墜星

 何度か当時の価値観について触れてきたが、ヴィールヒほど世に対して斜に構えたように生きてきても、旧友ザハールの呼びかけには答えざるを得ない。そして、自ら下馬し、その言葉を待つ。

 その結果、二人の士が、互いに視線を交わすこととなった。それはとても静かで、ザハールが紡いだ死の熱量も、その身体を鳴らす死の足音も、存在しないようであった。先ほどまでの混乱も、それによって流れた血も、すべて、明け方の水面のように静まりかえっている。

「息災か」

 叛き、乱れをもたらす者に、ヴィールヒはそう声をかけた。

「見てのとおりだ」

 ザハールは、苦笑した。そうすると、昔の面影がよぎった。その苦笑を収め、継いだ。

「お前に、伝えておかねばならぬことがある」

「ラーレは、死んだのだな」

「死んだ。その死のとき、パシハーバルのことを俺に託した」

 ヴィールヒは、わずかに目を細めた。それは、何かを思い返すような、あるいは未だ至らぬことを思い描くようなものであった。

「そのパシハーバルもまた、死んだ」

 ザハールが、驚きの色を見せた。

「中央軍として、あの緩い高地に陣していた。しかし、お前の娘の旗を揺らすだけ揺らし、激昂したスヴェートによって討たれた」

「スヴェート」

 ザハールは、言葉を失った。スヴェートもまた、ラーレが光と思う者ではないか。その出生の場に立ち合い、名を与えたスヴェートが、我が子パシハーバルを討ったという事実は、悲劇などという陳腐な言葉であらわすことのできぬほどのものである。

 そのスヴェートは、パシハーバルが率いていた中央軍と共に、自軍である復活の巫女の軍のところを目指している。無論、そこにはリシアもいる。

 我が娘の旗が、我が息子の旗を目指す。それは、ラーレの願いが破られたのとちょうど同じようなことを意味するのではないか。

 我が娘を求めれば、我が息子は死ぬだろう。しかし、我が息子を助けるということは、我が娘と共にそれを目指す中央軍を止めるということである。

 リシアは、何を思っているのか。なぜ、戦いの場に身を置くのか。

 ザハールは、知らない。リシアは、スヴェートをこそ光と思い定めているのだ。無論、敵対勢力となった兄シトや父ザハールのことも日々思い続けていることであろう。しかし、リシアは、スヴェートと共にありたいと願ったのだ。それが、彼女が己が復活の巫女であることを受け入れた唯一の理由なのだ。

「お前に、確かめることは叶わぬのだろうな」

 ヴィールヒが唇を開き、ザハールははっとした。昔から、心の内にあるもののその先に回り込むようなことを言う。

「俺を殺し、この一万の軍をことごとく滅ぼし、先にゆくつもりか、ザハール」

 そう言われて、なぜか、そうだとは言えなかった。涙の剣を固く握っているのだから、ヴィールヒの言う通りなのであるが、ザハールからはヴィールヒを殺すとかその率いる軍を壊滅させるとかいう類の目的意識は失せている。

 では、彼は何のためにここに立つのか。

「誰も彼も、死んだ。サヴェフも」

「殺しても、死なぬ男だと思っていた」

「しかし、死んだ。国のため、人のためと嘯いてばかりいて、そのために病に食われて死んだ。人とは、眠り、食うもの。自らのことを捨て、眠らず、ろくに食いもせぬままでは、病にもなろう」

 ザハールは、意外に思った。ヴィールヒが、サヴェフの死を悼んでいるのが分かったのだ。それは、はっきりとした悲しみであった。そのことを、口に出した。

「お前は、変わったな」

 ヴィールヒが、少し眉を上げた。癖になっていた、目を細める表情はない。

「サヴェフは、その死を、自ら引き寄せた。そのとき、俺に我が亡きあとのことを様々と言い残した。俺は、思った。サヴェフには、ただ、分かったとのみ言えばよいと。あいつの言うことを俺が実行するとき、あいつはもうおらぬのだ」

 ゆっくり、風がやってきて、そして去った。それを、二人は聴いた。

「人の死に、こだわることはない。死した者がかつて抱いた生をも抱えていられるほど、俺たちは大きくはない」

 ぽつりと、置くようにヴィールヒが言った。

「俺は、思った。全てをサヴェフに預けきっていた俺は、サヴェフの死と共に死ぬのだと。だが、いのちが終わるわけではないと。それならば、俺は何を目当てにすればよいのだと」

