己を知る
パシハーバルは、コスコフ南部のパトリアエ軍の中心、ラーレ軍に編入され、五〇八年の冬の風に身を縮めていた。とは言っても広大なソーリ海の近くは内陸に比べれば寒暖差は穏やかであるから、少しの慣れをもってすれば気にはならなくなるだろう。
自らに与えられた軍の調練は怠らない。このあたりに雪が降るようなことは滅多にないから、一日も休まず朝から夕まで調練を繰り返した。
散開。集合。五人一組になる。それが五つ集まる。さらにそれが十集まる。そして、また散る。鱗の形に整列する。精霊が翼を広げた形に移動する。そういう動きを、何度も繰り返した。自らの号令で人が思うように動くというのが、面白いと感じるようになった。
厳しい調練に音を上げかける若い兵などがいれば、容赦なく打ち据えた。そうすることで、他の者の動きは良くなった。誰かが、戦場では一人の遅れのために千人が死ぬということがある、と言っていたのを頭に描いている。
べつにそれをしなければならぬという決まりはないが、三日に一度はラーレのもとへ軍の調練の内容などを報告しに行った。求めればラーレは気軽に会ってくれ、地に片膝を付けて胸の前で拳を組み、声を張り上げて報告をするパシハーバルを灰色の瞳で見下ろし、ひととおりのことが終わると、そうか、とのみ言い、去っていく。
それでもよかった。今やラーレというのは軍の最高責任者で、その戦いの女神に自分のことを認めさせれば、彼の思う自分の本来の立ち位置に立つことへの道も縮まると思うからだ。
はじめ、千の兵の将であったパシハーバルであるが、ラーレのもとに来てすぐに、同時にやってきた他の隊も合わせた五千の将を務めるよう言い渡された。独立した千の隊が五つあるよりも、五千の隊が一つの方が指揮しやすい、というラーレの方針である。
そして、もう五〇八年が終わりを迎えようとしているある日、ラーレはいつもと違うことを言った。
「パシハーバル」
と、彼の名を呼んだのだ。なぜか、それを言うのにわずかな躊躇があるようであったが、パシハーバルがその微妙な呼吸を汲み取ったかどうかは分からない。
「ずいぶん、熱心だな」
「はっ。私は、ラーレ様の旗のもとにある軍として恥ずかしくないものを作り上げるつもりです」
「お前の兵は、何人であったか」
「はっ。五千です」
「きっかり、五千人か」
なにか、話の向きが妙な方を向いている、とここでパシハーバルは思った。訝しい顔をしながら胸の前の拳を解き、答えた。
「いえ、正確には、四千九百人ほどです」
「ほど、というのは何だ」
答えられない。はじめきっかり五千いた兵だが、十人ほどは調練の中で倒れて死に、さらに何十人かは遁走してしまって数を減らしている。だが、それが何人になっているのか、正確には把握しきれていない。
「今、お前の軍の兵は、四千九百二十一人だ。指揮官ならば、それくらいは即答せよ」
「申し訳ありません」
「なぜ、数を減らした。調練で、死んだか」
「申し訳ありません」
パシハーバルが、頭を下げて小さくなってゆく。
「よい。調練で死ぬような兵は、どのみち、戦場に出ればまっ先に死ぬのだ」
パシハーバルはほっとして顔を上げた。国家から預かった兵を死なせたことを咎められるということはなさそうだと思ったらしい。
「しかし」
せっかく緩んだ彼の頬は、ラーレが継ぐ言葉によってまた引き締まった。
「兵とは、人形ではない。それを、忘れるな」
まっすぐに、パシハーバルの目を見て言った。パシハーバルが報告をしていても、いつもどこか遠いところを見つめているラーレには、普段、あまりないことである。
「お言葉ですが」
パシハーバルは、かっとなった。何か自分が間違いを犯しているというような匂いが話題の中で醸されかけていることが、我慢ならないのだ。
