死と死、それがもたらすもの

 コスコフ中央部の、南北に細く伸びた陸地。東のなだらかな砂地の向こうはソーリ海、西に切り立った急峻な崖の向こうはほんとうの海。龍が蛇行するような地形が延々と続き、ほとんど人の手の付かぬ、製塩所すらもないようなただの森林地帯になっている。

 そこに、ペトロはいた。船の建造のために派遣している兵の様子を見に行くためである。

 木を伐るといっても、ただ伐るだけではない。あらかじめ、材になったときの姿を見越して、必要な本数を伐る。幹の長いもの、短いもの、太いもの、細いもの。柔らかいがよく曲がり、粘りのあるもの。堅いがすぐに割れてしまうもの。ひとくちに木と言っても、その性格は様々であった。

 船にするならば、脂の多い木がよい、とペトロは考えた。その方が水を弾く。そして急造させた炉でもって、かつてベアトリーシャがウラガーンにその知恵をもたらした骸炭を製造し、その際に出る真っ黒い汁を塗り付ける。そうすれば、水に浸かっても腐ることがない。なおかつ、骸炭を作る際に炉で焚かれた炎の熱を引き込むような仕組みを作り、それでもって伐採して間もない木材を強制的に乾燥させもした。


 ペトロには、正確な図面を引くような力はない。ところがザハールの騎馬隊の中に大工の家の生まれであるという者がいたから、試しに図面を引かせてみたら、はじめてとは思えぬほど緻密なものができあがった。ペトロはその者にバシュトー人で構成される工兵を指揮させ、木の伐採から製材、そして船の組み立てまで全てを任せた。

 ペトロの注文は、細かい。それに、その大工の家の出の者はいちいち応えた。もともとが、繊細な性格なのだろう。ただの船を造るだけでも大変であるのに、ペトロが注文を付けたあるの部分にまで、その者は丁寧に実現のための方法を織り込んでいた。

 それを、確認した。

 一度作り上げた船をばらばらに解体する。そして、また組み上げる。その仕上がりにも、満足がいった。

「これは、とんでもない秘策になる」

「これが、ですか」

 その者は、手先は器用で図面が引けて人を束ねて物を作ることを指揮することができても、自分が造っているものがどれほどの戦略的価値を持つのかは分からぬらしい。そういうところは、いかにもザハールの兵らしくて苦笑を禁じ得ない。

「今に、分かる」

「船でもってソーリに出、アーニマ河を遡ってグロードゥカを目指す。その構えを見せることで、講和を少しでも有利に進める。そういうことではなかったのですか」

 大工の家の出の者いわく、そのことと、自分が造っているものとかどうにも符合しないという。

「まあ、今に分かる。パトリアエの連中を、少し驚かせてやるのさ。お互い、これ以上の戦いはできない身体だ。その上で、こいつを見せてやれば、奴らも少しは柔らかくなるだろう」

 そういうものですか、と要領を得ぬ返答をし、また船の建造を指揮すべく持ち場に戻っていった。その背を見送りながら、ペトロは自分の描いている策についてあらためて考えた。


 今造らせているのは、ある意味で新兵器である。無論、今はただの船でしかない。しかし、船でもってこの狭隘なコスコフ中部に閉じ込められたような格好になっているバシュトー軍を向こう岸に渡すことができれば、いきなりパトリアエの喉元に剣を突きつけるのと同じ効果が期待できる。

 船に施した仕掛けというのは、その剣が脅しではなくよく研がれた刃を持っていて、少し力を加えるだけで、喉の皮を切り裂いて赤い血を噴き出させることができるのだ、ということを確信させるためのものである。

 もし実戦投入すれば、その威力は絶大であろう。だが、おそらく、これが実戦で威力を発揮することはない。だが、このようなものを投入してまでパトリアエに牙を剥いているのだという姿勢を示せば、あちらも矛を納めやすくなる。

 どちらにしろ、お互い、もうこれ以上は戦えぬのだ。もう、そういうところまで来ている。

 バシュトーはその王たるサンラットを討ち果たされ、パトリアエは長引く戦いと大量の戦費の投入により、国が傾く寸前まで来ている。そもそも、投入する兵が多すぎるのだ。サヴェフは、何を考えている。と敵のことながらペトロははなはだ疑問であった。

