なにが二人を隔てたか
戦場に至ったザハールは、想像していたことが現実のものになったと歯を噛んだ。シトは、やはりペトロが最後の策として残した戦車隊を使用するという誘惑に勝てなかったのだ。
いや、シトを責めるわけにはいくまい。ヴィールヒの来着が、あまりにも早すぎたのだ。それゆえ、シトは船を解体して戦車にすることを秘匿せねばならず、それが完成して披露するということがそのまま戦いの場に投じるということになったのだ。
ラーレは、何を思い、復活の巫女の軍を率いるスヴェートや、我が子パシハーバルを切り離したのか。旧きもの同士のぶつかり合いで死ぬのではなく、あたらしき道を進むことをしてほしいと願ったのか。
パシハーバルを生かしてやってほしいと頼まれた。しかし、それをする前に、パシハーバル自ら復活の巫女に手を付け、激昂したその護衛とスヴェート自身によって葬られた。
その頃にはすでにヴィールヒ率いる軍の騎馬隊が突撃してきていたが、先頭を駆けるザハールを避けるようにして横合いから食い入ってきたから、なお戦場を見渡すことができた。
スヴェートが遠く、戦車隊の駆け回る戦場から復活の巫女、いや、ザハールの視点を借りるならリシアのもとを目指したとき、それがスヴェートなのだと豆粒ほどもない矮小な姿を見て確信した。それほどに、その光は強いものだった。そしてそれがリシアのところに至ったとき、喝采を浴びせてやりたいような気持ちになった。
当たり前である。リシアは、ザハールが最も求めるもののうちの一つ。彼の、光なのだ。それが、手を伸ばせば届きそうなところにある。
しかし、未だ信じることができない。戦いのために翻す旗の下に、我が娘がいるとは。幾つになったかと歳を数えたが、もう二十になっているはずだ。誰かよい者と
スヴェートは、リシアを護ったのだ。それは、自分にはできないことだと思った。自分にできぬことを代わってする者が現れているのだ。
ザハールの身体の重さは、老いのためだけではない。傷が膿み、死が迫っているのだ。それでも、彼は生きていた。生きているから、痺れる手で剣を握り、明滅する世界の中で馬蹄の響きを聴いていることができた。
リシアと共に、スヴェートはどこへ向かうのか。それを、自分は見ることがない。そういう確かな感覚の中、率いるバシュトー軽騎兵と漆黒の騎馬隊の中に突き入り、飛び出しを繰り返すヴィールヒの騎馬隊に眼をやった。
騎馬自体は、千ほどである。しかし、万近い歩兵が遅れてこの戦場の西端を目指しているのだろうと思うと、油断はできない。
突き入ってくる騎馬隊の勢いは、凄まじい。これがヴィールヒなのかと刮目する思いである。思い返せば、ヴィールヒと共に戦場に立ったことといえば王家の軍を撃滅したときくらいであるから、彼が自分の意思で戦いに赴いてくるというのが意外ですらあった。
英雄王と呼ばれる彼が駆ける後ろには、兵が狂乱と共に続いている。こういう軍が、強いのだ。
体勢を整えようと弧を描く漆黒の騎馬隊の後方で直線運動を繰り返すばかりであったヴィールヒの騎馬隊は、にわかにその運動を変えた。
──継ぎ目を、狙っている。
ここにあるバシュトー軍というのはラーレとの死闘を経てその数を大きく減らしたとはいえ、まだ数千の騎馬がある。それは、戦場の色を塗り替えるには十分ない数である。しかし、その精鋭中の精鋭は、ザハールの直属である漆黒の騎馬隊。これは、三百ほどがいるに過ぎない。ヴィールヒは、バシュトー軽騎兵と漆黒の騎馬隊の、その継ぎ目を狙って何度も攻撃を仕掛け、両者を分断したのだ。
──
ザハールは、舌を巻いた。互いに、それほどの損害は出ていない。それなのに、見事なほど漆黒の騎馬隊だけが河に浮かぶ木の葉のように分断された。
このあと、どう来るか。
ヴィールヒ率いる騎馬隊は春に花の咲くように薄く広く拡がり、それが風を受けるようにして散った。そうすることで、漆黒の騎馬隊の応撃をうまく逃がしている。
互いに、弧を描くように。精霊を讃える儀式のときに、人が互いに舞うように。
背後。歩兵が、着々と迫ってきている。このまま固着すれば、不利である。
分断されたバシュトー軍の方に突っ込むようにして攻め、少数を押し包んでしまい、一息に決着をつけるしかない。しかし、少数の騎馬隊の機動性というのは驚くべきものがあり、大軍にはできぬような柔軟な運動をする。下手にそれを包もうとすれば、影に向かって手を伸ばすような具合にかわされ、かえって痛撃を受けかねない。
どうするか。
それを思う前に、ヴィールヒの方から仕掛けてきた。率いる騎馬隊も、まさかここで王が一直線にザハール目掛けて突進を見せるとは思っていなかったらしく、わずかに遅れて馬腹をそれぞれ蹴っている。
ザハールも、応じた。愛馬はそれをよく察し、鼻息を荒くして近付いてくる白馬を目指した。
何年ぶりか。
かつて、共にあった。サヴェフ、ペトロ、イリヤと共に立ったときの目的は、故なくして囚われたヴィールヒの救出であった。それに加担することで剣で生きる道が拓かれるやもと期待をしたわけであるが、ヴィールヒを救出する頃には、ウラガーンは組織になっていた。
それは、もはや軍であった。森の賊には戦いを知らぬ者も多く、彼らに武器の使い方、戦場での馬の扱い方などを教えるうちに、将となっていた。
ラハウェリやノゴーリャという拠点を手に入れ、いよいよ王家の軍との戦いに向かっていった。その頃には、志を同じくして共に立つ者も多くなっていた。
