夢をまことにせぬために

 リシアは、星を見上げている。コスコフ南のこの地域というのはひどく開けたソーリ海のためか、雲が溜まらず流れやすい。北にどこまでも続く細長い陸地が、海を切り裂くようにして伸びているのが月と星に浮かんでいる。

 ひとつ、ひとつと、星が流れるのが見える。ときにそれは明るく、ときにそれは誰にも知られずひっそりと流れる。


 ときおり、それが墜ちることもある。太古から天を流れる星がときに火球となって地に墜ち、その痕に遺される隕鉄を特別なものとし、人は特別な道具に加工したり特別な剣を作ったりしてきた。

 このナシーヤ地方の歴史においてもそれは盛んで、遥か昔の時代に存在した王が墜ちた星の跡にある石から剣を作り、それを自らが精霊と通ずるときに用いたとかそういう類の伝承が多い。


 マーリは、塩を押さえられているのが意外に効いていると言っていた。パトリアエにおける製塩はこのコスコフ地方か、その対岸のウィトゥカと呼ばれる地域かその南のマリヴァシュカ──史上何度も戦いの場となったサムサラバードなどもこの地域にあたる──に限定されており、それ以外ならばあとは東の大山脈の一部において僅かに岩塩が産出されるに過ぎない。

 コスコフ地方の製塩が押さえられるということはパトリアエ全土のあらゆる物資の流通において重要な問題であり、その影響が早くも出始めているらしい。


 誰でも知っている通り、塩というのは人にとって無くてはならぬものであり、そしてどこからでも自然に湧いて出るようなものでもない。

 たとえばパトリアエの国力の最も重要な裏打ちとなっている貿易においても、塩は必要である。旅人は、塩を求めるたび、荷を下ろす。塩がなければ彼らは遥か西の国まで旅を続けることができぬから、道を曲げてしまう。

 彼らが来ぬのならパトリアエが根を張り巡らせる土は乾き、いかにその根が深く、あちこちに張り巡らされていたとしても枯れてしまう。


 かつて、ウラガーンはトゥルケンの鉄に眼を付け、それを操作することで強大な力を持つ王家の軍に対抗したという知識は当然リシアにも教育によって与えられているが、マーリなどが焦燥を浮かべるのを見ると、なにか自分がとんでもない場にいるのだという気が今さらのようにしてきて、落ち着かないものであった。

「次は、絹だろうか。そうならば、彼らはこの南の戦線を釘付けにしておきながら、北のトゥルケンの方へ曲がった貿易の道を押さえに来るかもしれん。そこを守護すべきラーレ侯は、ずっとここにいる。あるのは、地方軍だけだ。バシュトーは、着実に国の力を奪いに来ているのかもしれない」

 と、マーリはスヴェートやリャビクに向かって毎夜のように自らの情勢分析を語っている。

「大軍師ペトロなら、それくらいのことはやりかねん。なにしろ、相手は蛇の頭たるバシュトー王を失っているんだ。このまま講和となれば、あちらに不利な条件となるに決まっている。だから、どうにかして我々の喉首を押さえ、対等の講和に持ち込もうとするはずだ」

「そんなものか」

 スヴェートは、興がない。難しいことは全てマーリに任せきっているのだろう。

「案ずるな」

 その眼が、ふと自分の方に向くことがある、とリシアは感じていた。仲間うちで膝を突き合わせて話しているかと思えば、急に話題を向けてきたりするのだ。

「きっと、良くなる」

 スヴェートには、リシアの心のうちにあるものが見えているのだろうか。率いる軍は威圧のためで、実際に戦うことはない。自分が復活の巫女としてそれを率いることでバシュトー軍に、かつてのウラガーンのことを思い出させ、矛を収めさせる。

