運命のはじまり

 ノーミル暦五〇七年三月。サムサラバード北の会戦以来、両軍は大きなぶつかり合いはしていない。あの戦い以来、バシュトーは開墾地に閉じこもったような形になり、そこに地方軍などをやって突けばたちどころに応戦するが、そうでないならせっせと畑のことをしているようである。

 応戦と言ったが、その戦いぶりは尋常なものではなかった。たとえば数千の規模の地方軍などをやって開墾地を襲わせたときなどは、陽が昇ってそれが高くなる前に殲滅させられるような具合で、ザハールとサンラット率いる軍の精強さと大軍師ペトロの軍略がいかに凄まじいものであるかということを史記は端的に物語っている。

 ゆえに、パトリアエ側もうかつには手を出せぬような格好になり、時間だけが過ぎていった。


 この時期、パシハーバルは正式に兵になった。そのはじめての戦いは、新任のある部隊長のところに一時的に組み込まれたときにあった。

「お前の所属は、まだ正式には決まっていない。しかし、今回の軍編成ではラーレ様の軍の規模を広げることになり、お前はそこにゆくのだ。喜べ」

 リュシャが、そのことを伝えにきた。

「リュシャ様。私は、中央軍にはなれぬのですか」

 パシハーバルは、不服であった。ラーレと言えば知らぬ者はない英雄であるが、中央軍として兵になりたかったのだ。

「あくまで、一時的なものだ。今、戦いは睨み合いになっている。その間に、こちらも体勢を整える必要がある。新兵をあちこちにやって実際の軍のことを学ばせ、才があると認められた者はまた別のところに引き上げられるやもしれん」

 パシハーバルは、それ以上不服を申し立てることはない。リュシャがなぜかあまりにも嬉しそうだったから、これ以上何かを言うのが申し訳ないような気がしたのだ。


 別れというわけではない。いま、一時的にラーレ軍にゆくだけだ。そうリュシャが言うものだから、パシハーバルもことさらに礼を述べたりはせず、近所に出かけるくらいの気易さで同じグロードゥカの中のラーレ軍の軍営に足を向けた。

 まずそこで、新たな上官を訪ね歩いた。ラーレ軍の兵というのはその多くが北のトゥルケン出身であるだけに寡黙であるというのは聞いていたが、それだけでなくパシハーバルのような年若の者が声をかけても、答えようとしない者もいた。

 号令がかかり、広場に人が駆け足で流れてゆくので、それに続いた。どうやら、新しく部隊長になった者が、自分の兵を集めているらしい。

 あそこに、あたらしい上官がいる。そう確信したパシハーバルは、駆け足で人の流れに続こうとした。

「おっと」

 急ぐあまり、一人の男とぶつかった。その男は小柄なパシハーバルが見上げると小山のようであり、こめかみから頬にかけて傷があるのが印象的であった。

「小僧。何してる」

 そう言う男も、若い。まだ二十にはなっていないだろうと見た。

「はい。あたらしく部隊長になられた、スヴェート様という方を、探しております」

 男の顔にある傷が、少し訝しむような線を浮かべた。

「お前、もしかして、パシハーバルって奴か」

「はい。とすると、あなたが──」

 パシハーバルは、長年の待ち人にようやく出会ったような気がした。目の前にいるこの男はなるほど新任の部隊長と言うだけあり若いが、その体躯は恵まれていて、顔の傷も何とも勇ましい。そして、背に負った剣。これをほんとうに振るうことができるのかと思うくらいにそれは大きいもので、実戦で用いられたことがあることを示す傷があるのがパシハーバルの位置からでも見えた。

 この男が、スヴェートに違いない。そのあたらしい上官の名のみを聞いていたから、パシハーバルはそう思ったのだ。しかし、その期待は裏切られた。

「いや、俺はスヴェートじゃねえ。俺は、リャビクってんだ。よろしくな」

 そうやって笑って覗く白い歯は、紛れもなく同志に向けられるものであった。


 リャビクに伴われ、パシハーバルはスヴェートの前に立った。周囲は新しく編成された部隊の者にそれぞれの長が声を張り上げて訓示を与えており、賑やかである。

 しかし、パシハーバルは、スヴェートの前でただ立ち尽くしていた。

「よく来たな。剣をよくすると聞いている」

 スヴェートの物言いは、その辺のごろつきとそう変わらぬようなものであった。しかし、その声の色にはなにか不思議なものがあるのを感じた。

 それよりも、人数である。何かの間違いかもしれぬと思い、パシハーバルはそのことを問うた。

「質問しても、よろしいでしょうか」

「堅苦しいな、パシハーバル」

 スヴェートが苦笑しながら頷く。

「ほかの方々は──」

 スヴェートの周囲にいるのは、パシハーバルを合わせて十人。

 部隊と聞いて、パシハーバルはてっきり百、二百の集団であるとばかり思っていた。しかし、このスヴェート隊は、パトリアエの軍制における最小単位である十人のみであるのだ。