 ザハールが、訝しい顔をしている。その表情、声、言うこと、どれを取ってもこれがヴィールヒかと思ってしまうほど、変わっていた。まるで、蛇がその皮を脱ぐようにしてこれまでの己を終え、その皮の内からあたらしい何かが這い出しているようであった。

「俺は、死んだ。ゆえに、俺は、生を得た。思ってもいないことであった」

「だから、お前は──」

「あまりに、虚しい。なぜ、戦う。いのちある限り、当然にあるものをわざわざ掲げ、示すために戦うのは、なぜだ」

 ザハールは、答えるか否か迷った。己の中にはじめからある唯一のもので、そして口にはしなかったことがある。

「人には、国が必要だ。かつて俺たちの誰もがそう説いた。そうなのだろう。では、俺が王なら、どのような国を作ればいい。それを望んだはずの人はそれぞれ思うところに従い、血を流すことを求め、互いの肉を食らうような真似ばかりしているというのに」

 ヴィールヒがただ手にしていた槍が、わずかに動いた。そうすると、それはただちに大精霊の怒りグロムとなり、ザハールを身構えさせた。

「お前は、いや、俺たちは、死に慣れすぎた。慣れすぎて、それを特別なものであると思いたがる。そこに、どうにかして価値を見出そうとする」

 風。また吹いた。こんどは、強い。

 雨はない。この戦いの中では、おそらくもう降らぬのだろう。

 内に、外に、何かが満ちてゆく。それは波であり、流れであり、夜であり、そこにある星であり、それがもたらす光であった。そして、なんでもない、ありふれた呼吸のひとつであった。

「全てを壊され、奪われ、それでも、生きた。人があり、俺になにごとかを願い、望むからだ。終えるべきは、何かを奪うことではない。何かを、投げ捨てることだ」

 槍の刃が、はっきりと戦いの構えを取った。ザハールも、涙の剣を。

「俺たちは、もとより、ウラガーン。歪んだ濁流の中にありながら、己のみ清くあろうとは、思えぬさ」

 そうだろう、というような響きがある。これは、対話であった。

「終えてやる。ウラガーン

「終えるわけにはゆかぬ」

 ザハールが、答えた。

「俺は、ゆく。いくつもの人が死に、その生を終えた向こうに。人が歌う墜星の歌の、その先に。己もまた滴のひとつであるならば、せめて」

 せめて。ザハールの眼が、確かさをもって上がった。そこには、曇天がただ静かにあるのみであった。

「せめて、我が知る人と。アナスターシャと、リシアと、シトと。我が愛する人と、ともにありたい」

 ヴィールヒの眼が、深い金色の睫毛が、わずかに緩んだ。その意味を考えるより先に、ザハールの身体は反応した。

 鉄が鳴った。

「思えば、お前と刃を交えるのは、はじめてであった」

 速い。槍というのはふつう、その長さのために突くにしても払うにしても、いちど手元に引き付けるような動作を伴う。しかし、何をどうしているのか、剣の間合いでそれを振るう。かと思ったら後ろに飛び下がり、それをしながら刃だけを伸ばしもする。

 その速さは、おおよそ人智の及ぶものではない。しかし、ラーレの斬撃ほどには重くはない。ザハールは、槍という獲物が持つ勢いそのものを、無意識に逃がしているらしい。

 ひとつ動くたび、死が身体を食ってゆく。ふと気を緩めれば、今にでも前のめりに倒れ、そのまま目覚めることがなくなりそうな感覚。

 抗う。人であるならば、人に必ずやってくるそれに、徹底的に抗う。この戦いがもし終わり、人が望むべき世がやがて来たとしても、そこに己がいなければ、もうアナスターシャの薄い色の髪を撫でることも、不自由なままの左手を庇うことも、シトに剣の稽古を付けることも、リシアの編んだ首巻をすることも、なくなるのだ。