 しかし、ほんとうに戦いになれば。

 血は流れ、人は死ぬ。父も兄も、どうなるかは分からない。バシュトー王ですら戦いの女神に討ち取られてしまったのだ。

 マーリが情勢分析を披露する場に居合わせると、自分が思っているよりもずっと戦いのこととは複雑で、いつ何がおきてもおかしくはないのだと思える。

 その度に、不安になる。星の光が心を静めるようでいて、かえって波立たせることもある。

 そういうとき、スヴェートは決まって声をかけてくる。

「案ずるな」

 と。

 そうすると、星から眼を下ろすことができた。目の前にいる人と我が目を合わせることができた。

「リシア。お前を、必ず早くグロードゥカに戻す。ソーリの海を見に来たとでも思っていればいい」

「ありがとう。そのときは、父さまも、シトも一緒ね。そして、あなたも」

 そう声に出して答えると、スヴェートはわずかに頬を緩め、マーリの話に耳を傾けることを再び始めた。


 リシアは、夢を見る。とくに、復活の巫女としてグロードゥカを出てから、それは多い。

 その夢の中は、決まって雨だった。そこで、歌う自分がいる。

 誰かが、その歌に合わせて舞っている。

 ──スヴェート?

 きっとそうに違いないと思って、

 そうであってほしいと思って、声に出して名を口にする。しかしその者は気付くことなく、ただ一心に舞うのみ。

 天から降る雨。それなのに、そこには星。歌ううち、天にあって墜ちてきた星が、雨となり地を叩いているのだと分かる。

 そうだと分かったとき、雨に、その向こうで舞う者に向かって、手を伸ばす。

 そうしてはじめてその者は自分に気付き、笑って同じように手を伸ばす。

 手と手が触れ合うその瞬間、気付く。天から降ってその者の手を濡らすそれは星でも雨でもなく、血であると。

 誰の血なのかは、分からない。天にある星そのものが流す血なのかもしれない。

 何も分からず、何も知らない。だから、ただ恐れるしかない。そういうことを思い、助けを求めるようにスヴェートであるはずの姿を見る。

 血を浴びているのではない。

 血を、流しているのだ。

 それを知り、声にならぬ声を上げる。


 そこで、目が覚める。

 同じ夢。何度見たことか、分からない。西洋人にとって夢とは希望であり願望であるが、我々東洋人にとっては古来、夢とは得てして凶兆であることが多かった。その中間に位置するリシアらナシーヤ一帯にある民族は、そのどちらでもない。ただ、彼らは、現代の我々もしばしばそうするように夢を未だ来らぬことの予兆であるとかなにかの暗示であると考えることが多い。


 だが、リシアは夢のことはスヴェートにも言わない。あなたが夢に出てきてそれが血を流していると言ったところで、それを聞いたスヴェートはだからどうしろと言うのだと困ってしまうだけであろう。

 だから、彼女はせめてスヴェートが軍のことに専念できるよう、できるだけ穏やかな顔をして軍の者の前に姿をあらわし続け、復活の巫女と呼ばれるに相応しい己であり続けようとするしかなかった。

 スヴェートは、きっと守ってくれる。そのことだけは、確かなものとして彼女の瞳の中に存在している。

 自分がしっかりとしていれば、軍は穏やかになる。そうしてまとまりを保ち続けていれば、戦いは避けられる。そうすることで、父も兄もスヴェートも血を流さずに済む。そう信じているらしい。

 彼女は、復活の巫女となって日を過ごすうちに、変わった。変化がもたらされることを恐れ、母の影の中でひっそりと息をして過ごすのはやめた。

 戸惑いは消えぬ。しかし、それよりも、彼女が見た夢が、彼女を別の生き物にしようとしている。

 あの夢を、まことにしてはならない。

 スヴェートが血を流すようなことを避けるために自分ができることをする。


 スヴェートを取り巻く者どもがなにごとかを話し続けている。彼らが囲む火は、同じ熱で彼らを照らしている。

 そこを通り過ぎる風。そして、それらを見下ろす星。

 ふと、目をやった。そこには、龍と精霊、斧と盾の旗が黒々としながら翻り、星を見せたり隠したりしていた。

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