第九章 海西の光

黒い龍

「やはり、アナスターシャは生きているように思う。しかし、どこにいるのかは分からない」

 声を低く、誰にも聞こえぬほどに低くして、ペトロはザハールとシトに告げた。

「つまり、生きているのか死んだのかは、分からぬままだということだな」

 ザハールの声は、怒りを押し殺した色になっている。

「前にも言ったが、処刑の仕方が、やはり気にかかる。罪人とはいえ、精霊の巫女だ。それに袋を被せ、顔を見えぬようにして殺すようなことを、するか。サヴェフならば、もっと派手に喧伝することを好む。その死をただの死ではなく、もっと別のことに使おうとするはずだ」

 だが、アナスターシャの死は、処刑のときこそ全土を衝撃とともに駆け回ったが、そのあとは火が消え、半ば忘れられかけているような扱いになっている。

「サヴェフは、かつて言った。どのようないのちにも、使い道があると。そうであるならば、彼がアナスターシャを殺したのなら、ただその死を無駄に使ったことになる」

「母様は。母様は、生きている。私は、そう信じることにします」

「シト。信じることなら、誰にでもできるのだ。生きているなら、取り戻すまでだ」

 ザハールは怒りに身を染めてもザハールである。顔貌は老け、髪の色は褪せても、かつての頃とその行動理念は変わらぬものらしい。

「ジェリーゾをもってしても、所在が分からない。これは、ほんとうにいる。どうも、イリヤが網を張っていて、入っている間諜を闇に消し去っているらしい」

 ジェリーゾは、わずか二年ほどで優秀な間諜になっていた。混血だから人夫などに化けるのも容易いし、武器もよく使えて身体も強い。それでいて気負いもなく物怖じせぬ性格であるから、彼を間諜にしたペトロの目は流石と言っていい。

「ジェリーゾは、張られた網を何度も潜り、アナスターシャの所在に迫っている。しかし、もう一息というところで、必ず雨の軍の妨害に合い、詰めきれないらしい」

 その過程で、ジェリーゾは、有用な情報をバシュトーにもたらしていた。

 十聖将がラーレとサヴェフ──影にはイリヤも棲んではいるが──しかおらぬようになった今、ラーレ軍を核として対バシュトー向けに大幅な軍編成の変更があったこと。その詳細な構成、将の名、人物像。部隊長の名まで書きつけて送ってきたこともある。それは後方支援の兵糧の供給や輸送のことにまで及んでいて、実に細かいものであった。それにより、バシュトー側はパトリアエの内部のことを手に取るように知り、予見できるようになった。

「軍の後方でも、動きがあった。兵糧のことをしていたパシハーバルという若い男が、その流通を束ねる部隊のうちの一つの長となった。なかなかに目端はきく。兵というより、官吏向けの男かもしれんな」

「ペトロ」

 ザハールの目が、龍の色を浮かべている。

「誰が兵糧を運ぼうが、誰が将になろうが、どうでもよい。俺は、我が妻と娘の生死について確かめたい。そして、取り戻す。そのための策をのみ、授けてくれ」

 あぶない、とペトロは思った。ザハールは、自分の目的に塗りつぶされかけている。そうなると、人は考えるのをやめる。考えず、ただ剣を振るい、目指す場所に向けて手を伸ばして血を浴びるだけの者は、あぶない。

 ましてや、ザハールの後ろには直属の漆黒の騎馬隊と、何万からなるバシュトー軍がいる。サンラットと並んで将帥たる彼がそのように危なげでは、勝てる戦いも呆気ないほど単純な罠にかけられて負ける。

 しかしそれは色には出さず、眉を困らせて笑った。

「済まん。だ」


 ペトロの言う本題とは、今後の作戦行動のことである。今、バシュトー軍はパトリアエ南方の領土であるマリヴァシュカという地域の一部を切り取り、そこで開墾をしている。そうして二年になろうとするが、南方の領土から女子供によってもたらされる家畜の肉や乳をこなれさせた加工食品もあるから、戦いのための糧食としては十分なものが蓄えられた。

 ウラガーンのときからそうであったが、ペトロは数万の兵が食うというのがどれほど大変なのか知りすぎるほど知っている。だから、糧食のことは最優先に考えなければならない。