 もっと上手くすれば、バシュトーを囲い込み、殲滅することなど、簡単にできるはずである。それをさせぬよう、サンラットもザハールも奮戦し、ペトロも策を練ってきたわけであるが、もし自分がパトリアエ側の人間だったら、と思うと、他にいくらでもやりようがあったように思えてならないのだ。

 復活の巫女の軍というのも、よく分からぬ。はじめ、それでもって一気に勢いを付け、バシュトーを心理的に圧迫し、降伏を促すものかと思っていたが、せっかくバシュトーがその出現にうろたえ、慌てても、いっこうにそれを進めて来ようとはしない。年が明けて五〇九年となった今でもなお、それはラーレの本軍と一緒にコスコフ南端に陣取ったまま動かないでいる。

 バシュトー兵は、もうその存在を畏れることはない。それどころか、その存在を忘れてしまっている者も出てきていることであろう。

 あのサヴェフが、そのように意味のないことをするか、とペトロは思う。もしかすると、やはり、自分では思いも寄らない策を秘めているのか、と疑ってもみる。だが、何をどう考えても、お互いこれ以上戦えぬのだから、あとはどのようにして戦いを終えるかということについての駆け引きをし、それを推し進める策をぶつけ合うのみであるはずなのだ。


 なにか不気味なものが、漂っている。だが、そのようなものが存在すること自体がおかしい。だから、余計に不気味である。その正体が分からぬままではあるが、あえてそれを見定めようとすると、かえって目が曇る。ペトロは長い経験からそう考え、今しがた指示をした試作品の完成を待つことにした。

「こちらでしたか」

 わずかな供を連れ、木々の間を馬で歩む。いきなり木の葉が鳴ったかと思うと、ジェリーゾの姿が現れた。彼も、すっかり一人前の間諜になったというわけである。

「どうした。久しいな」

「ええ。ザハール様の陣かと思い、立ち寄ったのですが」

「そうであったか。骨を折らせた」

「いいえ。どうということはありません」

 パトリアエに潜入しては有益な情報を持ち帰ってくるこの自ら育てたような間諜を、ペトロは気に入っていた。彼がペトロに従うときには偉そうなことを言っておきながら、すっかり、自分のためにこの若者を使役している。と思うと苦い味が口の中にあらわれるが、それを気にしているような状況ではない。

 彼がわざわざペトロの前に現れたということは、なにかすぐに耳に入れなければならぬような情報があるということである。

 ジェリーゾは、周囲の眼を気にした。ペトロの供は、すぐに察し、少し距離を置いた。

「にわかには、信じがたいことですが」

 と前置きをし、唾を飲む。早く言え、とペトロは少し苛立った。

「宰相サヴェフのことです」

「サヴェフについて?それはまた、大きな収穫を持ち帰ったものだ」

 サヴェフというのは普段王城の中にいて、ろくに陽も当たらぬような部屋に閉じこもり、ひたすらに何かを考えたり書き付けをしたりしている。ごくまれに人前に姿をあらわすことがあるが、それは短い時間だけのことで、用事を終えるとやはりさっさとどこかに引っ込んでしまう。そのサヴェフについての重大な情報というのだから、バシュトーにとって大きな収穫であるに違いないのだ。

「宰相サヴェフは――」

 ジェリーゾは、神妙な顔で静かに言った。風が揺らす木の葉の音が邪魔だと感じるほどの声量である。

「――病です。それも、かなり篤い」

 ペトロは、衝撃が身体を通り抜けるのを感じた。単純に考えて、それは喜ぶべきことである。バシュトーにとっての宰相サヴェフとは不倶戴天の敵であり、サヴェフ一人をどうにかできるのならそれだけでこの戦いを終えられると言っても過言ではない。それが、病であると言う。

「ほんとうなのか」

「間違いありません。王城の中に詰める者のうちの何人かはそのことを知っていますが、誰もそれを口外してはならぬと固く言い付けられているようです」

「お前は、その情報をどこで手に入れた」

 間諜に情報の出所を問いただすのは野暮であると知りながら、それをせざるを得ないような事態である。早口にまくし立てるペトロと調子の合わぬゆっくりとした口調で、ジェリーゾは答えた。

