英雄のいない国に向かって

 ペトロの死の十五日前。ヴィールヒは、サヴェフの居室にあり、静かに言葉を発していた。

「乱れを治めるとは、面倒なことだな」

 それはとくに目的があって発せられるようなものではなく、今自分がここにあって言葉を発していること自体に意味を感じるようなものであった。

「人ひとりの生を丸ごと使ったくらいで、国ひとつがどうにかなるものか」

 サヴェフもまた、おなじであった。今ここにヴィールヒがいるということを感じることこそが、彼にとって意味のあることだった。

「だから、あれほど言ったのだ。眩しいと」

「お前は、いつもそうして目を細めていたな」

「そうだ。人のありようを見定めるには、俺は臆病で、なにかを諦めすぎている。だから、全てを眩しいと感じてしまう」

「私がお前をウラガーンの旗の下に据えたこと、恨んでいるか」

「いいや」

 ヴィールヒは、興なげに伸びをした。そうすると、龍が伸び上がったようであった。

「おかげで、信じることができた。あの旗のゆく血の河を渡れば、屍の山を越えれば、そこに必ず俺がいて、俺を待っていてくれると」

「そうか。それなら、よかった」

「俺は、ずっと空っぽの器のようなものだった。だから、いつでもそこに俺という名の世界を注ぐことを思い描いていた」

「ヴィールヒ」

 ヴィールヒがそう言ったとき、サヴェフの舌が、単にその回転を楽しむものから、意味をもった発音を行った。その顔には、諦めでもなく悟りでもない、なんとも言えぬ線が刻まれている。

「私は、やはり死ぬのだな」

「──おそらく」

 ヴィールヒは、静かなまま答えた。サヴェフはいちど目を閉じ、再びそれを開くと、しっかりと首を回してヴィールヒを見た。

「分かっていた。それゆえ、私なきあとのことを思い、策を巡らせてきた。しかし、そうか。私は、いよいよ死ぬのだな」

「乱れを治めるため、乱れをもたらす、か。とことん、俺たちはウラガーンだな」

「人とは、乱れるものだと思う。そう思い込むからこそ、私はどうにかそれを捻じ曲げようとする己を保つことができていた」

 人が、もとより乱れるべき性質を持つのなら、それがもたらすものは、乱れではなく、もはや人そのままの姿。乱れていることがおかしいのではなく、そうではない姿を求めることこそが、並ならぬこと。そのような意味のことを、サヴェフは言った。