 十分な量が蓄えられた、ということは、なんらかの作戦行動を起こすことを示す。

 その方針について、彼は述べる。

 ちょうどサンラットもやって来て、座についた。サンラットは口数は多い方ではない。ただザハールらに挨拶をし、どすりと尻を下ろした。

「いいか、皆。この前から、少しずつ進めてきたが、それがいよいよ動き出す」

 ジェリーゾをはじめとする間諜部隊。それをパトリアエに入れたのは、情報収集とアナスターシャの生死の確認、そしてもう一つの理由がある。

「バシュトーが開墾をしているのは、ラヴィシュカを奪うつもりだからだ」

 という流言を植え付けることをしていた。単に街や軍の内部に潜入し、噂を流すだけでなく、パトリアエがバシュトーに送り込んでいる間諜にもわざとその情報を知らせてやり、潜入自体に気付かなかったかのように生還させてやってもいる。

 おそらく、パトリアエ首脳部では、いよいよ動き出す、として身構えていることだろう。

「その裏をかく」

 ペトロの、顔半分を隠す前髪の奥の目が、大軍師と呼ばれたそれに変わる。

「これより西」

 には、ソーリ海がある。ナシーヤ、バシュトー地方にとって貴重な塩のほとんどは、ここからもたらされる。

「それを渡り、さらに西」

 ペトロが指した絹布に描かれた図のその地域はコスコフという名で、まだナシーヤ王朝が建てられる前の時代などには国──と言っても、豪族の集まり程度のものである──があったこともあったが、南北にナシーヤ、バシュトー、トゥルケンというような国家が誕生してからはそちらにばかり人が集まり、寂れた。このノーミル暦五〇〇年代初頭の頃には、ソーリ海西岸地域に、王家に命じられて製塩をする集落が散在する程度である。

「裏をかくのはいい。しかし、このように南北に細長いだけの何もない僻地に立ち、どうしようというのか」

 サンラットが、もっともな疑問を挟んだ。

「奪う」

 ペトロは、口の端を吊り上げた。

「奪って、どうする」

「──塩か」

 ザハールが、低く唸る。

「そうだ。ここで作られた塩を、我らのものにする。無論、製塩所は東にも多くある。しかし、コスコフの塩を奪われれば、パトリアエにとって痛手であることは間違いない」

 さらに、とこの天才的な軍師は言う。

「ソーリ海の反対側である西側の海岸まで、そして北側。ここは、森林資源が豊富だ」

 ソーリ海、森林資源、と来れば、ザハールとサンラットの二人にもペトロが何を考えているのかが分かる。

「船だな」

 兵を運ぶ船。それを作り、広大なソーリ海を渡る。そのまま東岸に注ぐアーニマ河に至り、遡上すれば、そのままグロードゥカに直行できるのだ。

 後代になればこのパトリアエの地においても船を用いた戦いはあるが、この時代においては前例がない。まさに、ペトロが前例になろうとしているのだ。

「そして、俺が目指すべきところに、持ち込む」

「それは、何だ」

 サンラットが、身を乗り出す。

「講和だ」

 講和。戦いではなく、講和。そう、ペトロは言った。

「このまま戦いを続ければ、どちらも再び起き上がれぬようになるまで血を流す。それは、避けるべきなんだ。西側を奪い、塩のことで痛手を与え、さらに船でもってすぐにグロードゥカに攻め込むことができる構えを見せる。そうしてから、サヴェフに講和を申し入れる」

「講和と言うからには、条件があろう」

「言う通りだ、サンラット。まず、我らの切り取った領土の保有を認めること。そして、アナスターシャとその娘リシアの解放。これを条件にし、俺たちバシュトーは独立するのだ」

 パトリアエの属国としてではなく、ひとつの国家として。王はサンラット。軍は、ザハールが強力なバシュトー騎馬兵をも率いればいい。内政や外交のことは、ペトロが行う。やってやれないことはない。

「そして、創ろう」

 ふと、悲しげな光。まるで、緑の匂いがする頃の星のような。

「人が、人としてあることのできる国を。奪いあうのではなく、与えあうことのできる国を」


 沈黙。若いシトも、ずっと黙ったままである。このような壮大な計画などこれまで聞いたこともないし、それがほんとうにできると確信するようなことを言う人間を見るのも初めてである。