「私は、私の軍をこの国で最も強い軍にしようとしているのです。それでこそ、戦いの女神ラーレ候の旗の下にある軍として相応しい姿であると思っているのです。そのために、日々、厳しい調練を繰り返しています」
「そうか。では、お前の軍は、それなりの力を付けているということになるな」
「そう、自負しております。ろくに調練もせず、ただ日々を過ごしているような軍が同じ旗の下にいるのも目についています。正直なところ、我慢がなりません。だから、せめて、私の軍だけでも強くあらねばと、そう思っています」
「復活の巫女の軍のことか」
さすがに、そうだとは言いづらい。だが、ラーレはパシハーバルが復活の巫女の軍をなぜか目の敵のようにして日頃意識しているのを知っているらしい。
「わかった。下がれ」
ラーレは薄く口の端を吊り上げ、立ち上がった。ふわりと、花のような香りがした。戦いの女神と人に恐れられていても、女として生まれたことはどうにもならぬものらしい。
その翌日、パシハーバルの軍に出動命令が降った。実戦ではなく、模擬戦である。相手は、復活の巫女の軍。総数では一万を越えるが、そこから二千だけが出て来ると言う。
「馬鹿にしている」
パシハーバルは、憤慨した。その勢いのまま五千弱の兵を集め、号令を降した。
「相手は、腑抜けが二千だ。もし、一歩でも遅れを取るようなことがあってみろ。その責めは、それぞれの将が負ってもらうことになる。心せよ」
彼の軍の兵は直立して声を揃え、模擬戦の戦場に指定された原野に急いだ。
原野に着いた頃には陽が高く昇っており、すでに復活の巫女の軍が集まっているのが地平に見えた。その陣形は何でもないようなただの方陣が四つ並んだだけのもので、指で押しても崩せそうな構えだった。
旗が、ソーリから吹き上がってくる風に靡いている。そこに、敵将スヴェートがいる。
――見ていろ。腑抜けめ。
すでに勝利を確信したような様子でそれを得意げに睨み、攻めのための錐の陣形を取ることを命じた。
その瞬間。
視界の向こうにある四つの方陣が、死んでいると思った虫が突如として羽ばたくようにしていきなり動いた。
まだ陣形を移そうとしていたところの兵は、露骨にうろたえを見せている。
「何をしている!円陣を組め!受け流すんだ!」
錐形の陣を取ろうとしていた兵が停止し、円陣へと移行を始める。その間にも復活の巫女の軍は雪が崩れるように方陣から錐形の陣へと姿を変えつつ、突進してくる。
先頭に、旗。まさか、とパシハーバルは思った。
将自らが、先頭を駆けている。そのようなことがあるのは十聖将などを人が語るときの英雄譚の中だけであると思っていた。
速い。騎馬隊が疾駆していて、歩兵はそこから大きく遅れながら、引きずられるようにして駆けている。錐形の陣を取っているのではなく、自然とそうなっているのだ。
誰もが、先頭に翻る旗を見ている。そして、それが目指すものを見ている。
両軍の間にある距離は、すぐに縮まった。
先頭が、ぶつかる。鋭い牙を持った蛇のように蛇行しながら、パシハーバルの軍を食い破ってゆく。
慌てて号令を重ね、鼓を鳴らさせ、円陣を急がせた。突撃の衝撃を少しでも和らげなければならない。これを受け流すことができれば、逆に円陣で敵を取り込み、殲滅することができる。
たかが、二千。こちらは、倍する兵がいるのだ。そう思い、自らもまた動揺に押し流されぬようにして手綱を強く握り締めた。
しかし、兵は、いっこうに円陣を組もうとしない。いや、組みたくても突撃の威力があり過ぎて、どうにもならないのだ。実際にパシハーバルの兵の海の中に突入している騎馬隊は、わずか二百ほど。たったそれだけの突進を、受け止めきれずにいる。
何が起きているのか分からぬパシハーバルは、眉を皺にしてそれを見つめた。
――スヴェートではない?
