数え続ける男
──まだか。
待っている。ずっと、長く。
──まだ、至らぬか。
いくら墜ちる星の歌を数えても、それは、いつも一つであった。人は生き、そして死ぬ。それはいつも個であり、決して他の存在とは重ならなかった。
ひとつ、ひとつ、ひとつ。
あの地下の暗い牢で聞いた、星の歌。それは、自らが歩んでゆく音であり、その後ろに積み重なるであろう屍の、そのさいごにもたらす断末魔。
それは、それを知る人が、星を見上げて歌う歌。
今、この国の全てが、求めている。
安寧。平穏。利益。そのための、戦い。
人は産まれ、生きる。生きる間に、戦う、戦い、奪う。そして奪い、得る。
そこで得たものを、与えなければならない。誰に、何を。それは人が個である以上、それぞれに違う。
個を衆とし、一定の律でもって運動させるものが、国。それは仕組みであり、大精霊など人が拠るべきものであり、自ら掲げる理想であり、そのもとで笑む我が知り人である。
それを創るということは、並ならぬこと。はじめ、流されるようにしてそれを求めた。なにも、龍は無からいきなり産まれて声を上げるわけではない。人の声に応じて雨をもたらす機会を窺うようにして、この国を見下ろす天に潜んでいるのだ。
未だに、王とは何なのか分からない。なぜ自分が、とも思う。
若き日に囚われた牢の中から、結局一歩も進んではいない。そういう自嘲の中で、ただ時間は過ぎてゆく。
たとえば、宰相ロッシ。もうずいぶん昔に、死んだ。まだ若き日には殺してその肉を食らってやりたいほど憎んだこともあったが、今となってはその顔を思い出すのにもひとときを要する。
丞相ニコもまた。王家の軍の決戦のときに刃を交え、その勝利によってウラガーンがこの地を席巻することが確定した。
丞相ニコのことは、今でもなぜか目の前にいるように思い出すことができる。
あれは、傑物だった。あとにも先にも稀なほどに深く国を思い、政をなすことができる者であった。彼がナシーヤという崩壊する以外にない国家にさえこだわらなければ、今頃国家救済の英雄として王にでもなっていることであろう。
しかし、王になったのは、自分。
それを求める者が、いたからだ。
あのニコとの戦い以来槍を取って戦場に立つこともなくなったし、自分が国政についてあれこれと口を出すこともない。全てサヴェフと彼が受け継いだ旧国家の仕組みが、それをしている。
では、自分は何なのだと思う。
自分は、飾りなのだろうか。
いや、人には、拠り所が必要なのだ。かつてのウラガーンが森に拠ったように。その森を出て自分を救出し、精霊の巫女を旗頭にしたように。
今自分は、創世の英雄として、人の上に、そして自分が追い越した全ての星の上に立っている。それを、人が求めているのだ。
もともと、自分の中には何もない。あるのは、ただの闇。
時間とともに光を眩しいと感じることは少なくなっているが、それを目にして我が目を細める癖は治らない。
自ら求めて作ったその闇の中を、また星が流れ去ろうとしている。
それを、数え続けるのだろう。
ひとつ、ひとつ、ひとつ。
それは、足音。
近付いてきて、重い扉を開く音に変わった。
「王よ」
と声をかけてきたのは、宰相サヴェフ。
「──また、痩せたか」
細めた視界にある盟友の姿は、かつての頃に比べるとひどいものだった。しょっちゅう顔を合わせるが、その度にはっとするほどであった。
髪の色は雨の日のアーニマ河のような色になり、顔の皺も増えている。伸びた顎髭では隠すことのできぬ頬の落ち窪みは深い影をその顔に落とし、いっそう眠ったような眼光の鋭さを際立たせている。
「眠っていないのだな」
「眠ってなど、おれますまい」
なぜか、サヴェフは王よ、と呼んで慇懃な言葉遣いで接したり、ヴィールヒ、と呼び捨てにしてかつての頃のように対等の言葉で接したりするのを使い分ける。どういう線引きにおいてそれをするのかは、ヴィールヒには分からない。
とにかく、彼の目に映るその土色の肌の男は、今は宰相としてやって来ているようである。
「いよいよ、近いようです。間諜の動きが、活発になっております」
「そうか」
ふと、イリヤのことを思い出した。二十年近く前のあの頃に見たのを最後に、ヴィールヒの前には姿を現していない。サヴェフがそれを再び使っているのは知っているが、自分に今のところイリヤに会って言葉を交わす必要がないように、イリヤにとっても王になり下がった自分に用事はないのだろうと思っている。
「このままバシュトーが動きはじめれば、いよいよ」
「ようやく、至るのか」
それを聞いたサヴェフの目が、より眠ったような色になった。
「早く、解き放たれたい。そうお考えなのですね」
「解き放つ。何から、解き放たれるのだろう」
決まっている。あの暗い地下の牢からである。まだ、あの頃の牢の中で、鎖に繋がれている自分がいるのだ。だが、サヴェフが言うのには、もっと別の意味があるようにも思えた。
「生ある限り、人は必ず何かに縛られているもの。そこから解き放たれるとは、死を迎えるよりほかありますまい」
「手厳しいな、相変わらず」
跪いて王の前で発言をしていたはずのサヴェフがにわかに立ち上がり、灰色の外套を翻す音を立てた。
「私は、この生において、人が求めるべきものを示す。人は、縛られておらねば生きられぬのだ。人がほんとうに縛られるべきものが当たり前に存在する世というものが来るのがいつなのかは分からぬ。しかし、いつかそういう世が来て、人はその上で生きればよい。そうしてはじめて、生きられるのだ」
顔色も変わり、長年の疲労が拭っても拭いきれぬほどに濃く滲んでいる。しかし、昔とひとつも変わらぬ盟友が、そこにいた。
「ヴィールヒ。それは、明日かもしれぬ。十年後かもしれぬ。あるいは、もっと何百年も先のことかもしれぬ。だが、必ず、人は人を導いてゆけるようになる。腐敗と崩壊、そして再生。破壊、創造。幾度それを繰り返したとしても、そこに人の営みがある限り、必ずそれは続いてゆくのだ」
かつて、この男がたまに見せるこういう子供のように澄み切ったものが、人の心を奮い立たせた。それが今では神謀の宰相などと言われ、百官から恐れられている。
「お互い、息苦しいものだな」
そう言って昔と同じ皮肉な笑みを浮かべると、ヴィールヒの頬にもまた時間の経過を思わせる線が浮かび上がる。
「ヴィールヒ。あえて言う。私にとって、今までにあったどのような死も、今からこの目の中で起きるあらゆる死も、人が求めるべきものに比べれば墜ちる星がほんのひととき通り過ぎるだけのようなものなのだ」
「そう思い込み、己をすり減らし、お前もまた人を通り過ぎる星のひとつになろうと言うのか」
「そうだ。言ったはずだ。私は、正しきことのためなら、進んで悪をも行うと」
「やはり、息苦しいものだ」
サヴェフが灰色の外套を翻し、また跪いた。
「もう、止まらぬ。止められぬのです。もとより、人が止めることなど、できはしないのです。私は、志を同じくした
「そうか」
しかし、俺にはお前は眩しすぎる。そう言おうとしたとき、すでにサヴェフはヴィールヒに背を向けて退室しようとしていた。
その足音を、また数えた。
ひとつ、ひとつ、ひとつ。
遠ざかってゆくようでいて、それは近付いて来ているように思えた。
近付いてきていると言えば、サヴェフの言うバシュトーのことである。
ノーミル暦五〇八年二月。その報せはパトリアエを震撼させた。
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