第十一章 衰退の光
星を目指す人
「このまま、講和は成るだろうか」
ということが、グロードゥカの人々のもっぱらの関心事である。市井の者の間においてもそれは盛んで、英雄王はこれ以上国土が傷つくのは望んでおらず、バシュトーの独立を容認してやるつもりだとか、いや、それは見せかけで、王を失ったバシュトーをラーレ侯の軍でさんざんに脅し、一方的な講和を結ぶつもりなのだと言う者があちこちにいる。どの者ももっともらしく自説を語るのだが、誰もがさいごに言うのは、
「滅多なことにはなるまい。かならず、我らに有利になる。我らには、復活の巫女がいるのだ」
ということである。戦いにおいて巫女がそこに立てば必ず大精霊がその翼でもって国土を護り、敵を
市井においてそうであるから、軍においてはさらにそう信じる者が多い。
だが、必ずしも全ての人がそうであるわけではない。
たとえば、中央にあって兵站のことをし、そこから位がやや上がって配置換えとなって中央軍のいち将校となったパシハーバルがそうだ。
「復活の巫女、復活の巫女。世の人とは、案外めでたくできていると見える」
と、このとき周囲の幕僚や親しい者に漏らしていた。
「あれは、軍ではない」
とも。それくらいにしておかれるがよい、とそれを聞いた者が窘めても、聞く耳を持たない。
「軍とは、それを指揮する者があってはじめて成り立つ。旗頭として復活の巫女が立つのはよい。しかし、それを率いるのがサハリ殿なのかスヴェートなのか、まるで分からぬ。あれでは、兵はサハリ殿かスヴェートかどちらの言うことを聞けばよいのか混乱してしまう。そのようなものを、軍などと呼ぶものか」
彼の舌鋒は鋭く、納まることはない。つまり、スヴェートが復活の巫女の守り役のようにしてその側にいて兵らの支持を受けているという噂を聞いて彼の特有の性格によって腹を立てたのだ。
「バシュトー王を討った時点で、戦いは終わっているのだ。今コスコフでしているのは、互いにどう引き下がるかというような、様子の見合いだ。その手札として戦線に投入されたようなあの軍を、俺は軍とは認めぬ」
周囲の人間が、何をそれほど怒ることがあるのだろうと不思議になるくらい、パシハーバルは言葉はげしく非難をした。
「俺は、悔いている。いっかいの将校としてしかこの地上に存在できぬことを。しかし見ていろ、次の配置換えのときこそ」
スヴェートと不意に再会をし、それがあれよあれよという間に実質上の軍指揮者になってしまったことで、パシハーバルの中でくすぶっていたものに火がついたということだろうか。
確かに、パシハーバルというのは頭がいい。剣もできる。しかし、何かが足りない。それが、現時点でのパシハーバルとスヴェートの立場の違いを作っている。
しかし、この五〇八年という年は、それまで日の目を見ずに不平不満ばかりを並べ立てていたパシハーバルにとっても、転機となる。
夏になり、配置換えがあった。そこで、彼は、念願の実働部隊の長となった。
その感情の激しさのため兵にはあまり慕われないが、兵站のことも理解し、なにより頭の回転が速い。あらたな彼の配置がそれを買ってのことかどうかは分からぬが、王と宰相の署名の施された辞令を見た彼はそれを握りしめ、今度こそ我が才を世に知らしめることができると言って感涙を隠そうともしなかった。
史記を遡り、筆者は思う、彼とは、はじめからこういうものであったかと。もともと気性の激しい部分のある男ではあったが、長い時間自分の才が認められず、人ばかりが自分の及ばぬところに上がってゆくということが、彼のそういう部分を助長したのだろうか。
少なくとも、彼の中には、人が己を追い越してゆくような感覚がたしかにあって、その焦燥から己を守るために、人が己を追い越してゆくのではなく、世が己を認めぬからそうなるのだと信じるようになっている。
「今こそ、我が才を世に知らしめることができる」
という彼の言葉に、それがよくあらわれているように思う。
彼はまだ、知らない。父の名も、母の名も。なぜ自分が物心ついたときから軍に身を置いているのかも。彼が己の出自について知るのはもっとあとのことになるので今はそのことはあえて細かくは描かぬが、共にスヴェートとアナスターシャやリシアの護衛をしたときに生じたわずかな歪みはこの時点でなお続いているということは間違いない。読者諸氏も見て分かるように、スヴェートにおいてその傾向は薄い。パシハーバルの中にのみ、その亀裂はある。
その歪みがさらに広がって亀裂となるのか、あるいは別の形となるのか、史記はその頁にある時点での物事しか語らぬため、筆者もまたそれに従うこととする。
続ける。
パシハーバルに与えられた兵は、千。それまで百人程度の隊を率いるにすぎなかったパシハーバルが得た、はじめての軍である。スヴェートが実質的に率いる復活の巫女の軍に比べれば小粒ではあるが、それとは性質が明らかに異なる、戦闘のための軍であると彼は確信していた。
それが、戦地に赴くため他の五隊と共にグロードゥカを発した。要するに前線のラーレ軍への兵員の補充である。
このとき、グロードゥカを発するべく集結した五千の兵に対して、サヴェフが珍しく姿をあらわして言葉をかけた。
彼らのほとんどが、このときはじめて宰相サヴェフという人間を我が目で見た。
それは、彼らが想像していたよりもずっと背が低く、そして昏い眼をしていた。若かりし頃はものの道理を重んじ、少しでもそこから外れるものを激しく憎悪するような激しさと、理と情とを同時に説いて相手の魂を震わせるような力があった。その瞳に燃えるものは人から人へと燃え移って瞬く間に広がるような性質を持っていて、たとえばウラガーン結成であったり森の賊を軍にすることができたのは、ひとえにサヴェフという人間が持つ根源的な力のためである。