 己がそこにいなければ、意味などない。なぜなら、我が愛する人を愛するのは、己だからだ。

 戦いに、生きてきた。しかし、戦うために生きていたわけではない。ヴィールヒの刃を受けながら、そう、はっきりと思った。

「もう、終わるのだ。ようやく、俺たちの求めたものが、やってくる」

 ヴィールヒ。薄い唇で、細く言った。その間、刃の嵐は止んだ。

「そこには、英雄はいない。暗闇に閉じ込められ、叫びを上げる者はない。そこから脱するため、血を浴びる者はない。ただ、人がある。それだけのことだ」

 英雄のいない国。

 自分たちは、この国にもたらされた、必然なる歪み。吹いてはならない風。

 自分たちの存在こそが人が求めるべきものに向かうための礎であり、それを生とする自分たちは、後の人のあらゆる前例となり、そして無知の教訓となる。

 人とは、奪うものではない。創るものである。それをするのは人であるべきで、龍ではない。

 龍は、もう、その役目を終えるのだ。

「俺を殺し、お前の求めるものに手を伸ばしながら、死ぬか」

 槍が、少し上がった。涙の剣も、それに応じた。

「愚かだな、ザハール」

「しかし、それでも、せめて、示していたいのだ。ヴィールヒ」

 気が満ちた。ザハールの方から、仕掛けた。地を鳴らす踏み込み。泥と血と死で満ちた戦場から抜け出すことへの渇望。

 人は、彼らを見、知るだろう。戦いの愚かさを。人が求めるべきものを。そのために奪うことなく、与えねばならぬということを。彼らは、これまで墜ちたすべての星は、生きてその歌を歌うすべての人は、その前例となるのだ。

 ザハールは、そこへ向かって踏み出した。

 槍の間合い。誘うように、それが開かれている。しかし、ザハールの脚がヴィールヒとの距離を詰めると同時に、ヴィールヒは右手を引き戻し、左手を前にすることで柄を短く持ち替えた。

 ザハールの全身は、それを見て取ることができている。このように右前、左前を自在に変化させることで、ヴィールヒは遠くも近くも自在に、一片の無駄もなく斬り払うのだと思った。

 なぜ、それを今まで目に止めることができなかったのか。見ようとしなかったからか。


「──ラーレは、言った」

 二人の身体は互いにすれ違い、それぞれ武器を振るったまま静止している。ヴィールヒの兵も、誰も声を上げない。

「光に対して、もう、目を細めるなと。それを、お前に伝えにきた。しかし、お前は、もうかつてのように目を細めることはないようだ」

 ヴィールヒは、静かに答えた。

「なにか引け目があるように思えて、人を見るのが嫌だった。彼らがひた向きに何かを追うことが、馬鹿馬鹿しいことだと思っていた」

 ヴィールヒが、緩やかに槍の構えを解いた。そうすると、ただの五十近くになった男になった。

「そうでもしなければ、俺は、俺を追いかけてくるあの地下の暗闇に押しつぶされると思った。しかし、むしろ暗闇に包まれていた方が、楽だと気付いた。光の中に己の姿を晒しているより、闇に溶けていた方が」

 眩しすぎたのだ。そう言って、ヴィールヒはゆっくり振り返った。

「お前も、誰も彼も。生きる人が放つ光というのは、俺には眩しすぎたのだ。だから、星の光くらいがちょうどよいと思っていた」

 しかし、と継ぐ。ザハールは、まだ涙の剣を振り切ったままの姿勢。

「サヴェフは、死んだ。あいつが俺を暗闇から引きずり出し、生きよと言ったから俺は生きたのだ。そのはずであったものが、さっさと死んだ」

 ゆえに、ヴィールヒは考えた。いや、考えるまでもなく、思った。

「いのちというものが人の生そのものであり、俺の生がサヴェフによって作られたものなのであれば、俺のいのちはサヴェフの死と共に終わらなければならない」

 ザハールの涙の剣が、ゆっくりと下りてゆく。それに合わせ、張り詰めていた気が、解けてゆく。

「それなのに、俺は、涙を流した。自分でも、なぜなのか分からなかった。しかし、すぐに、サヴェフが死という境を越えて、もう二度と俺の手の届かぬところに、いや、すっかり消え去ってしまったからだと思った」

 それゆえ。それゆえ、ヴィールヒは、生きている。サヴェフによって与えられたのではなく、もともと己の内にあった生を生きていたのだ。だから、ヴィールヒはサヴェフの死を受け、自分が決して交われぬところにそれが行ってしまったことに涙した。

「生とは、怒りだ。恨み、憎しみ、嘆くことだ。我が持たぬものを持つものを妬むことだ。そして、悲しむことだ。悲しみなくして、人は生きてはいられない」

 涙の剣が、完全に下りた。ザハールは、振り向く様子はない。

「そして、悲しむということは、喜ぶことだ。我が目の中にあるものをで、そのもののために我が生を使おうと思い定めることだ」

 だから、ヴィールヒは、あのとき涙を流した。

「戦うとは、そういうことだ。長く人が求めてきたものは、互いに血を流し合うことではない。それをしてでも見ていたいものを、知ることだ」

 だから。そうヴィールヒが言ったとき、ザハールの身体が動いた。

 しかし、ヴィールヒと眼が合うことはなかった。

 ヴィールヒは、眼を伏せた。その先には、地に沈んだザハールの身体。それは、涙の剣を、手離していた。

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