さいごの英雄

 白銀の軍から、漆黒の騎馬隊から、静かに声が上がった。それは雨の音に混じり、やがて塗り替えた。

 たった今行われた、この地の歴史において最高の英雄同士の戦いに、人はただ大きく心を揺さぶられるしかなかった。武器を向け合うことで互いを求める二人の間に確かに存在した世界を、彼らは見た。

 互いのいのちに手を伸ばし合い、求め合う。それは殺し合うようであり、慈しむようでもあった。そして、そこまで極まった歪みこそが剣を地に突いて身体を支え荒く息をする黒い墜星を、雨の中に墜ちてもの言わぬようになった戦いの女神をこれほどまでに美しく、悲しいものにしたのだということを知った。

 そうでなくても人は求め合い、与え合える。それをこそ二人は示さんと欲したはずであるのに、一人は死に、もう一人は深い傷を負っている。

 人は皆、雨の滴を墜としている。それは、瞳を濡らし頬を伝い、顎から地を目指した。戦いは決しても、悲嘆も歓喜もなかった。ただ、ここにいる数万──はじめの激突でどれほどが死んだものか──の兵は、この地上で最も高められた武と最も透き通った心のぶつかり合いに感じ入り、涙を流している。


 しばらく彼らはそうしていて、やがて雨が細く、しずかになったとき、ラーレ軍の兵はことごとく武器を置き、鎧兜を解いた。そうすることが、我が将への敬意であると思うのだろう。

 そして泥の中に膝をつき、両拳をも。

 ノーミル暦五〇九年二月八日、ラーレ軍、降伏。その瞬間である。

 彼らは、我が将が何のために戦い、何を示そうとしたのか、知りすぎるほどに知っていた。もともと、彼らは知っていた。人である限り、知らぬ者はないのだ。それを改めて我が目で見、我が心で感じ、その奥底から慕う我が将の死が全身を通り抜けたあと、なお武器を手にして敵からなにかを奪おうと思う者はいない。


 空を見上げた。

 星の物語など、数えることはできない。この地にはあまりに多くの死が満ちていて、いつも墜ちてばかりいるではないか。

 全ての滴が自分を打ち、濡らすだけ濡らし、もうこれ以上濡れることなどできはしないと思えば、こんどは自分を通り過ぎて降ってゆく。

 降るだけ降れば、途端、止む。止めば、人は乾く。地も乾く。同じことを、何度繰り返すのか。

 しかし、ザハールは思う。同じことを繰り返すようでいて、雨の度に土は豊かになり緑は芽吹き、虫が、鳥が、獣がいのちを営む。無論、人もまた。それは、連環ではなく螺旋なのだと、彼は信じている。

 死とは、人が英雄を讃えるようなものではない。ただ無価値で、無意味で、悲しい。死が螺旋を進めるのではない。生こそが、それをするのだ。

 傷が、深い。しかし、この戦いを、意味あるものにしなければならない。そう思った途端に全身には力が蘇り、ラーレの亡骸を抱え上げていた。

 そのまま、泥の中の兵に向かって。

 かつては、彼らもまた志を同じくして共に戦った者である。近くまで歩み寄って見ると、あの戦いを知らぬであろう若さの者も多くあった。しかし、それでも、彼らを見て敵だとはどうしても思えなかった。

 彼らもまた、これがかの有名な黒い墜星か。というような眼で見上げている。それで、ザハールは、自らが英雄と人に呼ばれていることを今更のように知った。

 兵の中から、白銀の軍装の一人が進み出てくる。ザハールと同じくらいの歳の頃の男である。おそらく、ラーレがまだトゥルケンの一将であった頃から従っているのだろう。

「お前たちの将であり、俺の、長年の友だ」

 頼む、と言いながら、その亡骸を預けた。泥がこびりついて冷えてしまっているその身体に触れた途端、男の両目から大きな滴がいくつも墜ちた。

 その白銀の軍装には無数の傷が走って汚れきっていて、いくつもの戦場をくぐり抜けてきたことを表していた。

 その先頭にいつもあったラーレ。ついに、彼らを置き去りにして、彼らの決して届かぬところに至ってしまった。

 ──俺が、境だ。

 ザハールもまた、いつもそう言うが、境を越えれば、人は必ずこうなる。そして、そこには、何も残らぬ。

 もともと存在した生ける人はそのことを思い、見上げ、歌うしかない。天にある星が墜ちるときにだけ歌われる歌を。それがどのようなものであったのかと思いを巡らせ、きっとこうであったに違いないと思い定め、自らの唇で歌うのだ。

