第七章 薄暮の光

自らを知らぬ者

 剣。それを握り、いつか自分が戦場に立つとき、それを振るって敵をなぎ倒し、名を残す。戦いというものがありふれているこの時代の子供や若者の中には、そういうことを夢想する者も多い。たとえばザハールの子シトもそうであったし、スヴェートもザンチノの手ほどきを受けているときにただ棒を持って立っているだけのような稽古に不満を漏らしたこともあった。

 そして、彼もまた。

 彼は、早く戦場に出たい一心で、剣を振るい続けた。朝は早く起きて食事を済ませて整列し、兵としての調練に出なければならない。少しでも遅れると、士官に殴られるのだ。飯は、一日二度。死んでしまうのではないかと、いや、実際に死者が出るほどの厳しさの調練を終え、日が暮れてすぐの時間にもう一度飯を食う。それが終わると、ようやく休めるのだが、その時間に彼は剣を振るう稽古をした。

 父が誰であるのか、知らない。母が誰であるのかも、知らない。彼が知るのは軍での生活と、母が与えたとされるパシハーバルという自分の名だけであった。


「パシハーバルか?」

 暗闇の中で声をかけられたため、闇の中に見定めていた姿のない敵は消えた。振り返ると、彼の指導を担当する上官のうちの一人である男らしき影があった。

「リュシャ様」

 と名を口にすると、リュシャの声が影から返ってきた。

「こんな時間に、何をしている」

「はい。剣の稽古を、していました」

「眠る時間だ」

「分かっています」

 夜である上に兵舎の影の中のことだから見えはすまいと思いながらも、パシハーバルは笑顔を作って頷き、また剣を構えた。

「お前。兵というものは、身体を大切にしなけらばならぬということを、忘れたか」

 上げた剣を再び降ろし、パシハーバルは鞘に納めた。

「しかし、調練で死ぬ者もいます。身体を大切にしていても、死ぬのです。それならば、私は、剣の腕を磨いて死にたい」

「それは、違う」

 パシハーバルは、リュシャが好きであった。調練のときは大変に厳しい上官であるが、それ以外の時間にはいつもこうして彼を気にかけて声をかけ、面倒を見ていた。

「お前は、厳しい調練を生き延びている。わざわざ、それ以上に自らを苛めるような真似をする必要はないのだ」

「しかし」

 普通の上官なら、この時点で殴られている。しかし、リュシャはなにかパシハーバルの保護者のようなところがあったから、口答えをしても丁寧に噛み含めるようにして言い聞かせてくれる。

「たとえば、明日バシュトーが攻めてきたらどうなる」

「そうなる前に、この王都には必ず報せが入ります」

「分からぬぞ。ひそかに夜の間に兵を送り込み、少数で王都を乱そうとしてくるやもしれん」

 あり得ることである。数や力で劣る勢力は、そういうことをよくする。現にウラガーンはナシーヤという一個の国家の力に対抗するため、ひそかに人を入れて内から乱すようなことをよくしたという話は幼い頃からよく耳にする話である。

「そうなったとき、他の者はよく眠っていたためにすぐに飛び起きて武器を取り、万全の体勢でバシュトーを迎え撃てる。しかし、お前はどうだろうか。よく眠れていないためにその身体は重く、剣を握る手にも力が入らず、せっかく磨いた腕を振るう前にバシュトー騎馬兵の長剣シャムシールにかかって死んでしまうのではないか」

 少しでも多くの敵を倒すことができるよう、剣の腕を磨いてきた。しかし、無理をしすぎてそれを振るうことができぬのでは、意味がない。そういう考え方もあるということを、はじめて知った。

「そうでなくとも、疲れているのだ。ほんとうの戦いになれば、それこそ眠りたくても眠れぬときもある。俺はかつてユジノヤルスクの仕官だった頃、まる二日寝ずに行軍し、そののちにグロードゥカ兵にあたり、まる一日戦い続けたこともある。戦いになれば、いつ歩き、いつ眠り、いつ剣を抜くのか、選べぬのだ」