先頭を駆ける者は、かなり大柄である。それが、木で造った驚くような大きさの剣を振り回し、パシハーバルの兵を枝切れのように吹き飛ばしている。将の旗が翻っているところに、なぜあのような大男がいるのか、わけが分からない。そして、なぜあの大男が、あれほどの剛剣を振るうことができるのかも。
わけが分からぬこの状況が、パシハーバルの頭をかえって冷静にした。そこで、気付いた。
騎馬が二百というのは、少なすぎる。復活の巫女の軍には、千を越える騎馬が備えられているはずだ。その全てが今回の模擬戦には出ていないにせよ。二千のうちの二百しか騎馬がないというのはおかしい。
彼がいるのは、陣の中央よりやや後ろ。
そこに、直接衝撃が加わってきた。前方の大男の率いる騎馬隊のものではない。その衝撃は、さすがにパシハーバルのところには伝わっては来ない。
何だ、と首を巡らせ、驚くべきものを見た。
彼が布陣したのは、この原野の入り口から少し進んだ地点。原野の入り口は両側に丘がせり出しており、軍を展開するのには不利な地形だったからだ。そして、地平すれすれに復活の巫女の陣が広がっているのを見て取って、適切な距離を取って、なおかつ離れすぎぬ地点を選んだつもりであった。
それを、見透かされていた。
後方両側の丘から、滝が流れるようにして騎馬が駆け下りていて、すでにその先頭はパシハーバルがいる本陣の後方にすでに食い付いている。
声を張り上げて兵を叱咤し、すぐに反転。後方両側から押し込んでくる騎馬隊を押し返そうとした。
止まらない。その突破力は、前方の大男の比ではない。
「模擬戦ごときで、むきになりおって」
思わず、叫んでいた。そのときには、もう、先頭の一騎が兵を吹き飛ばしながら向かってくるのがすぐそこに見えている。
前方から崩され、さらに後方両側から押されている。もう、パシハーバルの軍には陣形というような概念はない。ただそれぞれがばらばらに、恐怖や怒りや諦めの中で足や腕をばたばたと回転させるだけの集団になってしまっている。
先頭の一騎。白銀の軍装に身を包み、葦毛の馬に跨っている。
スヴェート。
パシハーバルの軍の到着が遅れていることを見て取って、即座に判断したらしい。自らの旗を別の将に預け、さもそこに自分がいるかのようにして注意を惹かせ、自らはパシハーバルが布陣するであろう場所の後方の丘の背後に身を隠す。そうなるよう、本陣の位置も微妙に調整させた。
それをパシハーバルが知ったときは、スヴェートのふしぎな色の目と我が目が交わった瞬間になってしまっていた。
――馬鹿な。
パシハーバルは、驚愕した。
今まさに自分に向かって木製の剣を振り降ろそうとしているスヴェートの馬の尻に、両目を固く閉じた復活の巫女が座しているのを。それは馬から振り落とされぬよう必死になって、スヴェートの腰にしがみつくようにしている。
なぜ、そこに復活の巫女がいるのか。
なぜ、前方の騎馬はあれほど容易く自分の兵を崩せるのか。
なぜ、背後を取られたのか。
なぜ、自分は負けるのか。
何もかもが分からぬまま、肩に強い衝撃を受け、天地が逆さまになった。
呻き声を上げた自覚があった。それで、目覚めた。
「さんざんな有様だったようだな、パシハーバル」
冷たい声。ラーレである。原野を覆う寒風に枯れた色の草に背を預ける自分を、見下ろしている。
戦いそのものは見ていなかったが、戦いのあと、ここに到着したのだろう、とどうでもいいことをぼんやりと考えた。それをしながら、無様な姿を見せ続けるわけにはいかぬ、と揺れる世界の中に身を起こした。
「お前の、負けだ。スヴェートの軍は、二人しか兵を損なっていない。お前の軍は、千近い損害を出したぞ」
一瞬のことだった。
戦いが終わってみれば、分かる。たかが二千、ろくに調練もせぬ復活の巫女の軍が相手、としてはじめから気を抜いていた。その力を、見誤っていた。それゆえ戦場への到着が遅れ、有利な位置への布陣を許し、騎馬隊を埋伏させる隙を与えてしまった。
「――気のぬかりが、ありました。次こそは、必ず」
「いいや」
ラーレの冷たい声が、ソーリの風となってパシハーバルの頬を打つ。
