第十四章 墜星の光

ウィトゥカ大会戦

「怖いか」

 スヴェートは、そう声をかけてやった。

「とても」

 リシアは、正直に答えた。

 船で戦場を離脱し、首府グロードゥカを急襲する構えを見せたバシュトー軍を追って、復活の巫女の軍とパシハーバルら中央軍は東へと向かった。船から遅れること三日ほど、アーニマ河がゆるやかに蛇行しながら潤すウィトゥカの平原に到着したころは、先着したバシュトー軍とそれを迎え撃つべく打って出た王自ら率いる軍とで何度か小競り合いが起きていた。大規模な衝突ではなく、互いの出方を窺うようなやり方である。

 詳しく聴くと、どうもバシュトー軍の方が積極的で、王の軍は陣を一歩も崩さず、さまざまな方法から来る仕掛けへの対応のみをし、不気味なほどに静かであるという。

 英雄王ヴィールヒの用兵を知る者はない。あの創世の戦いの頃を知っているという古参の兵に聞いても、分からないと首を振るのみで、ただ、大精霊の怒りと呼ばれる槍と人知を超えた武を振るうのだという話だけが人の口を渡っているというような具合であった。


 戦場の風が、何かを囁いている。それは言葉ではなく、肌で感じるようなもの。

 復活の巫女の旗が、低い音を立てて曇天を叩く。それを、ふと見上げた。

 英雄王の軍は、一万ほど。それに倍するバシュトー軍が攻めかかっている。要塞に拠るでもなく、ただ原野で向かい合うだけであるから、圧倒的に英雄王が不利であるようだった。

 ──王とは名ばかりで、戦いのことを知らぬ馬鹿か。

 そうとも思えるが、やはり、それだけではない異様なものを感じさせた。

 ともかく、ここにラーレ軍から切り離された復活の巫女の軍と中央軍がやってきて、兵数は逆転したわけである。位置は、ソーリを目指して西行するアーニマ河が丘を避けて南へと尾を曲げる地点。

 バシュトー軍は、その河の曲がる点を背にして南向きに布陣している。遥か東の国において古の強者が取ったとされる、背水の陣というやつだ、とマーリが解説した。

「どう見る」

 スヴェートらにおいて、マーリというのは戦況などを分析し、正しい戦術を取るのには欠かせぬ人となっている。彼の存在の有無によって、史記におけるスヴェートの名の刻まれ方が変わったと言ってもいい。復活の巫女の軍の指揮官であるサハリという男もマーリの知力は大いに買っていて、もはや軍師のような扱いになっている。

「一見しただけでは、互いに攻めあぐねているようです。しかし、互いに、何かを待っているようでもある」

 マーリとスヴェートは旧知の仲であるが、人前において必ずスヴェートを立てて話すのだとリャビクも交えて決めている。彼らの責務のうちの一つに、スヴェートを世に出すというものがあるからだ。

 しかし、彼らがかつて抱いたような、漠然とした功名への欲求などはこの時点では薄くなっている。代わりに彼らの中に芽生えているのは、どう見てもその辺の将にしておくべきでない器を持つスヴェートをしかるべき場に立たせなければならないという使命感のようなものである。

 知略無類と言われるマーリに加え、リャビクもその圧倒的な武勇でもって隊を率いていて、戦いが終わった暁には正式に自分の軍を持つのだろうと誰もが思っている。それらがことごとく将帥として崇め、復活の巫女を護る者として軍の先頭に立つスヴェートを、多くの兵が支持している。

「待つとは、何を待つのだ」

 スヴェートの口からこぼれる言葉を、兵は拾うようにして聴いている。隣のリシアが不安げな顔を見せたのを機敏に察し、案ずるな、と声をかけてやる様は、まるで一枚の絵画のようであった。実際、後代になってから史記を題材に描かれたものの中には二人を取り上げたものが多いから、このときに人が見た光景がのちのちまで伝わったのだろう。

 その絵画の中では、真っ白な馬に跨ったスヴェートは穏やかな視線を同じ色の馬の上で髪を風に遊ばせるリシアに向けている。二人の背後には、旗。とても、これから戦いをするとは思えぬほど静かな光景である。


 しかし、実際はそうではない。スヴェートは眉を引き結び、全軍を上げてバシュトー軍の横腹を突いて戦局に一石を投じることをした。無論、それは総指揮官であるサハリの口から出るのだが、