 リュシャは言葉の通り、かつてユジノヤルスク軍の中級仕官であり、ウラガーンによるチャーリン陥落を受けて従い、王家の軍との決戦やその後のグロードゥカ制圧戦で戦った古兵であった。当時は編成上、ラーレの軍に組み入れられていた。あの戦いの女神の旗の下で戦っていたのだということで、上官同士の間でも一目置かれている。この頃で、五十手前くらいの歳の頃であろう。今は自ら戦場に出ることはないだろうとパシハーバルは思っているが、こうして新兵や見習兵などの教育や調練を担当している。あの戦いのあと馬匹や糧秣を担当する役に鞍替えをしたのだが、二年前――ちょうどパシハーバルが見習いとして調練を始めた頃である――から調練の方に回ってきたらしい。

「自ら選べるときくらい、眠れ。剣の稽古なら、調練の時間にちゃんと組み込んであるではないか。それ以外の時間にするなら、五日に一度だ。俺が付けてやる。夜の食事を済ませたあと、ここで。いいな」

 はい、とパシハーバルは嬉しそうに声を上げた。


 リュシャは他の上官とは明らかに違う。無論、他の見習い兵にも優しく接するが、なぜかパシハーバルのことを特別気にかけているようであった。

 実際、父子ほども歳は離れているが、別にリュシャが戦いの中でわが子を失ったとかそういう経験があるわけでもない。常に気にかけてくれて剣の稽古まで付けてくれるというならパシハーバルにとってこれ以上のことはないが、困ったこともある。

「お目こぼしのパシハーバル」

 などと、朋輩から陰口されていることである。パシハーバルはリュシャ様に可愛がられている、だから多少調練で鈍い動きをしても特別責められることはないし、ゆくゆくは引き上げられて仕官になり、自分たちは彼に顎で使われ、彼の盾になって殺されるのだ。などというような類のもので、ひどいときはパシハーバルが可愛がられているのは、食事の時間のあと部屋に戻らず――彼はこうして剣の稽古をしているのだが――、リュシャの宿所を訪れて、そこでもいるというような言われようをすることもあった。だが、どれも陰口であるから、聴こえないふりをしてやり過ごし、日々の調練を懸命に行い、人の見ていないところで更に剣の稽古をして力を付けようとするのみであった。


 戦場。それが、憧れであった。ただ無邪気にその場に立って獅子奮迅の活躍をする自分の姿を夢想するだけであった。このとき、彼はまだ十三歳。

 世は、まだ若い彼の目から見ても、乱れている。物心ついたときから、あちこちに小さな戦いがあった。それをザハール、ラーレというような英雄たちが制圧したというような話を聞くのが好きだった。だが、そのザハールは今や叛き、精霊の巫女アナスターシャはその妻であるために人々の前で頭に袋を被せられて処刑された。我が妻がそうなることは分かっているはずなのに、それを押して国に矛を向けたザハールを誰もが非難した。非難して、各地で小さな反乱を起こしていたような者どもはこぞって中央に参じ、国家の敵たるザハールを討つべく軍への参加を志願した。

 当然、パシハーバルも彼を悪だと思った。戦場に出てバシュトー軍を蹴散らし、国家の敵ザハールを討つ。そういう夢想のために眠れぬことも多い。

 彼は、まだ知らない。知るには、若すぎる。だが、時とは、人を進める。それがその者の望む方向であるのか否かは、その渦中にある個には分からない。

 彼は、まだ知らない。己に名を与えた父母が、何者であるのかも。リュシャがなぜ自分にばかり気を配るのかも。そして、戦いとはどういうものなのかも。

 それを知るには、彼は若すぎるのだ。

 そんな彼のはじめての実戦は、ノーミル暦五〇七年。ラーレがあの袋の口と呼ばれる地でザハールを討ち取る寸前までいった戦いの、翌年のことである。

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