ほとんどが死んだ。今なお古参の兵として後ろに従っている者もいるが、立ち上がってから三十年にもなって未だ戦場にいるというのは幸福とはほど遠いことである。
アナスターシャと共に過ごす時間が、最も好きだった。いつしか、そこにシトとリシアも加わった。剣ではなく、あの不思議な色の髪に触れているとき、ザハールの心はとても満たされた。いつまでも若く見えるとはいえその艶が鈍り、傷んでゆくのさえ愛おしかった。自分たちが老いてゆくのと引き換えるようにしてシトが逞しく長じ、リシアは花も目を背けるほど美しく育ってゆくのを見ると、なお満たされる思いであった。
ナシーヤを滅ぼしたあと、ユジノヤルスク侯になどならず、どこかで隠棲すればよかった。戦いの中で多くのいのちを打ち捨ててきた自分には、国家の中枢近いところに立つべき責任があると思ったのだ。それは罪滅ぼしなどではなく、はじめからそこにあった志。
人が、人から奪わぬ国を。
それを見ることができれば、またあの頃のように土を捏ねて焼物でも作って暮らせばいい。
咆哮。無意識であった。
求めていた。だから、ラーレすらも踏み越えて、ここに来た。
喪うわけにはいかぬのだ。
同じ光を求めながらぶつかり合い、自分は生き、ラーレは死んだ。人はいつか死ぬが、求めるべきものを知り、抱き、温めることをすることが生ならば、ラーレは、自分などよりもよほと生というものに正直で懸命であった。あれほど血に濡れながら、透き通った心でそれを追うというのは、並のことではない。
自分が歪んでいるとは思わない。しかし、どこかで、死した者のことを思ってしまう。
彼らも、こうしたかっただろうに。彼らが生きていれば、どうであったろうか。彼らがいたからこそ、今の己がある。
その全ては望まれずして死んだ者であり、その多くは自らの手で殺した者である。
時間が、時代が、生が、死が、光が、突き抜けてゆく。己という黒の中を流れる星のように。
ジーン。最後に、剣を握っていた。人の真似ばかりをする者が真似たのは、己が最も求める己であった。
ベアトリーシャ。火と知恵をもたらし、火の中に消えていった。自分にしかできないことをする、といつも呟くように言っていたのを、時折思い出す。
サンス。思いもしないことからウラガーンに参じたが、彼は自らが定めた己を塗り替えることはなかった。
ルスラン。老いを見せかけてから妻を得、スヴェートを得、彼は変わった。戦いそのものが好きと言うことはなくなり、自分が戦うその先にあるもののために戦うようになった。戦い、戦って、そして死んだ。
サンラット。彼を軸として、バシュトー人は国を得た。バシュトーにとって、人を導くあたらしい指標そのものであった。しかし人は飾らず、いつまでも裸馬に跨って家畜の世話をしている者のようなところがあった。
ペトロ。未だ、死を受け入れられずにいる。それほどに、慌ただしい。はじめからずっと傍にあり、自分の苦境にあらわれて自分を助けると言ってくれた男である。それが、彼の責任の遂げ方なのだと思っても、そのために死んでよいということにはならない。
涙がなぜ流れぬのか、分からない。それを受け入れ、悲しむことができぬほど、戦いに染まってしまっているのか。
問うても、答えはない。ゆえに、ザハールはただ咆哮を天に向ける。
そういえば、この戦場には雨は降らぬ。ウィトゥカというのは起伏の少ない地域だから、大山脈に近い東部ほど雲が溜まらず、ソーリからも少し距離があるからであろうが、雨というものが何かを象徴していて、そしてそれによって示されるべきものがもうすでに終わっているようにも思える。
ヴィールヒ。迫ってくる。手にするのは、大精霊の怒りと呼ばれる槍。それが伸びてくる刹那、斜めに擦り上げ、胴鎧の隙間となる腋の下を斬る。駄目なら、馬の首を刎ねる。
繰り出されてくるであろう刃と、それに応じる自らの刃。それを、考えることなく感じた。
しかし、ヴィールヒは、ザハールの手前で急に進路を変え、背後に従う漆黒の騎馬隊の中に突き入っていった。
首を巡らせ、眼で追う。
凄まじいまでの武。精鋭の中の精鋭である漆黒の騎馬隊が、笑ってしまいそうになるほど呆気なく突き落とされてゆく。その通るところ、はじめから敵などいないかのように、馬脚を緩めることなく駆け抜けてゆく。
何をどうすればあれほどの速さで槍を振るえるのか。ザハールは、息を飲んだ。
兵の一人が、剣を振り上げた。その瞬間まず腕が飛ばされ、馬から落ちんばかりに身を乗り出して繰り出される槍の尻に打ち付けられた重りによる一撃で頭を砕かれた。それを、馬と馬が擦れ違う一瞬で行った。
ヴィールヒもまた、老いを見せているはずである。ザハールと歳は変わらぬのだ。しかし、その槍の冴えは、若かりし頃のものよりもさらに鮮やかであった。
落雷は、大精霊の怒りであると人は言う。天で龍と戦い、その降らせる雨を打ち払うため激しい光でもって龍を打ち付け、それが勢い余って地に墜ちてくるのだと。それがほんとうなら、ヴィールヒの振るう槍は、まさしく落雷であった。
ザハールは、天地最強の武を持つと言われている。だからこそ、悟ることができた。
──あのような技を、俺は持たぬ。
何が、二人を隔てたのか。
ザハールは、ますます重くなった涙の剣を握り直し、ヴィールヒのあとを追うようにして馬首を巡らせた。
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