それにしがみ付いてはいられない。終えるのだ。それも、今日。その意味では、ヴィールヒもまた、ザハールと同じ見地に立ち、同じものを求めていると言えるかもしれぬ。

 この戦いのあと、人は、星を見上げて歌うだろう。そのとき、人が今と同じ場にあってはならない。今積み上げている数々の矛盾とそれがもたらす歪みと無理と悲しみと理不尽を越えた先で、それは果たしてどのようなものであったのかと思いを馳せなければならない。

 知らずに生き、死ねるなら、これほどのことはない。そういうものを人に知らしめるためウラガーンは集まり、戦い、追い、求め、示し、生き、あるいは死んだのではないか。


 漆黒の騎馬隊が、頼りないほど地に落ちている。あたらしく志を立て、戦いへの適性を示したがためにここにいる若者もあれば、二十年前から同じ軍装を身にまとう古老もあった。

 同じものを求めていながら、終えることを終着点とする者と、その先にかんとする者との間には、決して越えられぬものがあった。だから、ザハールはラーレを破ってここに来た。戦いとは、いつもそういうものであった。

 その駆る黒馬が、巨体を震わせながらヴィールヒの騎馬隊の最後尾に食らいついた。

 涙の剣。空を斬る音すらなく、一人を叩き落とした。それを振るうときには相当な痛みが生じるはずであるが、感じていないのだろうか。黒馬はなお騰り、剣はなお唸り、ザハール自身からも咆哮。

 王自ら率いる騎馬隊の士気は、高い。それが、ザハール一人によって次々と葬られていっている。ザハール自身がこの戦いのことをどう捉えようと、この天地で最も高められた武がここにある。

 しかし、彼は見通していた。ヴィールヒが、どこに向かっているのかを。それでも、追わざるを得なかった。追い、決着を見てはじめて、戦いを終えられる。そう思い定めた。

 たった五百の騎馬隊が、何万もの大軍のように感じられた。それほど、先頭を駆けるヴィールヒは遠かった。何人馬から落としても、新しい一人が目の前にあらわれ、またそれを叩き落とした。なにか、永遠にそれを続けてゆかねばならぬような、そうしても永久に求めるものには辿り着かぬような感覚に陥った。

 その視線の先、さらにその向こうには、歩兵団。それがパトリアエ中央軍重装歩兵団であることがはじめて見て取れた。

 王自ら切り離して率いた騎馬隊はわずか五百ほどであるから、万近い重装歩兵が全力で衝突の場を目指している。それに向かって、ヴィールヒは駆けている。

 ──少しずつ我が直属を削り、俺を丸裸にするつもりか。

 そして歩兵の壁の向こうに潜り、また機を見て飛び出す。ヴィールヒが取る行動がによるものなのであれば、そうなのだろう。しかし、ザハールは、同時に思った。

 ──俺の顔を、見に来た?

 数年前と今とで、自分がどう変わったか。それを、単に見に来た。その間には漆黒の騎馬隊が駆け回っているから、都合、払い除けた。そういう風にも思えた。


 ヴィールヒの思考は、よく分からぬ。ただ、彼は分厚い盾や鎧を身につけた──ルスランが率いていたような──歩兵の壁の向こうに消えてしまった。

 ザハールも仕方なく追撃を諦め、矢の射程に入らぬようにその歩兵団と平行線を描くようにして運動し、やがてかなりの距離を取ることになってしまったバシュトー軽騎兵がいるところに向けて首を回した。


 混乱している。それが、一目で分かった。

 敵の襲撃を受けているわけではない。しかし、間違いなく損害を被っているときの乱れ方である。

 背筋に、粟が立った。その混乱の模様に、見覚えがあった。

 さらに視線を遠くすると、そこにはアーニマ河。古くから大地を潤し、恵みと物と人を運び続けてきたそれが、横たわっている。

 そこに、船が浮かんでいる。ペトロの策による船はシトが全て解体し、戦車にした。だから、これはバシュトーの船ではない。

 しかし、船から何かが射出されていて、それが混乱をもたらしていることを悟った。もう、それを見れば、ザハールには分かる。

 バシュトー軽騎兵から河まではかなり距離がある。それを飛び越えて射出されるもの。

 バシュトーのいるところに落ち、その度に混乱と叫び。

 ベアトリーシャがかつて開発した兵器である。その頃よりもさらに改良が加えられているらしく、船に大型の射出器が搭載されており、そこから風切音を立てながら甕が飛び、落ちて弾けている。