「サヴェフの身の回りの世話をしている者がいます」

「ああ」

「その者が囲っている女のもとにひそかに通い、二十四度、抱きました。二十五度目で、なにか最近変わったことや面白い話はないか、と訊いたところ、これはここだけの話だが、と言って話しました」

「――なるほど」

 間接的な情報ではある。しかし、ある意味、出所は確かであるかもしれない。決して漏らしてはならぬと言われていても、寝所ではつい口が軽くなってしまうものだ。

「先ごろまでは弱りながらも王のもとに通い、なにごとかを打ち合わせたりしていたようです。しかし、私がグロードゥカを離れるときには、すでに起き上がることすらできぬようになっていたようです」

 そうであるならば、今ごろ、死んでいるかもしれぬ。そうペトロは考えた。そして、さらにその先に思考を伸ばした。

 その先に、何がある。

 復活の巫女の軍がよく分からぬ状態で宙吊りのようになっているのは、サヴェフが病を得てしまい、思うように動かせぬからか。いや、それならば、ラーレは何をしている。

 サヴェフが死ぬとして、何が変わる。それを、考えた。

「ペトロ様」

 ジェリーゾが、その思考をいっとき破った。

「ザハール様にも、報告をした方がよいでしょうか」

「なんだ。ザハールのところから来たのではなかったのか」

「はい。しかし、まずペトロ様のお耳に入れ、そののち、ザハール様にもお話しすべきかどうかの判断を仰ぐべきだと思いましたので」

 ものの順序というのをよくわきまえている。ザハールが不用意にこのことを知れば、どう行動するか分かったものではない。だから、自分からの報せだとして伝えてやる方がいい。それならば、ペトロならこの情報に対する方策を何かしら持っているはずだ、として大人しくしているだろう。

「構わん。今から戻り、俺からの伝達だとして伝えてやってくれ」

「承知しました」

「――ここで造っているものを、存分に活かせるかもしれんな」

 ペトロはこのあとのことを考え、そう呟いた。それはザハールへの伝言とは関係のない独り言であるということを見て取って、ジェリーゾはまた木の影とそこに墜ちる陽の中に消えていった。


「もういいぞ」

 視界から外れた供を呼び戻すため、声を上げた。いつもなら、すぐに供の者はどこからともなく戻ってくる。しかし、このときは違った。妙な感覚を覚えながら、馬を進める。

「おい。どこにいる。もういいぞ」

 再び呼んだが、返事はない。その間も、ペトロの思考は旋回を続けている。

 サヴェフが、死ねば。いや、サヴェフが、自らの死期を知れば。

 そこまで考えて、にわかに背筋に粟が立った。

 サヴェフとは、おおよそ人の思いつかぬ方法でもってここまでウラガーンを導いてきた。自らの命数を知り、考えることとは。

 それは、自らの死を、どう使うかということではないだろうか。彼は、かつてよく言っていた。いのちには、使い道がある、と。

 サヴェフの死。それがもたらすもの。

 サヴェフとは、いわば、パトリアエにおいて最も深く戦局を見通し、国家がそこにどう働きかけをするかということを即座に断ずる者。それを喪ったパトリアエは、どうなる。

 全身に立つ粟が、己の直感の正しさを告げている。だが、そうであるならば、ひとつ大きなものが欠けている。

 サヴェフが望んでいるのが、徹頭徹尾、乱れであるとするならば。そこからの再生であるとするならば。そうすることで、国を一つにまとめ上げようとしているならば。そのためなら、己自身も、王であるヴィールヒも要らぬと思っているならば。そうであるならば、講和に向け互いに暗黙のうちに動いているバシュトーは、どうなる。それを進める自分がいる限り、サヴェフの死はただ無意味な一人の男の死ということになる。

