薫陶

「待たせた」

 ラーレは軍装でやってきた。戦場にあっては平服を用いることは決してない。眠るときはさすがに甲冑は脱ぐが、夜襲などの懸念があるときはそれすらも身につけたまま座って眠るらしい。その噂の通りの姿ではあるが、表情や声に気負いはない。何ということもない日常のことを過ごすようにして、地に膝をついて頭を下げるスヴェートの前に姿を見せた。

「お久しぶりです、ラーレ様」

「そうだな――」

「思いもせぬようなこととなり、戸惑っております」

 ラーレが、口の端をわずかに吊り上げた。

「わたしの望んだことと、真逆の方へとことは進んでいるな」

 二人の会話を聴く者はない。復活の巫女の軍の者も、ラーレの軍の者も、誰もこの帷幕の中に足を踏み入れて来ない。

 復活の巫女の軍の到着の口上を述べた指揮官のサハリは取次ぎの間しばらく待ち、やがてスヴェートだけがラーレのもとに呼ばれたことに明らかな不満の色を見せたが、スヴェートはマーリなどにかねてから言われているとおり、意外そうな、そして申し訳なさそうな顔を見せてから一人で足を向けた。


「俺は、あなたの望みというものが、未だによく分かっていないのでしょう。なんとなくしか」

「わたしが何を思うか言い当てられるほど、お前はわたしを知らぬ、か。それもそうだ」

「俺がここにリシアを伴って至ったことを、お詫びしなければならないのでしょうか」

「そんなことはない」

 ラーレは、声にわずかに熱を持たせた。

「ただ、わたしは、己の無力をわらっているだけだ」

「あなたが、無力?」

 それは、ラーレには当てはまらない言葉である。ラーレといえばパトリアエ最高の戦士で、その保有兵力も騎馬の数も最大である。今となっては軍の頂点に位置する戦士ヴォエヴォーダの称号を持つたった一人の人間で、それが無力というようなことがあろうはずはない。

「どれだけ、雨を集めても。どれだけ、風に耳を立てても。どれだけ、星を見上げても。何をどうしようとも、わたしはただ流されるしかないのだ」

「仰ることが、やはり分かりません。あなたは、バシュトー王サンラットを討ち果たした」

「そうだな――」

 ラーレが、立ち上がる。スヴェートの眼が、それを追う。以前はその後姿はもっと気が満ちていて、触れれば斬られそうなものだと感じることがあったが、今このときにおいてはそうではなかった。たとえば、想う人を待ってそれが来ぬと知った娘のような。たとえば、冷たい井戸の水を何度も何度も汲まされたあとの子供のような。そういう姿のように見えた。

「サヴェフからの連絡は、受けている。馬を飛ばして来た。このまま、講和に持ち込むそうだな」

「そのようです。バシュトー王はすでに亡く、彼らの戦況は明らかに悪い。このまま戦いを続けるとは思えません。この状況で、さらに復活の巫女の軍が合流する。それがどういうことなのか、彼らは嫌というほど知っている」

 彼らは、そうしてナシーヤを滅ぼした当事者なのだ。人の心と声が集まって流れとなることがどれほどの力になるのか、知らぬはずはない。だから、必ず講和に乗ってくる。それが、サヴェフの公式な見解である。


 正直、スヴェートにとっては、今の情勢というのは様々なことが起こりすぎていて、何がなんだか分からないというような部分が大きい。リシアがその母アナスターシャと共にずっと軟禁状態にあり、それを雨の軍が監視していたというのならサヴェフはかなり前からこういう情勢を予見していたということであり、そしてラーレが必ずしもサヴェフの思うところに対して心を同じくしているとは限らぬことも見通していることになる。その上でラーレは未だバシュトー討伐の軍の最高指揮者であり、パトリアエの柱石として重んじられている。ラーレ自身も、自分が国にどう見られているのか分かっていながら、自分が思う国の姿のためにそれに強く従っているようにも見える。

