燃える雨

「撤退だ」

 ザハールは、その軍装と同じ色の声を雨に濡らした。

 ひとつ、風。中央や北部、東部などに比べると雨の少ないこのサムサラバードの土が、予期せぬ雨に打たれて騒ぐ声がそれに乗って流れた。

「ち、父上──」

 スヴェートらは、この場にありながらその存在が打ち消されていた。ザハールがそれを見もせず、若い将をただ見下ろしていて、それが従える牙も蛇を前にした野鼠のようにその運動の全てを停止してしまっている。

 父上。この若い将は、ザハールをそう呼んだ。無論ザハールも人であるならばその妻アナスターシャとの間に子ぐらい設けるであろうが、スヴェートはそれが戦場に出ているとは知らなかった。

「後方のペトロのところまで退がる。急げ」

「はっ」

「ところで」

 ザハールの眼は、後方からの追撃の構えへの備えのために注がれている。

「馬は、どうした」

「申し訳ありません。この男に──」

「兜は」

「それも、この男に──」

 そこではじめて、ザハールの眼がスヴェートを一個の存在として捉えた。それまではまるで戦場に転がる石か何かのようにしか見ていなかった。

「そうか。お前はこの男に、二度殺されたのだな」

「いえ、私はまだ」

「死んだのだ。お前は二度。騎兵が馬を倒されれば、群がる者に槍や剣で滅多刺しにされて死ぬ。士が互いに剣を向け合い、相手の剣を額に受けたなら、それも即ち死。お前はたまたま馬から落ちた先に敵の群れがなく、たまたま兜を身につけていたに過ぎぬ」

 待て、とスヴェートは思った。自分を差し置いて、このようなところで親が子に薫陶を授けるようなことがあるか、と。

「名を名乗れ」

 ザハールの声は、ひどく静かである。それが、スヴェートの背筋に粟を立てた。

「スヴェート」

 それまで雨に細められていた目が、にわかに開いた。

「お前の、父母は」

「──死んだ。かつて、あなたと共に戦ったと育ての親から聞いている」

「まさか」

 ザハールは、自分の眼下で自衛の姿勢を見せる針鼠のようになっている若い男が盟友サンラットの妹ライラとルスランの間に産まれた子スヴェートであることが信じられぬらしい。しかし、そのことに驚きはしても、もう彼は何かを諦めてしまっているらしく、なぜか口の端を歪めて笑い、

「名乗れと言ったのは、お前ではない。シト。お前だ」

 と我が子に向かってことさらに冷たい声を落とした。

「私の名を──?」

 不服そうに、シトは自らの名をスヴェートに告げた。

「違う」

 何が、違うのか。ザハールの馬の速力は凄まじいものらしく、ようやく他の馬が追いついてきている。もう、時間がない。いや、それはスヴェートの目線での話であって、ザハールにしてみれば他の馬が追いついてくるまで時間があると言うこともできよう。

「彼は、我が子シト。シトスリョージ」

 シトは、うなだれた。自らが死んだあと墓に刻まれるべき名の一部を、我が父が敵に告げたのだ。それは、はっきりと死であった。

「ゆくぞ。ラーレは、この機を逃さぬだろう」

「しかし、父上」

「この戦場において、お前は死者だ。死した者に、開く口はない」

 そう言って、ザハールはシトに、ラーレの機の見る上手さと浮き足立った兵への追撃の恐ろしさ、それを押して反転して迎撃することの愚かさを端的に説いた。

 言葉と態度こそ厳しく、冷ややかですらあるが、スヴェートには我が子が一人前の将となるための手ほどきにしか見えなかった。

「スヴェート」

 ザハールに名を呼ばれると、耳の付け根のあたりに小さな火を押し当てられたような感覚が走った。

「追うな。俺に、追い付こうとするな。俺が、死と生を隔てる。俺に追いつけば、お前はすなわち死に追いつくことになる」

 チェルヌイ、と馬の名を呼ぶと、そのまま馬はひとつ嘶き、身体を後方に回した。まるで、ザハールの意思を完全に汲んでいるようだった。

 その馬に乗せられたシトは、振り返ってスヴェートを睨み付けながら遠ざかっていった。


 これが、彼らの邂逅のとき。

 その後ラーレはやはり矢そのもののようになって即座に白銀の騎馬隊を発し、バシュトー軽騎兵をさんざんに蹴散らした。

 彼女は、ペトロらが不審がったように、待っていたのだ。アナスターシャの死の報せを受け、ザハールが激昂するのを。

 そうして正常な判断力を奪い、ベアトリーシャがもたらした工兵隊による投石機を備え、引き込んだ丘の合間で打撃を与える。

 そのためにラーレは、雨の季節をも待っていた。石灰を詰め込んだ甕を射出して馬と兵を焼き、混乱したところに矢を射込む。その策には、雨が不可欠なのだ。

 別に、甕の中身は焼ける水ヴァダシーチでもよいし、油と火矢でもよい。しかしわざわざ雨を待って石灰で攻撃したのには、グロードゥカにおいてサヴェフとの間にあるやり取りがあったためである。