「互いに何かを待っているとしても、動いていないのが実際だ。俺たちが大挙して横合いから攻めかかれば、何がこの戦場に隠されているのか分かるだろう」

 という彼の呟きで、全軍の行動が決定した。

 軍が、動き出す。バシュトー軍は、まだ応じる構えを見せない。

 盾兵が前に出て弓隊を守り、進む。その後ろには、騎馬隊。そういう構えが出来上がったちょうどそのとき、スヴェートのもとを一騎が急ぎ訪れた。

「お待ちあれ」

「パシハーバル」

 この混成軍のうちの中央軍を率いることを許されたパシハーバル自ら、スヴェートのもとにやって来た。軍の中の格ではスヴェートの方が上であるから、パシハーバルの態度はそれに応じたものである。

「なんだ、今からまさに攻めかかろうとしているところに。興のない奴だ」

 対して、スヴェートの態度はいつも通りぞんざいとも取れるものである。

「ここは、溜めて出方を窺うのがよいと存じます」

「なぜ、そう思う」

 スヴェートのいいところは、すぐ人の意見を聴くところである。誰もが彼によって自らの言葉が取り上げられることを期待したから、彼の人気はそういうところにも裏打ちがあるのかもしれない。

 しかし、このときにスヴェートが浮かべている何気ない微笑を、パシハーバルは嘲りと受け取ったらしい。声を荒げて、言った。

「我らが介入すれば、王の軍も動かざるを得ないようになります」

「それが、どうした」

「王なのですぞ。そう易々と、軍を動かすものではありません」

 スヴェートには、パシハーバルの言う意味が分からない。王だろうが誰だろうが、戦いの場にいるのだ。動かずともよいときに動くことはないが、動くかどうかは王が勝手に決めるだろう、くらいにしか思っていない。

 パシハーバルは秩序というものにこだわる。そうすることで、自らをなかなか認めぬ世が間違っているのだと思うことができる。だから、彼の世界の中では、王とは権威でなければならず、一介の軍人として簡単に槍など振り回されてはたまったものではないのだ。

 それをのみ思ってここに来たのではないであろうが、彼がこういう衝動的な行動に出るときは、たいてい同じような心理がある。


 スヴェートは、パシハーバルを無視した。そのまま、復活の巫女の軍だけで突撃を開始した。陣に残ったパシハーバルは、震えながらそれを見送った。

「我らの直属から人を割き、陣に戻しておきましょう。リャビクがよろしいかと思います」

 マーリが、前進する歩兵の後ろに付きながら歩む馬に、我が馬を寄せてきて言った。

「リャビク」

 なぜだ、とはスヴェートは問わない。マーリがそうした方がいいと言えば、その通りにする。リャビクといえば先に述べた通りこの時点での復活の巫女の軍のなかでも精鋭で、それを割いて陣に戻すというのはなかなかの決断である。なにしろ、まさに今からバシュトー軍に突きかかろうとしているのだ。

 兵を停止させているときならいざ知らず、用兵の中にいるスヴェートには、そういう段飛ばしの鋭さがあった。

「手勢を連れ、陣に。リシアのそばにいろ」

 リャビクは命令の趣旨をよく理解していないようで、戦場の中心に自分がいないということについて何か言いたげであったが、もともと自らに知力の少ないことを知っている彼は、考えることはマーリ、決めることはスヴェートに預けきってしまっているから、

「承知」

 と大声を出し、スヴェート、マーリと並んで縦三列のうちの一つになっていた自らの騎馬隊を隊列から剥がし、反転させた。


 兵は声を上げ、丘に敷いた陣から駆け降りる。彼らの目指す先には、バシュトー軍。だんだん、その黒い一塊が実は人の集まりで出来ていて、幾つもの隊に分かれて陣を組んでいるのだということが見えてきた。

 スヴェートから見ても、惚れ惚れするような陣である。隙なく、それでいて自在である。しかし、彼の眼は、そこにある違和感に止まっていた。

 ──河を背にしているのではない。まるで、河を守るような構えだ。

 実際に河を守っているわけではあるまい。そう見えるような何かが、陣の最後列に隠されているということだ。

 また、スヴェートの眼が、あることに止まる。

 ──船は、どうした?

 彼らは、快速でもってソーリを渡り、そのままここにやってきた。だから、彼らが拠る河沿いには、船があるはずなのだ。

 それが、ない。マーリの方をちらりと見たが、その表情が読み取れるほど近くはない。ただ、マーリも何か違和感を強めているようで、しきりと一点を凝視するようにして馬に揺られている。

 それを見定める前に、前列の弓隊から、ぱっと花が開くようにして矢が放たれた。

 ナシーヤ人のよく用いる弓は、バシュトー人のそれよりも大きく、したがって射程も長い。だから、先に矢を付けることができる。バシュトーがその不利を回避しようとするならば、その機動力でもって翻弄し、蜂が刺すようにして運動しなければならない。

 しかし、それがない。

 不気味なほど静まり返り、矢を受け止めている。

 史記におけるひとつの局面ともいえるウィトゥカ大会戦は、このような不気味さを伴ってその姿をあらわした。

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