当たり前にあるもの

 スヴェートは、口惜しがった。

 あのあとすぐに袋の口から身を避けたから、退却のために殺到する騎馬隊に巻き込まれずに済んだが、結局何もできず、ザハールの息子シトの軍の兵一人を斬っただけであった。

 シトとも、ザハールとも出会っていながら、そのどちらも討ち取れなかった。ザハールに至っては、剣を向けることすらできなかった。

 ザハールは、我が子に向かって、自分に二度殺されたのだと言った。そうであるならば、スヴェートは、ザハールにあの場で殺されていたということになる。敵の首魁を見ながらにしてその姿に畏れを抱き、ただ見上げるしかなかったのだから。もしザハールが噂に名高い涙の剣を自分の肩口に見舞っていれば、自分はなすすべなくそれを受け入れるしかなかっただろうと思うのだ。

 そう思うから、口惜しがった。

 べつに、いたずらに命を捨てようと思うわけではない。しかし、人から奪うことをよしとせず戦ったはずのウラガーンの首魁の一人であるザハールが妻も娘も捨てて国に叛いて己の思うところを貫こうとするならば、それはその辺の賊とそう変わらぬではないかと思ったのだ。

 人とは、はじめから人から何かを奪うように作られている。そうとすら思えるような連環を、断ち切る。これがあの東の辺境で育ったスヴェートが見てきたものやザンチノからの教えを受けて自ら思うところによって形作られた志であった。

 それを立てておきながら、何もせずザハールに見下ろされていたのなら、それは死んだのと同じではないかと思ったのだ。

「それは、違う」

 展開をやめ再び固まった本営で火を見つめながら夜を過ごすときにそのことを漏らすと、傍のマーリがすかさず言った。

「ラーレ様が自ら馬を発し、ザハールを討つ。そういう作戦だったのだ」

「しかし、戦おうと思えば、戦えた」

「だが、戦えなかった。実際、俺たちは三人だったんだ。悔しいが、もっと手柄を立てて一軍を率いることができるくらいに名を上げ、ザハールと次に会うときに打ち倒してやればいいのさ」

 リャビクも、今回のことに関してはもともと無理であったことが分かっているらしく、スヴェートを慰めるようなことを言った。

「あんたがあそこに留まらなければ、俺たちは今ごろ馬の蹄で身体をばらばらにされていたさ。あんたが、俺たちの命を長らえたんだ」

「そうさ。リャビクの、言う通りだ。どうにもならなかったことを今言っても、仕方あるまい」

「そうだな──」

 そうは言っても、多くの仲間が死んだ。

 彼らは全員、ラスノーの街で知り合い、自分に望みをかけた者であった。

 自分と知り合ってさえいなければ。そういう思いが、瞬きをするほどの頻繁さで点いては消える。なぜ、誰もが自分を守ろうとするのか。マーリにしろリャビクにしろ、我が身を盾にしてまで自分を守ろうとする。それが何故なのか問うことが、何かいけないことのような気がして、余計に口を重くするしかなかった。

 胸のうちに溜まりに溜まったものが、深い溜め息となって夜に流れ、火に煽られて消えるのが見える気がした。その視線の先に、夜に咲く火の光を浴びる騎馬の一団。

 それはあちこちに焚かれる火のところに立ち寄っては足を止め、また別の火のところに向かいを繰り返していて、さながら蝶のようだと思った。

「ラーレ様だ。ああして兵の前に姿を見せ、声をかけて回っておられるのだろう」

 戦いが長引くと、兵は倦む。それをさせぬよう、ラーレ自ら野営の場を巡察して回り、兵らに言葉をかけているらしい。

 無論スヴェートらは知らぬことながら、昔のラーレは、しなかったことである。だが、十五年という時間を過ごす間に、ラーレもまた他の将がするようなことをするようになっているものなのであろう。

 その数騎が、向かってきた。なぜか、スヴェートは背筋が固く、むず痒くなるような気がした。

「お前か」

 投げ下ろされた言葉は、味も色もないようなものだった。

「まだ、生きていたのか」

「あの夜、俺たち三人だけが生き残りました。今回も死なず、生き残りました」

 ラーレの目に映る火が、やや濁った。

「まるで、生き残ったことが罪であるように言う」

「多くの仲間が、死にました。今回は、ザハールと対峙しながらも、討ち取るどころか剣を向けることすらできませんでした」

「──そうか、お前であったか」

 ラーレの言葉に、伏せていたスヴェートの眼が上がる。

「ザハールは、単騎離脱した。あのままの速力では、逃げる先が分からなかった。後方の本陣に向かってゆくのか、さらに後方の、彼らの拠点まで退くのか。だが、何者かが彼の足を止めた。そのおかげでザハールは逃げ散る騎馬隊と足を共にせざるを得ないようになり、わたしはそれを追うことができた」

 ザハールこそ討ち漏らしたが、あのあとのラーレの追撃は凄まじく、バシュトー軽騎兵二百と漆黒の騎馬隊五十を討っていた。

「一見、意味のないようなことでも、回り回って意味を為す。そういうことも、ある」

「なぜ、あなたは俺を気にかけるのです」

 スヴェートには、分からない。なぜラーレが自分を軍に引き入れ、気にかけるのか。もしかすると、この巡察も自分の生存を確かめるためにわざわざ設けた時間なのではないかと思えるような何かがその言葉にはあった。決して暖かくもなく、かといって冷たくもなく、赤くも黒くもないような何か。それは、スヴェートにこの先の自分の進むべき方向についての指針を示すには十分なものだった。

「口の利き方は、ましになった」

 スヴェートの問いには答えず、ラーレは笑ったのかどうか分からぬような線を口許に浮かべ、去った。去るとき、彼女はわずかに天を仰ぎ、目を細めた。それがまるで星の光を眩しがるようで、スヴェートは美しいと思った。


 バシュトー連合軍、損害四百。そのうち二百五十は、ラーレ直属の白銀の騎馬隊の追撃によって生まれた死者である。その白銀の騎馬隊の死者は、皆無。これだけを見るとラーレがバシュトー連合軍を圧倒しているようであるが、その前にバシュトー連合軍は地方軍一万を瞬時にして消滅させていることを忘れてはならない。

 サヴェフの言う通り、ザハールとサンラットという、かつてウラガーン騎馬隊の双翼を成した二人が率い、大軍師ペトロをも加えたバシュトー連合軍というのは、並ならぬ相手であるということが改めて示された。

 それが一旦、体勢を整えるためにパトリアエ南部の開拓地まで退いたから、ラーレ軍も袋の口に抑えの軍として地方軍の出動を要請し、その到着とともにグロードゥカに向けて引き上げた。


 このパトリアエ建国の最後の戦いの始まりを、ノーミル暦五〇六年にあったこの戦いをもってするのかどうかについては諸説ある。しかし、かつてウラガーンとして志と人の安寧のため戦った者たちは、このようにして互いを傷付け、互いに奪い合うことを始めた。

 それは十五年前を知る者にすれば正義であり悪であり怒りであり、悲しみであった。知らぬ者が歴戦の英雄たちが再び結集して大きく互いの血を散らし合う様を見て、なにを思うのだろうか。


 スヴェートは、少なくとも、ラーレがただ残忍な気持ちでザハールを討ち取ろうとしたわけではないということは感じていた。

 ラーレがスヴェートを見る目や彼に投げる言葉を、彼は上手く表すことはできない。だが、筆者は思う。たとえばそれは肉親に向けるように自然で何の変哲もなく、それでいてとても透き通っているような類のものであったのだろうと。

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