「ほか、というのは?」

「いえ、私はてっきり」

 スヴェートが笑い出した。パシハーバルが何を期待してやって来たか、察したのだ。

「申し訳ないが、これが俺の隊だ。なに、これまで戦いを指揮したことなんかない。俺には、お似合いなのさ」

 腰に佩いている二本の剣の柄を叩き、スヴェートは眉を下げた。

「なんでも、俺たちには、これから特別な仕事が与えられるらしい」

「特別な?」

「それが、詳しいことがまだ分からぬのだ」

 スヴェートの隣にいる痩せた男が口を開いた。

「ある者を、どこかに護送する。俺たちだけで。そう聞いている」

「細かいことは、こいつに全て任せている。それが一番いいんだ」

 スヴェートが、痩せた男の肩を叩いた。少しよろめきながら、痩せた男は、マーリだ、と名乗った。

 なんだか街の酒屋で雑談をするような調子であるから、ついパシハーバルも表情が和らいでしまっているが、ここは軍なのだ。気を入れ直し、直立する。

「パシハーバラディート・ウトルトガル・ジュラトバードです」

「おいおい」

 スヴェートが、苦笑する。

「お前が死んだあと、お前の墓に刻む名を俺たちに伝えて、どうする」

「はい、ここは軍です。私が死ねば、私の名を知るのはスヴェート様とお二方のみということになります。伝えておかねばならないと思いました」

「よせ」

 スヴェートは、曖昧な力でパシハーバルの肩に手をやり、困ったように笑った。

「お前が死んでも、俺はお前の死体を抱えて駆けたりはしない」

 おおよそ士とは思えぬ言葉である。士と士というのは心の繋がりであり、自らを知る者のために死ぬことがあってもそれを厭わぬものである。

「だから、お前も、俺の死体を見ても、そのまま野に曝して先にゆけ」

「スヴェート様は、私の上官です。万一のことがなきようにこの身を挺してお守りし、万一のことがあれば最優先でその亡骸を守って退きます」

「そして、俺の名を墓に刻むのか」

「はい」

「馬鹿馬鹿しい」

 パシハーバルがこれまでに受けてきた教育にはないことばかりを言う。もしかするとこのスヴェートという男は士でもなく軍人でもなく、ただの街のごろつきなのではないかとすら思えたが、それでもそれが放つ強い気とふしぎな静かさと強さを持つ声が与えてくる鮮やかな印象は変わらなかった。

「俺は、ただのスヴェート。俺に、名などない。俺に名を与えた親は死んだ。俺を育てた者は俺の名を知らない。その者は、俺をスヴェートとのみ呼んだ。だから、俺は、ただのスヴェート」

 混血なのだろうか、とパシハーバルは思った。瞳の色、肌の色、髪の色、どれを取ってもナシーヤ人のそれではない。南の血が混じっているように見える。しかし、南のそれとも違う。

 何者でもなく、どの民族でもない。ただ一個の人間としての名とふしぎな声のみを持つスヴェートは、騒がしい広場を置き去りにするように背を向けた。

 きらびやかな軍装に真新しい武器、整然と並ぶ兵。

 それとは全く異なる装いの者どもは、スヴェートを先頭にしてグロードゥカの街路に消えた。その後ろに慌ててついてゆくパシハーバル。史記は、この光景を運命のはじまりと描いている。

 運命という表現を、史記の原典も筆者もあまり用いない。そのような曖昧で不活性な言葉を用いるには、この史記は乾きすぎている。だが、この場面に限って言えば、そう描かざるを得ないのだろう。

 史記を知らぬ者は、この時点では誰も想像すらできぬだろう。この二人が、このあとどのような存在になってゆくのかを。そして、互いにどのような働きかけをしてゆくのかを。

 だから、これは、運命というものが旋回を始めた場面なのである。

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