 そこまで考えて、なぜ供の者が呼んでも戻って来ぬのか悟った。

 悟ったときには、もうどうしようもないということも分かった。己の直感というものが並の者よりも優れていて、より正確に真実を射抜くことができるという自負もある。


 案の定、それは当たった。

「呼んでも、戻らぬさ」

 聞き覚えのある声。ジェリーゾよりもさらに深く、木が造る影に溶け込む影。それが握る、片刃の剣。そこからは、血が滴になって墜ちている。

「――お前か」

 ペトロは、馬を降りた。なぜか、そうしようと思った。

「もう、お前にとっては国のことなど、どうでもいいのではなかったのか」

「どうでもいいさ」

「では、なぜお前はここにいる」

「俺が求めるはずであったものを、同じものを求めた者を、置き去りにしてはゆけぬからだ。ただ見守るというのは、俺の弱さがさせることだと思うからだ」

「――サヴェフに、会ったのか」

「会った。話しもした。もう、見る影もない。もとから嫌なやつではあったが、あんな姿になってまで国をどうこうと言っている様を見ると、反吐が出る思いだった」

「それでも、お前はここに来た。そうだな」

「その通りだ。最初で、最後だ。俺は、はじめて自分の意思で、自分の求めるものを追うことをする」

「お前らしいな」

「サヴェフは、もうこの世にはおらん。病で死んだことにするそうだ」

「斬ったのか」

「病などという不確かなものに頼る気は、さらさらないそうだ」

 翻る、黒い外套。それは、ずっと影の中に身を溶かす色として彼を隠してきた。そこから、この木々の陰の中に点々と差し込む光のように、はじめて姿をあらわす。

 死を運ぶ色。それが、イリヤの形になった。

「俺は、まだ死ぬわけにはいかん」

「どのみち、人は死ぬ。みな、死んだ」

「ベアトリーシャのことを、言っているのか」

 答えはない。かわりに、血の滴る剣を低く構えた。

「俺は、誤りを正す。あってはならぬ方に国が進もうとしているのを、止める。それこそが、俺のすべきことなのだ」

 誰にも侵せぬもの。それが、ペトロにはある。葉が揺れて陽が差し込んだためか、イリヤはわずかに眼を細めた。

「それを求め、追うのは、お前が決めてそうすることだ。俺には、何も言うことはできん」

「ならば、もはや、語ることはないということか」

 ペトロが、剣を抜く。その前に首を刎ねることくらいできたであろうに、イリヤは黙ってそれを見ていた。

「古い付き合いだ。さんざん、語ってきたさ」

「お前はいつも、怯えていたな」

「そして、苛立っていた。己の不明を世のせいだと嘆き、ありもせぬ怒りに身を任せることでかろうじて泳いでいた」

「自分でそう言うなら、世話はない」

 ペトロの剣が光を吸い、吐き出している。それを、何度か繰り返した。

 出会ったのは、まだ十代の頃だった。サヴェフよりもザハールよりも、付き合いは古い。グロードゥカの旧市街で盗み、たかりをしていた頃からの付き合いである。あれから、どれほどの時間が流れたのだろう。いくつの朝が暮れ、いくつの夜が終わったのだろう。そこに、いくつの星が墜ちたのだろう。

 それを数えることは、誰にもできない。無論、この二人にも。彼らに数えられるのは、己の呼吸の数のみである。

 風。はげしく二人の間を通り過ぎ、すぐに止んだ。

 ペトロが、仕掛けた。渾身の力で。己の全てを、剣に込めて。腕に覚えはある。あとは、魂の力。それをぶつけ合い、勝つ。この旧い友を屠ってでも、戦いを終息に導き、人をあるべき姿に還さねばならない。その想いは、この天地の間の誰よりも強い。

 光。魂が放つ、強い光。いや、陽を剣が照り返しているのだ。それが閃き、またペトロの内側から迸る激流となり、吹きもせぬ風となってイリヤに殺到した。

 ぶつかり合う。

 そのはずであった。

 しかし、ペトロが最期に発したものは、イリヤと交わることはなかった。

 たしかに、その光に照らされたイリヤは、影ではなくなっていた。ただの、一人の男になっていた。

 だが、イリヤはペトロの凄まじい振り下ろしが与えられたところからわずかに身を逸らし、左逆手に握った片刃の剣をしずかに抱くようにして静止している。

 その身体に、ペトロの熱い身体が重なった。

 肉を裂き、刃を引き抜く感触。それがイリヤの手の上で止んだとき、ペトロは土の上に崩れた。

「やっと、俺も、に還れる」

 誰も、彼のその呟きを聴いた者はいない。ゆえに、史記にはそのことは一切記されていない。

 ペトロがイリヤと向き合い、そして死ぬその瞬間のことも、イリヤのこの呟きのことも、筆者が彼らにふたたび魂を与えようとするその過程で生じた必要によって付け足されたものであることをここで断っておく。

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