 そのことを、描く。


「ザハールが出てくるまで、待て」

「こちらから南下して即座に彼を討てば、それまでのことです」

 ラーレははじめ、サヴェフがなぜ待てと言うのか分からなかったようである。しかし、やがてアナスターシャの死の報せを聞いたザハールが冷静さを失って押し寄せてくること、その上で策に陥れて打撃を与える方が戦略的にも戦術的にも効果的であることを聞き、納得した。

「工兵を使え。漆黒の騎馬隊に、燃える水を食らわせてやれ」

「それは、お断りします」

「なぜだ」

「宰相サヴェフ」

 ラーレは、サヴェフをウラガーンの同志としてではなく、パトリアエの宰相としてしか見ていない。そういう態度をする。

「敵は、あのザハールなのです」

「だからこそだ。あのザハールとまともにぶつかり合うような愚を犯すことはあるまい」

 ラーレの喉が、くくと音を立てる。笑ったのだ。

「あのザハールだからこそ、です」

「お前の言うことが分からぬ」

「分からぬでしょう。このラーレがいかに国家の柱石たらんとしているか」

「それは、分かっている。お前は私にではなく、己の従う国家にのみ従う。だからこそ、私はお前に今回の任を命じている」

 ラーレの目が、珍しく笑んだ。なにか、サヴェフを嘲っているようでもあった。

「そうであるならば、士サヴェフと士ザハールの喧嘩ではなく、パトリアエの正義のためにそれを阻む者を誅する戦いをすべきです」

「勝たねば、意味があるまい」

「勝てぬなら、戦わぬこと。戦うなら、間違いなく勝てるだけの策を敷いてから。あなたやペトロは、いつもそう言っていました」

「その通りだ」

 そのためのアナスターシャの処刑であり、工兵隊である。だが、ラーレの言うことは、そういう類のものではないらしい。

 彼女の薄い唇に、僅かな色が宿る。

「あちらに与したペトロがどのような策を敷いたとしても、ザハールやサンラットがどれだけ強くとも、パトリアエの正義の前には無意味。そう示さねば、この戦いの意味が、ひいてはあなたが思い描くことを為す意味がないのでは?」

 サヴェフの目は、ラーレに向けられたまま眠ったようになっている。

「たとえばザハールに燃える水を浴びせたり、油まみれにして焼き殺したり。そのようなことをすれば、あなたは彼を謀って殺したことになる。パトリアエ国の宰相サヴェフが、個として。そうでなければ、パトリアエはかつての同志を謀って殺したことになる。そのどちらも、我々は選ぶことはできない」

 だから、とラーレは言う。

「ザハールを引きずり出し、混乱を与えるのは策。しかし、彼を殺すのは剣であるべきです。彼にも剣を握らせ、わたしの喉元に向けさせるべきです。その上でわたしが彼の首を胴から離し、ようやくあなたの敷いた策の上で、我々は国家になることができる」

「含みのある言い方だな」

「わたしには、あなたの思う理想も、王が描く国の姿も分かりません。しかし、ザハールを謀って殺せば、我々はその瞬間から国ではなくなる。そうせぬために、わたしは北からここまで来て、そして南にゆく」

「そうか。任せる。お前の思う通りにせよ」

「ありがたき幸せ」

 ラーレが拝跪する。その姿勢のまま、続けた。

パトリアエここに、わたしがいてよかった」

 顔は上げぬまま、しかし、声に熱が宿りかけているような様子でなお続ける。

「ザハールを殺すことができる者。あなたは、そのつもりでわたしをウラガーンに引き入れた。違いますか」

「王家の軍に、勝つためだ」

「そのためにトゥルケンにまで介入し、滅ぼし、わたしを降した?わたし一人が加わって、王家の軍に勝てるものでしょうか。いいえ、ウラガーンは、わたしが加わったとき、すでに王家の軍になら勝てるだけの力を持っていました。わたしがいなくとも、ユジノヤルスクは解放されていたでしょうし、ウラガーンの背後の力として備わっていた。その後支えがあれば、ウラガーンは王家の軍に勝てたのです」

「過去のことについて論じても、意味はない」

「わたしには分かる。あなたがわたしを引き入れたのは、王家の軍のためなどではない。王家の軍など比べ物にならぬほどに強大な敵に当たらせるため。わたしは、そう思っている。それが、わたしの生。だから、わたしはゆく」

「そう思うのなら、私からお前にこれ以上言うことはない」

 ラーレは、立ち上がった。そのまま、立ち去ろうとする。

「ヴィールヒには、会わぬのか」

「王に今会う理由が、ありません。王からのお召しであれば、それはいつでも従います」

「そうか」

 激しすぎる。戦いをする将としても、士としても。

 ゆえに、ラーレはあえて雨を待ち、石灰でもってバシュトー連合軍に混乱を与えるのみに留め、最後は自らの手でとどめを刺そうとした。

 策ではなく、剣と剣で。

 彼女はそのために燃える水ヴァダシーチなどの激烈な兵器を用いなかったわけであるが、しかし、彼女自身が燃える水のようであった。


 彼女には、雨がよく似合う。史記の中で彼女が登場するときも、雨であることが多い。

 その雨は燃えながら地に注ぎ、それに打たれた者をたちどころに焼かんとするものなのかもしれない。

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