五〇八年、二月二十四日
ノーミル暦五〇八年、二月。史記にはその日付は十九日と記されている。ソーリの風が和らぎを見せはじめる頃、四万二千のバシュトー軍は北上を開始した。
その報せはパトリアエ全土を緊張状態に陥らせたが、かねてからその動きを偵知していたパトリアエは、すぐさま迎撃軍を発した。
ペトロの策が、当たった。パトリアエ南方地方軍一万七千と、中央軍からラーレの率いる二万が動いた。やや兵数は少ないが、城塞などに拠って戦うわけだから、十分すぎるほどの数である。
それらが、南東のラヴィシュカに入った。しかしバシュトー軍は巧みに東を目指しているという虚報をばら撒きながら北西に進軍し、ソーリ海沿岸を迂回するようにしてほとんど目立った守りのないコスコフ地方に入った。
ザハール軍が、その先鋒を務めている。先鋒というよりは、後先も顧みずに凄まじい勢いで進撃を続け、主要な拠点を次々と陥落させ、製塩所を奪い、サンラット率いる軍はそれに続くのがやっとというような具合であった。
いちおう、ペトロの策には従ったものらしい。だが、ソーリ海西側で造船を行い、それを背景にして講和に持ち込むというようなペトロの優しげな最終方針には従わず、船でアーニマ河を遡上し、一息にグロードゥカを陥落させるのだと言って聞かない。
パトリアエ側は今か今かと待ち構えていたバシュトー軍の姿がいつまでも見えず、二月の二十四日になってはじめて、バシュトー軍が北西に進軍し、コスコフ地方に入ってそれを思うままに蹂躙していることを知った。
慌ててソーリ海沿岸地方を目指し、拠っていた城塞を出て再び進軍を開始する。その報せを聞き、ペトロは次の策を実行した。
四万二千の全軍のうち、サンラット率いる軽騎兵にわずかな歩兵部隊のみを付けた一万を切り離し、それを引き続き北上させた。これは、木を伐って船を作る拠点を得るために行動する。
その間、ザハール率いる漆黒の騎馬隊を中心とした残りの軍で、南から押し寄せてくるパトリアエ軍を食い止めるのだ。さらに秘めた策があるのだが、それを描くのは時間の経過に委ねることとする。
ソーリ海の南端にひしめき合うパトリアエ軍は、その数を活かしきれていない。陸地はたいへんに細く、広く展開できるような原野がないのだ。地方軍が何度か仕掛けを見せたが、その度に突出してくる漆黒の騎馬隊に瞬時にして打ち破られている。
少数対少数になれば、漆黒の騎馬隊に勝るものはないのだ。練度、速力、突破力、そして個々の技量、馬の質、どれをとっても文字通り史上最強の騎馬隊である。それを、十分に活かした。
もし漆黒の騎馬隊に対抗することができるものがあるとすればラーレの白銀の騎馬隊くらいであろうが、それは後方に展開したままバシュトー軍の視界に入りもせぬ。
「父上。馬が、だいぶこちらの意思を汲んでくれるようになりました」
戦場で火を囲むときが、父子の会話の場であった。
「恐れは、ないか」
ザハールは、静かな声を発した。怒りに身を染めていても、こういう調子は変わらぬものらしい。
「ありません。私は、どこまでも父上をお支えするのみです」
「頼もしいな」
焼けた肉を、一切れ手渡した。それをシトは大事そうに受け取り、口に運び、よく咀嚼した。
「シト」
父の声の色が沈んでいることに気付き、慌てて肉を飲み込んで居住まいを正した。
「俺について来たことを、悔やんではおらぬか」
父としての、正直な言葉である。シトは勢いよくかぶりを振り、それを否定した。
「まさか。そのようなこと、あるはずがありません。私は父上と共にパトリアエを倒し、そのうえで母上とリシアを救うのです」
「以前、俺が言ったことを、覚えているか」
「――剣のことでしょうか」
剣とは、できるだけ振るう機会がない方がよい。お前は、壊すため、奪うために剣を振るってはならない。したがって、この涙の剣を、お前が受け継ぐこともない。二年前、バシュトーに至ったとき、ザハールはそうシトに言い聞かせた。そのことを言っている。