今、人の前にいるのは、老いかけて、痩せて、土気色の肌をした男。それを見る兵らでサヴェフの年齢をよく知らぬ者は、彼を老人だと思ったかもしれない。
しかし、その眼の光の深さは昔と変わらない。
「お前たちは」
声を発すると、この弱々しい体のどこからこの声が出るのだろうと驚くほどに太く、よく透るものが人の頭上を飛び、胸に打ち付けた。
「機となる」
なんの機か。人の耳は、自然とサヴェフの次なる言葉に注意を向ける。
サヴェフには、昔からこういうところがある。自分の内にある激しいものを吐き出すときも、なにか意図があって相手を説くときも、言葉の継ぎ方が上手い。彼自身、べつに弁舌家であると自認しているというようなことはなかろうが、しかし、その言葉自体が持つ熱と、その継ぎ目のひとつひとつにまで魂が宿って躍るような響きを与えることのできる彼の唇と喉は、たとえ大精霊に望んだとしても得られるものではない。
「そして、きざしとなる」
五千の兵に、薄くどよめきが走る。しかし、サヴェフがまた次なる言葉を吐こうと息を吸うと、それはただちに止んだ。
「この国は、ほんとうの姿になりきってはいない。それゆえ、辺境の人はいまだ飢え、南は叛き、治まることを知らぬ。それゆえ、我らは、お前達の父母から受け継いだ戦いを、終えなければならぬ。お前たちこそが、機。お前たちこそが、きざし。そう思い定め、コスコフの土を踏め」
なにか、天の雲の奥深くで雷の鳴るような。遠くで風の吹くような。そういう得体の知れぬものが、ここにいる五千の兵の内より湧き出ている。
それが満ちようとするとき、サヴェフは更に鋭く声を上げた。
「ライリュ。アムダス。コーローン。イルアット」
隊を率いる者の名を。それぞれ呼んだ。そして、さいごに、その名を呼んだ。
「パシハーバル」
と。しっかりと自分を見下ろしているのが、分かった。そうすると、腰の中が、太腿が震えた。その快さは昂奮となり、パシハーバルは思わず天に向かって声を張り上げた。
なにかを呼ぶように。己がここにいると示すように。
パトリアエの軍組織編制は、この五〇八年の段階でかなり歪んだものとなっている。国土の北端のトゥルケン国境守備軍として、わずか一万。さらにその北の国は未だ乱れているというから国境を侵してくることはなかろうが、万が一ということがあればラーレの故地トゥルケンはたちまちのうちに蹂躙されてしまうだろう。
南の国境守備軍に関しては、バシュトーの北上と共に消滅し、跡形もないまま再編もされていない。東の地方軍に関しては安定しているため、あちこちの部隊から少しずつ切り取っては中央に投入して首府グロードゥカやユジノヤルスク等主要な都市の治安維持のために利用している。
本来そこにあって国内の乱れや外敵に当たるはずの者が、いないのだ。
国家を守護する片方の翼であるはずのザハールは早くに叛いた。
もう片方の翼であるラーレはそれに応じ、南に西に転戦している。
もう、これ以上投入できる軍はない。そこで、復活の巫女。突如としてあらわれたそれは、兵でも軍でもなく、それでも志は持ち、いつか世のために何事かを為すと心に決めながら、その日のいのちを繋ぐために人から奪わざるを得なくなった者が寄り集まるための標となった。グロードゥカを発してからコスコフに至るまでの間に三千ものそれが集まったが、未だ各地で賊まがいのことをしている連中は西を目指してそれぞれ進み続け、なおリシアの旗の下に集い続けている。
この時点で、それは七千もの数になっていた。もともとの復活の巫女の軍と合わせ、一万である。動員兵力が尽きかけていることと、国内のあちこちで賊や有志の軍がもたらす小規模な乱れが治まらないという二つの問題を、それが解決しつつある。
言ってみれば、全てのパトリアエ人は、黒い墜星ザハールという共通の敵と、復活の巫女リシアという依り代を得ることで、はじめてまとまりを見せつつあるのだ。
この天地の間に、飢え、迷い、それでも己の内なるものと世とを繋がんとする人が、これほどに。彼らの全てがその目にするものに戸惑い、どう振る舞ってよいのか分からず、しかし己こそがと思い定め、その場をいつどこで得るかということを思い描き、過ごしていた。これまで、それは人の数に入らぬ者であった。それは、この世には存在せぬ声であった。復活の巫女の軍は、その地下の混沌を現出させ、そして一つにまとめ上げるものであった。
旅をする人が、たったひとつ、どのようなときも動かぬ
今、パシハーバルもそれを目指す人となった。彼自身がそれを認めようとせずに抗っても、彼は星を目指す人となった。
サヴェフが、己の名を呼んだ。たしかに眼を合わせ、呼んだ。だからといってサヴェフのために死んでやるようなつもりはない。己の力を、才を、世に知らしめるのだ。それではじめて、パシハーバルという人間がこの世にいることを証すことができる。
父の名も、母の名も知らぬ。気付けば、軍にいた。そうであるならば、己の生きるべき場は軍にしかない。ようやく、場を得た。
西を目指して土ぼこりを上げる彼の口の端は、吊り上がるようにして笑んでいた。笑い慣れぬらしい。その灰色の瞳といい、彼に連なる者が誰であるのかを知る者がもしこの場にいるとすれば、なるほどと頷かざるを得ない姿であった。
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