 ザハールは、一個の存在として、なにごとかを示そうと、あるいは確かめようとここまで来た。しかし、ヴィールヒは違う。ザハールがここに来ることを予見していたかどうかは分からぬが、前もってこの戦場でこの延々と続く戦いを終えようと考えており、徹底的にバシュトー軍を叩くつもりでいた。

 おそらくこの戦場に今現れた兵器は、サヴェフを亡くしてから出戦までの間に、決戦の時を早めるべく急造されたものであり、ヴィールヒが来着してから長く動かなかったのは、それが到着するのを、そしてそれを用いるべき瞬間を待っていたのだろう。

 もともと、求めるものが違う。個としての存在において世界を見るザハールと、衆としての存在の一部であることを終えることで個を見出そうとするヴィールヒ。そのどちらが正しいとか、どちらが強いということはない。しかし、二人の間を隔てるものが、確実に手段の違いとなり、戦局に変化をもたらしている。

 ヴィールヒ自身は、囮だったのだ。ザハールとその率いる精鋭の数を削るように見せかけて自ら誘い、バシュトー軽騎兵に兵器でもって痛手を与える。先着していたシト率いる軍──戦術的にはこちらが主力である──を復活の巫女の軍に当たらせ、捨て駒のように使うことができたのは、この戦いを終えるための急所であるザハールが、自ら剥き出しの状態でやって来たからだ。


 甚大な被害を出しながらも、復活の巫女の軍は戦車隊を停止させた。そして少し離れた位置にある本陣からは、復活の巫女の旗を翻した中央軍が今まさに合流しようとしている。

 バシュトー軽騎兵は、飛来する無数の甕が砕けて飛び散るたび、叫びを上げている。おそらく、燃える水ヴァダシーチであろう。その威力は凄まじく、肌に触れればたちまちのうちに煙を上げて黒化する。ウラガーンがナシーヤを倒すために編み出した技術が、今、その創世の当事者であるザハールの軍に損害を与えている。

 それらを、ザハールは見回した。

 これが、自分の世界。

 パシハーバルを生かしてやってほしい。そう、ラーレは願った。産まれてすぐに預けられ、行方の知れぬようになった彼女の息子なのだろう。しかしこの戦場のどこにいるのかすらも分からず、旗が立っているのかを確かめることもできない。