 ──これが、あの時代を知る者か。

 と彼は感嘆を禁じ得ないが、その当事者たる父がまず沈黙を破った。

「違うな、ペトロ」

 ペトロも、サンラットも、思わず眼を上げた。その視線の先には、龍そのものになって怒りを燃やしている黒い墜星があった。

「それでは、何にもならぬ」

「しかし、ザハール。戦いというものは──」

「戦いは、戦い。俺は、あの国を、許すことはできぬ。全ての人から全てを奪うような国を、許すことはできぬ。だから、俺たちウラガーンは龍となって全てを壊し、あたらしきものを求めた。違うか」

 ペトロは、絶句している。彼は、見誤っていた。ザハールという男のことを。

 ザハールはペトロが思うよりもずっと、のだ。正しきのために正しきを求め、剣を振るう。愛するべきものを愛し、裁くべきものを裁く。それが、ザハールだった。迷いはしても、それを断ち切ったとき、そこにたった一つ残ったものがこの世の真実となる。そういう男なのだ。

 ザハールというひとりの男は、紛れもなく龍だった。彼の腰にある涙の剣は、彼自身が涙を流す代わりに刃となり、すべての人を苛むものから人を救済するために振るわれるのかもしれない。

 講和。

 戦いとは、できればせぬ方がよいもの。

 パトリアエからバシュトーを切り離し、独立する。

 今、ペトロが並べ置いた一連の理屈は、ザハールにとっては、

「屁のようなもの」

 だった。それよりも彼が求めるのは、

「人が奪われてはならぬものを、奪わぬ国」

 それ一つなのだ。

「それを求めたからこそ、俺はこの身を血に染めることができた。あの戦いで死んだ全ての者は、志のもとにその物語を星に託すことができた。今俺がそれを許せば、誰が彼らの歌を歌うのだ。誰が彼らを見上げ、語るのだ。ゆえに、俺は許さぬ。決して、許さぬ。パトリアエの根も幹も葉も、その石垣のひとつの石までも、全て許さぬ。人から奪ってはならぬものを奪う国を、俺は断じて許さぬ」

 あまりに、凄絶。

 およそ人のものとは思えぬ熱。

 史記は言う。時代というものの歪みは、時としてこのような類の者を産むと。それは時代が落ち着いていれば農夫であったり家畜の世話をしていたり商いをしていたり官吏であったりするが、このような時代においては、必ず彼らは武器を手にするのだと。

 ザハールは、まさにそうだった。彼は乱れの中で産まれ、長じ、乱れを打ち破るためにその青春を捧げ、その中で愛すべき人を得た。彼の全てが、乱れによって構築されていた。そういう彼が求めるのは、己の、そして己が知る人の生の意味。


「もう誰も、奪わせはせん」

 ザハールは涙の剣を手に、立ち上がった。促されて、シトも続く。

「我が妻が生きて戻る。それは、俺にとっての光だ。しかし、あの国を許し置き、俺のみが光のもとで安閑と暮らすことなど、できはしない。仮に講和が成ったとしても、今捨て置けば、必ずいつか我々から奪いに来る。あの国は、人から奪うことでしか生きられぬのだから」

 だから、とこの悲しき戦士は言う。

「俺は、もう一度奪う。あの国から、悪しき業を。そして、俺を、人から奪うということをする最後の人にする」

 制止を聞かず、立ち去ってしまった。放っておけば、一人ででもパトリアエに攻め込みそうな勢いである。サンラットが、追いかけに立った。

「サンラット。ザハールを、説けるか」

「説く。しかし、お前の言うことを呑むかどうかは、分からん。せめて、お前の言う作戦には従ってくれればよいが。自分の軍だけ動かして戦いを仕掛ければ、ラーレやサヴェフといった連中がここぞとばかりにあいつの首を刎ね飛ばしに来るだろう」

 たのむ、とペトロはもう一度懇願した。

「ペトロ。済まない」

 サンラットは彼らが談義していた粗末な小屋の扉を開き、ぽつりと言った。

「あいつなら、人の光になることができると思ったのだ。だから、俺はあいつと共に戦うことを望み、引き入れたのだ」

 開け放たれた扉から吹き込む冬が、騒がしい。

 ザハールが、自軍に進発準備を命じているのだろう。

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