全ての死の先にあるもの

 老いとは、恐ろしいものだ。若い頃は考えたこともなかったが、力は弱り体は衰え、肌も髪も枯れ錆びてゆく。

 そういうものを引きずって、人はなお歩む。当たり前のことだが、今、ザハールは、その辛さを噛みしめている。

 手綱を握ることすら辛いと感じる。少しでも気を緩めれば、馬から落ちてしまいそうである。

 疲れているのだ。それに、傷ついてもいる。進発命令前に傷の具合を目にした者が、横並びに馬を歩ませている。なにか強く思うところがあるのだろう。

 死にはせぬ、と言って安堵させてやろうとしたが、それがかえって自分に迫っているものを受け入れてしまうようにも思え、やめた。

 夜間でも、進軍はできる。部隊の最小単位である五人組ごとに一つ、足元の闇を払うために灯を持たせている。それとは別に数十人の組を先行させ、火を灯して待機させている。

 その水先案内の先行隊の最後尾に軍列が差し掛かれば、それはまた馬を走らせて先頭にゆく。そういう具合にして、道を誤ることなく進軍する。いつであったか、ペトロがまだウラガーンの軍師であった頃に編み出した方法で、敵に行動を秘匿するために夜間行軍を行うのではなく、急を押していずこかへ向かわなければならない事態が生じたときに用いる方法である。

 道とはいっても、川沿いの原野をただ人がよく踏むからそこに草が生えぬというだけのもので、あってないようなものである。思えば、これまでの戦いも、そのようなものであった。

 もともと、そこには何もなかった。しかし、多くの人がそこに足を踏み入れ、道になった。道になれば、どうそこを歩めばよいかというようなことについて知恵を巡らせる者も現れる。その道を大股に歩んでも石に足を取られたりせぬ者も現れる。

 自分たちが、そうであった。しかし、いずれその道を踏む人がいなくなれば、また草が伸びてきて、覆い隠すのだろう。

 それで構わない。いや、むしろ、自分やラーレは、それをこそ望んでいたのではなかったか。

 道が消えるということは、そこに道があったということが消えるのとは必ずしも同じにはならない。人が、そこに道があり、その荊の厳しさを、それにより流れる血の悲しさを知れば、道自体のことは問題にはならない。


 馬の振動に合わせて濃くなったり薄くなったりする思考の中で、ザハールはそのようなことを思った。隣を駆ける者がしきりと声をかけてくるから、よほどひどい顔色を月明かりに浮かべているのだろうとも思った。

 どのみち、もうすぐ来る。英雄のいない国が。そこで、人は、天の星を語り、それが墜ちたと歌を歌い、生きてゆくのだ。夜は、静かであるべきなのだ。


 三十年前に志したもの。二十年前に、それはナシーヤの打倒によって手元に引き寄せられたように見えた。しかし、今になっても、なお実現はしない。

 当たり前である。それを求めることこそが歪みなのである。墜ちる星がいつまでも地にあって光を放っていたのでは、眩しくてかなわぬであろう。

 では、十年後は。百年後の人は。それは、ザハールには分からない。未だ来らぬ日のことを言い当てることのできる者は、どこにもいない。終わらぬ歌を歌う人がいる限り、その日は来ない。

 安寧を。平穏を。人から奪わずに生きてゆける生を。それを特別なことと思わず、当たり前にしていられる世を。我が目に映る人が笑い、人の目に映る己が笑うことをのみ求めていられる世を。

 光を。どのような闇があっても、かならずそれを照らすものがあるということを知っていられることを。


 シトは、ペトロの策を、実行に移すつもりでいるらしい。それで、勝敗は決するであろう。天地で最高の軍師が編んだ策である。それを破れる者はない。しかし、この夜が明けたら、パトリアエ軍と激突するつもりでいるという。

 誤った、と思っている。あれは講和のために用いるものであり、パトリアエ軍を蹂躙するために用いるものではないのだ。

 シトに、全幅の信頼を寄せた。あたらしい戦いは、あたらしい者が行うべきなのだ。その意味では、シトは紛れもなくその器たり得ると思った。

 しかし、実際に力を手にしたときに人がどうなるのかは、そのときにならねば分からぬものである。いくらシトがいっぱしの将として成長を見せたと言っても、時代そのものを背負うには若すぎるのかもしれぬ。

 若いからこそ、意味がある。しかし、若ければ、誤りを避けられない。力を手にし、それを行使するという誘惑に勝ち得ることができるかどうかはその者の軍人としての才には関わりがなく、もっと単純な、その者の根に差したところに深い関わりがある。

 長く、戦場に置きすぎた。シトは戦いのことは何でも吸収したし、将としての才については自分が同じ歳の頃であったときよりも遥かに優れていると思えるが、それ以外のことを、もっと伝えてやらねばならなかった。

 振り返れば、自分には、そういう人間がいた。故地であるグロードゥカの旧市街においては父が、あるいは父に仕えていた者が武術以外のさまざまなことについての薫陶を授けてくれたし、世に出てからは互いに学び、研鑽し合う者がいた。だから今、自分はこうして思考を巡らせている。

 しかし、シトは違う。彼は生まれながらにして黒い墜星ザハールの子であり、そして自分は、父や父に仕えていた者が自分にしてくれたようなことを何一つとしてしてやらず、ただ彼が十五になる歳から何年もの間戦いの場に置き、兵として、将として使うのみであった。

 アナスターシャとリシアと共に四人であることが唯一のあるべき姿であると思い定め、シトと二人でなにかを見たり考えたりすることはきわめて少なかった。

 しかし、違う。シトが自分の光であるように、自分もまたシトの光なのだ。そうして、人は互いに求め、繋がり合うのだ。

 それを知らぬ人は、歪みの中でしか生きることができぬようになる。だから、シトは、ペトロの策を行使することを決めてしまったのだ。

 自分が、彼を歪めた。自分になら正すことができたし、自分にしかできなかったことである。

 ラーレとの戦いを経て、理屈ではないところにおいてそう確信している。


 シト軍、船の策を展開。明日の朝にも、パトリアエ軍と激突の構え。その報せが、ザハールにそのような思念をもたらした。

 そうすることで、彼はこの世に繋ぎ止められているのかもしれない。

 いや、これまでの彼を思えば、ザハールという男はそのようなしおらしい人間ではない。

 彼は今、ラーレ軍との激突によって数を減らして傷ついたバシュトー軍を率い、その先頭を駆ける漆黒の騎馬隊のその最先端に身を置き、馬の脚を速めている。

 点々と配置された標の火が、それを可能にした。

 シトの行動が歪みによるものならば、彼が力の使い方を誤っているのであれば、それは、正さねばならない。

 ザハールは、ゆく。死をどのようにして迎えるかというような可愛らしい思考は、このときの彼にはない。あるのは、一刻も早く戦場に至り、正すということのみである。

 ザハールは、ゆく。正しきを示し、己の生の意味を問い、全ての死を越えたその先にあるものに腕を伸ばすのだ。

 そこに、光がある。

 救いにゆく。我が愛するべき息子を。

 今この瞬間において、彼にとってそれが全てであり、それだけでよかった。

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