 ザハールは、確信している。その父親がヴィールヒであると。彼女のいのちが消えるとき、そっと手を伸ばすようにして呟いたのは、ヴィールヒのことであった。

 きっと、ずっと想っていたのだ。その中で産まれた子を、彼女は光と呼んだのだ。

 そういうものを、戦いは奪う。

 自分は、そこに立ち、その中で生を繋ぐ龍。牙を剥き風を呼び雨をもたらして全てを押し流すもの。

 そんな歪んだ存在にすら、光はある。それがアナスターシャでありシトでありリシアであった。彼らは、ザハールを知っていた。そして、それを光だと思った。

 誰もが、もともと、光なのだ。だから、それをやめることはできない。

 これまで自分を通り過ぎていったあらゆるいのちが、光であった。その歌を歌う人もまた誰かの光であり、それが星となって墜ちれば、また別の誰かがその歌を歌うのだ。

 そうして、繋がってゆくのだ。自分の生とは、個とは、その大いなる連環の、終わりのない螺旋の一部なのだ。


 軽騎兵。どれくらい、減ったか。今、戦場でぽっかり浮かんだように静止しているザハールの漆黒の騎馬隊は、もう百あまりにまで減ってしまっている。

 ヴィールヒを収容した重装歩兵団が、前進を始めた。雨のように降り注ぐ無数の甕を受け、混乱の極みにある軽騎兵を粉砕するつもりであろう。

 その間にあるザハールの漆黒の騎馬隊など、眼中にもないらしい。

 このまま、虫のように踏み潰されて死ぬのか。それを、受け入れるのか。

 ザハールには、それはできなかった。

 何かを考えたわけでもなく、かといって無自覚でもなく、彼は馬腹を蹴っていた。驚いたような声が周囲から上がり、それを制しようとする手が伸びてきた。

 どのみち、死ぬのだ。ラーレから受けた傷は膿み、少しずつ、そして鮮やかにいのちを食い破っている。剣を握り、振るってはいるが、それを握ることすらままならぬほどに重く感じるのだ。

 もし、ザハールに、なぜ彼がこうしてなお戦場に身を置いて戦おうとするのか答えを求める者がいたとしても、彼はそれに対して何の返答を持たないであろう。

 それくらい自然に、彼は馬を進めた。

 戦うのだ。いずれ、人は死ぬ。ならば、戦うのだ。戦って、戦って、戦うだけ戦って、その向こうにあるものに精一杯手を伸ばしていればいいのだ。

 重装歩兵団。その向こうに、ヴィールヒ。さらにその向こうに、自らが光と思い定めた人。その瞳の中にのみ、己の世界はある。ならば、そこから眼を背けるわけにはゆかぬのだ。

 それが、生きるということ。それが、戦うということ。

 重装歩兵の塊の中に突き入った。ザハールの愛馬は数人までは跳ね飛ばしたが、途中、敵の握る戦斧に脚をやられた。彼もまた、疲弊しきっていたらしい。

 ひとつ嘶いて倒れる愛馬に、済まぬ、とみじかく声をかけ、涙の剣を握り直した。


 前から。

 振り下ろされる戦斧を刃で受け流し、それが地を砕いた。

 水が流れるようにして、通り過ぎる。

 そうすると、前のめりになった姿勢の重装歩兵の一人の頭が、兜ごと落ちて重い音を立てた。

 右から。さらに前に踏み出して槍をかわし、振り返りざま、その柄を斬った。木製の柄ではなく、筒状になった鉄製のものである。涙の剣は非常に硬く、ザハールほどの達人が振るえば、酷使し続けてもこれくらいのものなら簡単に断ち切る。

 そのまま勢いを付けて左の敵を斬る。いかに重厚な鎧であったとしても運動のためには必ず継ぎ目があり、そこを正確に狙っている。

 三人、四人、五人。死した者の数を数えることに、意味はない。だから、体の動くままに動き、降り注ぐ血の雨を避けようともしなかった。

 重装歩兵が恐れ、武器を繰り出さなくなった。ザハールに手を付けようとすれば次の瞬間には斬られて死ぬということが誰にでも分かった。

 それは、正しいことである。自ら望んで死ぬくらいなら、戦いになどやって来るはずがない。この場にいる全ての人が、戦いの先にあるものを求めるがゆえ、己のいのちを死の際に置くのだ。

 息をする暇ができた。そうすると、むしろ死が近づいて来るようであった。

 何度戦っても、死ななかった。毒を受けても、死ななかった。しかし、自分の身体は、たしかにもう動くことをやめようとしているのだということが分かった。

 それでも、示しておきたかった。自分が、何のためにここに来たのかを、

「我が名は、ザハール」

 自分の声が、遠くから聴こえるようであった。どこから吹いたか分からぬ風のようだった。

「若き日の志を。そのために星となった者を。その滴の歌を。闇の中で我らがあるところを指す光を。人を。心を。その生を」

 それは、すなわち。

「愛を」

 愛を。それを、求めて。それは、常に人とともに。

「それを、示す」

 さらに、声は高く。

「王やある。我が声が、聴こえるか」

 人は静かに、ザハールの言葉を待った。

「聴こえれば、応えよ。その姿を、見せよ。我が友ラーレより、預かりものがある」

 しばし、静寂。やがて、重装歩兵団が割れ、道ができた。

 視界の奥に、ヴィールヒ。ゆっくりと、馬を進めてくる。


 ヴィールヒは、ザハールを一度見下ろし、下馬した。話を聞くということである。

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