「そうだ。あのときそう言っておきながら、結局、今お前には奪うための剣を振るわせているな」
「構いません。どのような形でも。私は確かにここにあり、手にした剣で父上を助けるよう、精一杯戦うだけなのですから。正直なところ、私にはその先にある志だとか、正しいことだとかいうようなことは、まだよく分かりません。ただ、父上は――」
とまで言い、言葉を少し切った。そして火を見つめ、同じ色を瞳に宿して笑み、続ける。
「――憧れなのです。父上のようになりたい。父上のようでありたい。そう願うことしか、今はしていません」
「シト」
ザハールが、優しげな線を浮かべた。
「お前からも、奪わせはせぬ。最後にしよう。これで、最後なのだ。戦い、戦って、我々が最後であると、世に示すのだ」
「はい。たとえ、その途中で斃れても、悔いはありません。私の墓に名が刻まれなくとも、構いません。ただ、父上の志を目指し、戦います」
「いつか」
ザハールは顔をシトから背けた。こみ上げてくるものがあるのだろう。
「いつか、お前にも見えるはずだ。お前がほんとうに求めなければならぬものが。それは、俺の志などではない。お前の見る世の中で、お前が守らねばならぬもの。それをこそ、求めよ」
「心に、刻んでおきます」
「よい子だ」
「もう、そう言われるような歳ではありません」
笑うと、どこかアナスターシャの面影がある。いつまでも子供だと思っていたが、シトも十七である。
いつまで、剣を振るえるのか。四十を過ぎても、なお技は冴えている。だが、五年後、十年後、今と同じようにして戦うことができるのだろうか。
やはり、最後なのだ。自分で言ったとおり。
年老いて、身体を動かすこともままならず、頭の冴えもないような人間になってしまえば、志と剣でもって何かを守ることなどできぬようになる。
それまでに、終えなければ。
いや、それでは遅すぎる。
シトは十七。リシアは十五。若い二人に、自らの意義ある生を選び取らせてやらねばならない。
彼らだけではない。この狭い天地の狭間にある、彼らと同じ、光のために。
旧き業を断ち、悪しきものを斬る。血と泥と鉄でもって、それを為す。
どうやら、自分の生はそのことに費やすことになりそうだと思い、ザハールは苦い笑みを浮かべた。
それでも構わない。彼は、光を知っているのだから。シトとリシアという二人の子、そしてアナスターシャ。自らを瞳に写し、自らもまた彼らの姿を瞳に映す。そういう者を、知っているのだから。
「ラーレは、出て来るだろうか。ペトロは、何も言って来ぬが」
呟くように言った。
「恐ろしい将です。父上が討たれてしまうのではないかと思ってしまうほどに。万が一にも、父上が敗れることなど、ありはしないでしょうが」
「分からん。戦いというのは、全くもって分からぬものだ。だが、勝つ。そう信じるしかない。ラーレを倒せば、あとは烏合の衆。パトリアエ軍を崩すのも、わけはないと思っている」
「父上が言うと、ほんとうに容易いことだと思えてきます」
実際、ザハールにはそれをするだけの力がある。だから、ラーレも容易に正面から激突して来ぬのだ。
戦わなければならない。しかし、戦えば、どちらかが負ける。どちらが勝つかは、分からない。そして、どちらも死ねぬ身。そういう葛藤の中に、二人はいる。
「さあ、今夜は夜襲はなさそうだ。しかし、明日もまたパトリアエ軍は寄せてくるかもしれん。備え、眠るぞ。塩のことも、どうにかなった。船を作る拠点を得に行ったというサンラットも、うまくやっていることだろう」
当たれば、その分パトリアエ軍が削られている。このまま行けば、戦線を維持できぬようになるのは明白である。
明けて、二月二十五日。サンラット率いる軽騎兵に授けた、ペトロの秘めたる策のことを、描く。
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