 そのことだけでも彼が混乱するのには十分すぎるほどであるのに、さらにこの先どうなるのかということについて考える余地などあるはずもない。

 その心の揺らぎを見通しているかのように、ラーレは背を向けたまま声を発した。

「お前は、何をしにここに来た」

 スヴェートは、一瞬、答えに困った。

「なぜ、リシアが復活の巫女となることを止めなかった」

 そのようなこと、何者でもないスヴェートにはできるはずもない。なにしろ、宰相サヴェフからの直命なのだ。

「それは」

 言いよどんだ。上手い言葉が、見つからぬらしい。しかし、やがてぱっと眼を上げ、ラーレの背に向かって答えた。

「あの場でそれに抗い、戦い、斬り死にすることが無意味だと思ったからです」

「ほう」

 ラーレが、振り返る。その灰色の眼に見下ろされると、スヴェートはどうもやり辛い。相手が軍の最高指揮者であるというのも勿論あるだろうが、それ以前にもっと、人間的な何かにおいてスヴェートは萎縮してしまうのだ。

 苦手とかいう気持ちとは違う。なにか、とても親しみがあり、それでいて偉大なるものを前にするようなやり辛さである。たとえば、街で思うさま振る舞っている子供が、その親の前では縮んでしまうような。

「リシアは、アナスターシャ様の身を案じていました。だから、俺は彼女を王城に連れ出した。はじめは、アナスターシャ様の身を引き出すため、この命を捨ててもいいと思っていました。しかし、それほど無意味なことはないと思ったのです」

 ラーレの眼が、続きを求めている。なにか、スヴェートという人間がどういう心を持っているのか、それを言葉にして吐き出されることを期待するかのような眼である。

「リシアは、望んでいました。父ザハールが、兄シトと生きて再びまみえることを。俺がするべきなのは、その場いっときの気の昂ぶりのことよりも、ほんとうに彼女が望むことのためにこの身を使うことだと思ったのです」

「それで、サヴェフの言うことに是非もなく首を縦に振ったというわけか」

 なにか、それを良しとしないような言葉尻であるが、それをスヴェートが混ぜ返すことはない。

「彼女は、望んだ。そして受け入れた。自分がどのような場に立ち、どのような思いをしても、必ず父や兄に会うことを。そして、また四人で過ごすことを」

「もし、サヴェフがお前たちに告げたことが方便で、リシアの身がそのために危険にさらされればどうする」

「そのときは」

 スヴェートは、即答した。そこに迷いはない。

「国を相手にしてでも、彼女を守ります」

 ラーレは、声に出して笑った。珍しいことである。史記においても彼女が笑ったという記述はきわめて少ない。ナシーヤからパトリアエ創建の時代を研究する者の中には、史記に記されている中で彼女の笑った回数を数えている者もいるくらいである。

「お前のような者が、乱れを生むのだ」

 咎めるような色の声ではない。むしろ、面白がるようである。

「申し訳ありません」

「よい。その心がなくては、握る剣も鈍る。人は、己のために剣など握れん。己を知る者のためにこそ、剣を握ることができる」

 士と呼ばれる者は皆、同じようなことを言う。スヴェートにしてみれば剣などただの道具で、身を守るか敵を殺すかのどちらかの使い方しかない。そういう世代に産まれたが、これまで数多くの士と交わることで、その言う意味はなんとなく分かるようになっている。

「お前は、これまでに見たことのないようなものを、見るだろう。そのときもまだ、今と同じようなことを言っていられれば、お前もいっぱしの士だ」

「わたしは、自分が士と呼ばれるに相応しいかどうか、よく分かりません」

「それでよい。それは、お前が決めることではない。お前を知る者が決めることだ」

「士であることが正しいことであるのかどうかも、分かりません」

「それも、そうだ。正しいとかそうでないとか、そのようなことはどうでもよい。お前が何を選び、生きるのか。くれぐれも、戦いに渇かぬことだ」


 結局、ラーレがなぜ自分だけを呼び出したのか、スヴェートには分からなかった。きわめて要領を得ぬまま、退出した。

 パトリアエ軍の最高指揮者。戦いの女神。十聖将の一人。あらゆる言葉を用いて修飾される女は、自分を呼び出し、ただ言葉を交わした。まさか、それ自体が目的であるとは思えない。スヴェートにとってはラーレとは未だ雲の上の存在に等しく、そのような者がただ自分の顔を見、言葉を交わしたがっているだけであるはずがないのだ。

 釈然としない足取りで、復活の巫女の軍のもとへと戻る。

どうであった、と声をかけてくる者どもに、首を傾げて、

「結局、何の用であったのか分からぬままだった」

 と答えるしかない。そうしながら、先ほど受けた言葉を反芻している。

 まるで、自分に薫陶を授けようとしているようだ、と思った。

 なぜそうするのかは、まるで分からない。

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