「しかし、望まずにはいられなかった。それは、私もまた人であるからだ。人である以上、望むことをやめるわけにはいかなかった」

「そのために、人であることすらやめても構わぬ、か」

「そうだ」

「サヴェフ」

 ヴィールヒが、若かりし頃と変わらぬ頑固な線を眉間に浮かべる朋輩に向かって、ちょうど二人を見下ろす月のように言った。

「俺は、どうすればいい」

「私たちが求めてきたことは、未だ成らぬ。私たちがこの世にある限り、成るはずもない」

「俺にも、死ねと?」

「そうだ。お前にも、斃れてもらう。それを見て、当たり前のように人が持つ習性を、愚かなものであると人は知る」

「お前を喪い、なお戦い、戦って、止むはずであった戦いの中で斃れる、か。そのときには我々のうちの誰もが、もう己が戦うことのできぬ状態であることを知る、か」

「そうだ。そうして、知らねばならぬことを人は知る。彼らの国に、私も、お前も要らぬのだ。そこには戦いの女神も黒い墜星も、何もない。我らは、そういうものなのだ」

「わかった。お前の、言うとおりにしよう」

「──この国には、英雄は要らぬのだ。誰ひとりとして」

 ヴィールヒは、力なく笑った。彼が笑うのは、珍しいことである。それを見てサヴェフは安心したのか、力を振り絞って身体を起こした。

「では、ヴィールヒ。雨の軍を呼べ。イリヤに、渡りをつけてくれ」

 病などという不確かなものには、頼らぬ。サヴェフは、そう言って、自らもまた笑みを向けた。

「さらばだ」

「さらばだ」

 血よりも濃いもので繋がった二人は、こうして、二人になった。


 ヴィールヒは、振り返りもせず、サヴェフの居室をあとにした。

 外に出れば、五〇八年と五〇九年を繋ごうとする風が、そこにあった。

 自らを見下ろす月から眼をそむけ、星に移す。それくらいの光が、ちょうどよかった。

 ──サヴェフ。

 別れは、済んだ。人である以上、死というものから逃れる方法はない。だからこそ、人は歪み、互いに争う。だからこそ、人は求め、抗うことができる。

 何が光で、何がその影なのか。そのことは、ヴィールヒには分からない。ただ、サヴェフの言い残した通りのことをしていれば、間違いはない。そう思えた。

 創生の英雄など、要らぬ。十聖将と呼ばれた者の多くは星となり、墜ちた。今、そのひとつが、また墜ちようとしている。英雄王などと人に言われている自分ですら、要らぬ。乱れるだけ乱し、人はそのことを知らねばならない。

 だが、このとき、ヴィールヒの中に、ほんの先ほどまでは存在しなかったものが、にわかに生じていた。

 その正体に手を探り入れようと星の光に眼を細めたとき、彼はあっと思った。

 サヴェフは、もういないのだ。この天地がどうなろうと、国が何を求め、どのような姿になろうと、己にとって唯一無二としか言いようのないあの気難しい友人は、もう永久にそのいのちを燃やすことはないのだ。

 サヴェフは、十分に生きた。十分すぎるほどに生きた。誰も為し得ぬことをし、叶え、人を、国を、ここまで進めてきた。だが、彼がその生命をほんとうに燃焼することができたかどうかを決めるのは、自分ではないのだ。

 自分に与えられるのは、ただ星になって流れて墜ちる、一粒の光。それに何と名を付けようと、どのような物語を与えようと、サヴェフという一個の人間は、永久に消滅してしまうのだ。


 それが、死。得体が知れず、それでいて確かな足取りでもって人の背後にいつもあるもの。

 ここまで生きて、はじめて死というものがどのようなものであるのかということについて考えた。はたから見れば彼ほど生死について悟りきったような男も珍しいが、彼の心の中は、そうではなかった。

 ──サヴェフ。

 振り返った。

 振り返って、駆けた。駆け戻った。戦場をどれだけ踏んでも決して切れることのなかった息が、切れた。自らの胸が上下し、荒い息が星に向かって流れ、白くなってすぐ消えるのを見た。それについて目を細めることはなかった。

 ──サヴェフ。

 消えてしまうのだ。彼が何を伝え残そうと、彼がどのような意思を今、示そうと、消えてしまうのだ。そのことを、ヴィールヒは知った。

 王城の広大な敷地の一角。そのうちのひとつ。そこに、サヴェフはいた。つい先ほどまで、自分もそこにいて言葉を交わしていた。しかし、それをあとにして一人で歩むうち、戻ってくるのにこれほど息を切らせなければならぬほどに遠くまで行ってしまっていた。

 ──どこに、戻ろうというのだ。

 ヴィールヒは、サヴェフの居館の扉に手をかけたまま静止し、見開いた目で天をいちど仰ぎ、やがて手を離して再び夜の中を歩きはじめた。


 史記は、たとえて言う。これが、彼がはじめて日であると。

 死というものを知った彼は、思う。それを、彼は、自らの行いでもって表す。どのような形でそれが世に混じってゆくのかは、史記の頁が進むのに任せたいと思う。


 時は流れてゆく。英雄のいない国へと向かって。しかし、ただ消えるだけでは、それはただの死である。少なくとも、夜の中に消えてゆくヴィールヒの後ろ姿を見て、筆者はそう思う。

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