「お前は、死んだ。その軍も、この地上から消滅した。これは模擬戦だが、お前たちは、全て死んだのだ。死ねば、何もない。したがって、次もない」
事実である。認めざるを得ない。しかし、気のぬかりさえ無ければ、勝っていた。その思いは、消えない。
「たとえお前が十分に備えていたとしても、お前は負けていただろう」
そのパシハーバルの思考を弾くようなことを、ラーレは言った。
「スヴェートの軍は、復活の巫女の旗を必死で追っている。一歩でも遅れまいと、誰もがそのことを思って駆けた。お前の軍は、お前の号令がどのようなものになるのかということを、それに応じられずあとで叱責を受けるのではないかということを気にして、即応することができなかった」
たしかに、戦場において兵が勝手に行動することは許されない。それゆえ調練は必要であるし、将の命令は絶対である。しかし、それを越えたものを、復活の巫女の軍は持っているということである。
その旗のあるところに。先頭を駆けるスヴェートの背のあるところに。それが立ち向かうものに。あらゆる者が、号令などなくして同じものを目指し、同じ動きをすることができる。それが、軍というものだ。
ラーレが言い放つ言葉のいくつかはパシハーバルの中に深く刻まれ、いくつかは彼を通り越して枯れた色の草に落ちた。
「では、復活の巫女がスヴェートの馬にあったのも」
そこで、ただ黙ってラーレの後ろに立っていたスヴェートが、はじめて口を開いた。はじめ、言葉ではなく、無遠慮な笑い声だった。
「あれは、その方が面白かろうと思っただけだ」
笑いを収めてそう言うスヴェートを、パシハーバルは見上げた。
「何を、言っている」
心底、スヴェートが何を言っているのか分からなかった。自分が気を失っている間にスヴェートは頭でも打ったのかと思うほどであった。
「だから、ただ静かに座っているより、俺の馬の尻に跳ね上げられている方が、面白いと思ったのだ」
「そんなこと」
復活の巫女が、ほとんど怒ったようにして声を張り上げた。
「なんてひどい人。あなたが無理矢理乗せるものだから、わたし、ほんとうに死ぬかと思った」
それを聞いて、スヴェートはなお笑った。
「そう、怒るな。滅多にないことだったろう。この前、馬に乗っていると自分が風になったような気がすると言ったら、わたしも風になって駆けてみたい、と言っていたではないか」
「もう、二度と馬には乗りません。ほんとうに、怖かったんだから。相手の武器が当たったら、どうするつもりだったの」
スヴェートは、苦笑しながら、それでいて確かな眼差しで伸び上がって唾を飛ばす復活の巫女の両肩に手をやった。
「当たらないさ。俺がいる。だけど、悪かった。許せ。このところ、うかない顔をしていたものだから、少しは気が晴れるかと思って」
「あなたには、加減というものがないのかしら。まだ陽も昇りきらないうちからいきなり押しかけてきて、出かける、支度をしろと言うから何事かと思ってついて来たら。まったく、ひどい目に合ったわ」
ひとしきり不服をまくし立てる復活の巫女の言い分を、スヴェートは笑いながら聞き、さいごに、少しは元気が出たようだ、それくらい声を張り上げていれば大丈夫だな、と穏やかな声を発した。
「まあ、わたしを元気付けようとしてくれたのには、感謝するけれど」
それで矛を納める復活の巫女を見て、なんだ、この座興は、と思った。
戦いとは、命を懸けて行うものではなかったか。それを、このような遊びにされては、たまったものではない。そして、そのような者に敗れたということが、我慢ならない。
全てが恨めしい。スヴェートも、復活の巫女も、ラーレも。軍も、思うとおりにならぬ自分の兵も、そして自分自身も。
スヴェートと復活の巫女が驚いて目を見張るほどの声で、叫んだ。悔しさのあまり地を叩いた。どれだけ叩いても地は決して答えることはなく、ただ己の拳が痛むのみであった。
それを、ラーレはただ黙って見下ろしていた。
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