 それは、ただ悲しい。


「我らは、中央へゆく」

 ラーレの亡骸を受け取った者に、そう告げた。

「我らは、それを止め立てることはありません」

 ラーレ軍の者は、ラーレが何を示そうとして戦いをしていたのか知りすぎるほどに知っている。それゆえ、ザハールのしようとすることを止めることはない。

 敵味方という立場は生き物のようなもので、時代や情勢や国家の都合によって生じたり消えたりするものだ。その立場に拠った戦いというのはあくまでどの道筋を辿ってゆくのかという方法論でしかなく、目的そのものには決してなり得ない。だから、ラーレ軍の者にとっては、ザハールが中央に向かったとしても構わないのだ。

 そこで、ラーレの求めたものが示され、叶えられる。深く傷付きながらもなお二本の足で立ち、それを中央に向けようとする黒い墜星を見て、白銀の将は確信することができた。

 ザハールが、漆黒の騎馬隊とバシュトー軽騎兵の方に振り返る。

「戦いの女神。その名はラーレシア。大精霊の翼を用いて国家の盾たらんとしたそれは、自らもまた大精霊の一翼となった。我らは、これより中央を目指す。そこで示されんとする志を護る盾となり、そこで打ち払われるべきものを貫く矛となりにゆく」

 それが、ここにいるすべての人の求めたもの。そして、これから生きるすべての人が求め続けるもの。だから、血の滴る跡を残しながら背を向けて去ろうとするザハールを、人は見送った。


 ジーン。ベアトリーシャ。サンス。ルスラン。サンラット。ペトロ。サヴェフ。そしてラーレ。イリヤを除けば、もう八将が墜ちた。最後の英雄となったザハールは気遣うように寄ってきた愛馬の上に跨ると、そのまま進発を命じた。

 兵糧は多くない。補給も期待できない。それは、関係ない。これから中央に向かい、そこで戦うだけの備えがあれば、それでいい。

 先発したシトは、どうなっただろう。そう思うことで、背筋を伸ばして馬に揺られていられた。ペトロの最後の策が咲いて、パトリアエ軍は恐れて戦いを放棄しただろうか。それとも真っ向からぶつかり、今なお戦っているのだろうか。

 行軍陣形を取ったままウィトゥカに入ったバシュトー軍は、アーニマ河沿いに進路を取った。シトらが船で取った道である。このぶんだと、到着は五日ほど遅れることになる。


 シトの軍からの注進はない。ザハールがここに至ることを想定していないのだから、当然である。進行方向である東に向けて放っている物見がなにごとかの報せをもたらすのには、もう少し時間がかかる。

 夜営のとき、傍らの者が、声をかけてきた。

「お顔の色が、悪うございます」

「なに、大事はない」

 そう言うザハールの声があまりに力ないものであったから、その者ははっとしたような顔をし、

「ザハール様。御免」

 と彼が身につけたまま決して解かぬ鎧の下を確かめようと、左腕を持ち上げた。

 ザハールは苦痛に歪んだ顔を見せたが、その者を振りほどくことはなかった。

「ザハール様──」

 言葉を失っている。

 ラーレから受けた傷が、思いのほか深い。血が流れぬようになったから傷は塞がったのだと誰もが思っていたが、鎧のない腋の部分から胸を目指すようにして走った傷から、異臭のするとろけた脂のようなものが流れ出ていた。はげしく膿み、おそらく熱を持っている。ふつうの人間なら死んでいるか、苦痛のため身動きすらできぬような状態で、つとめて平静にここまで進軍してきた。

「その傷で戦いは、無理です」

 その者にあえて言われずとも、ザハールにも分かっている。誰よりも多くの戦いの中で生きてきたのだ。

 その者がさらに何かを言おうとしたところ、ようやく物見が戻ってきた。

「シト様の軍、船を用いるようです。対するは、王自ら率いる軍。明日の早朝、激突する模様」

 ザハールはそれを聞いてすぐに立ち上がり、進発を命じた。

 どれだけ深い傷であっても、戦いの場に赴かねばならぬと思い定めているらしい。

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