灰色の外套

 ごく単純な仕事であるらしかった。

 ある者を、護る。このグロードゥカを出て、西のソーリ海に面した街までゆき、船に乗る。やや難しいと思われる点があるとすれば、そのまま南下し、バシュトーとの国境を越えてから上陸し、そこで待つ者に引き渡すというところであろうか。

 他の部隊はきらびやかな軍装に身を包み、賑やかな号令と共に展開、集合などの訓練をしている。それを羨ましいと思わないではないが、パシハーバルはまず自分に与えられた仕事を完璧に為遂げることだ、と思うことにしていた。

 それにしても、このスヴェート率いる隊というのは、緩い。部隊長のスヴェートがそうなのだ。副官の一人であるマーリはやや才知に長けたところがあって落ち着いているが、もう一人のリャビクはそのまま街のならず者といった風で、言葉遣いや所作なども粗野だった。

 三人がそのような調子だから、自然、他の者にも緩みが出る。聞けばラーレ軍の歩兵だったという者ばかりで、この前のバシュトーとの戦いにも出ていた者ばかりである。

 それらも一様に、眠くなれば大あくびをし、ときに談笑しながら大口を開けて笑った。おおよそ軍らしくない彼らに与えられた変化と言えば、せいぜい、スヴェートに什長じゅうちょうという肩書きが与えられたことくらいである。


 この時代のナシーヤ人は、口を大きく開くというのをあまりしない。口というのは外と自らの内を繋ぐ道であるから、それを大きく開けば己の内に悪いものを取り込むことになったり、逆に己の善なるものが逃げ出すことになったりすることを恐れるのだ。軍など厳しい統率が求められる場においてそれは特に顕著で、そういう習慣が規律に姿を変えて兵の行動を統率したりもしている。

 だが、士の間では必ずしもそうではない。彼らは、個であることを知る者である。それが二人、三人、十人と集まって衆になるわけだから、自然、ただの兵とは集団の中に設定する自己の座標が違う。

 これより古い時代に生まれた価値観によると、士とはこう考えるものらしい。

「我が前にある者を、我は知る。ゆえに、この場には善きもののみがあり、悪しきものはもとより存在せぬ。口を開いたところで、我が知る善なる人の善なるものを取り込むのみで、何を恐れることがあろうか」

 無論、パシハーバルはそのような教育を受けたことはないし、そういう価値観に実際に触れたこともない。だが、スヴェートらの姿は、彼のまだ若い瞳に、士とはこういうものかというような形で映った。


 五〇七年の春が終わろうとしている。その曖昧な匂いの風と共に、いよいよ進発。ほかの部隊は調練に勤しんでいて、スヴェートらが軍営を抜け出したことを知らない。

 彼らは、文字通り、ひっそりと抜け出したのだ。何でもない様子で、大した装いもせず、グロードゥカの西の端の門のあたりに至る。その街路に停められていた馬に曳かれた車に、麻で織られた灰色の外套にくるまれた者が載せられていた。それは深くフードを被り、息をしていることだけが辛うじて分かるような姿だった。

 同じように小さく丸まった姿が、もう一つ。その肩幅やフードからこぼれ出た髪の美しさから、どちらも女であると見た。

 ただの布でくるまれただけの無個性な存在の中、唯一人間味のある部分として髪に着目したわけであるが、その色はパシハーバルの見たことのないような色であった。

 ナシーヤ人によくある金色をしているかと思えば、少し眼を逸らした隙に外套と同じ色になっていたりする。なぜこの者がそのような色の髪を持つのかパシハーバルは知る由もないが、とにかく、それを美しいと思った。

 この馬車がどこから曳かれてきたのか、誰にも分からない。この二人が誰なのかも、誰も知らない。

「この者らを何故守らねばならぬのかも、分からないのですか」

 パシハーバルが、小声でスヴェートに質問した。

「分からん」

 スヴェートは、即答した。そして、

「ラーレ様からの直々の命令だ。守れ、と。俺たちには、こいつらが誰で、どこから来たのかは関わりがないらしい」

 と付け加えた。

「ただ南まで送り、引き渡す。そう考えれば単純じゃねえか」

 リャビクは革の粗末な胸当てをひとつ叩き、馬車の前に出た。他の者も、前後思い思いの位置に付く。それを見て取って、馭者は馬を歩ませた。

 戦いはいっとき止んでいるとはいえ、今グロードゥカは臨戦態勢の中にある。普段なら西門は固く閉ざされていて通行にいちいち守兵の誰何すいかを受けなければならぬが、スヴェートがそれに金を握らせると、馬車をあらためようともせず通してくれた。

 いちいち訊かぬが、そうしなければならない、公式にはならない何かを、ラーレがしようとしているのだとパシハーバルは思った。


 もしかすると、この馬車の上に静かに座っている二人を連れていること自体、露見するとまずいのではないだろうか。そう思うと、なんだか怖くなってくる。

 誰を、何のために護送し、誰に引き渡すのか。それも、国境を越えた先で。何も分からぬ道が、はじまった。

 街道をゆきながら、道筋だけを何度も確認した。あとは、スヴェートらが取り留めもない雑談をしている。呑気なものだ、とパシハーバルは思った。分からぬことだらけとはいえ、任務ではないか。それを、このように物見遊山に出かけるような調子でどうするのだ、と。そして、やはりこのような世だから、彼らのような街のならず者あがりの連中が軍に混じっているのだとも。

 パシハーバルは新しい世代の人間だから、混血の者や黒髪の者は軍に入ることすらできなかった時代を直接は知らぬ。しかし、それにしても、彼が今従っている馬車を護る列は彼が思う軍とは違いすぎた。

「どうした」

 彼の隣を歩くマーリが、その顔色の変化を見て取って声をかけてきた。いえ、と口の中で答えて憮然とした表情で歩く足取りは重い。まだ、グロードゥカを出て一日も経っていない。

「今夜は夜営になるが、大丈夫か」

 空気の重さに耐えかねたのか、リャビクが馬車の上の二人に声をかける。

「ええ」

 と一人が答える。外套で覆われた身体の線からして、成熟した年齢の女であることが分かる。もう一人はまだ身体の線が細く、ひょっとすると自分と同じくらいの歳なのではないかとスヴェートは思った。

「冬でないだけ、ましだったな」

 スヴェートのぞんざいな物言いが耳に障る。期待を大きく膨らませていただけに、この賊のような一団に自分が組み込まれていることについて悪感情が芽生え始めているが、それをどうにかできるほどパシハーバルは成熟していない。

「夜営には、慣れていますから」

 先ほど口を開いた一人が、再び言葉を発する。なぜか、これから自分が行く場所に希望が満ち溢れているような調子の声である。どうしてこのような色の声が出るのか、それが分からなくてまた苛立った。

「なあ」

 スヴェートの声に、似ている。どこがどうということはないが、なぜかそう感じた。

「あんた、一体誰なんだ」

 それに、答えはなかった。


 陽が落ちて、彼らは街道を逸れ、火を囲んだ。グロードゥカからある程度離れてからでないと宿を取ってはならないと言い付けられているらしい。相当細かいところにまで指示は及んでいるらしいが、肝心なことは何も伝えられていない。什長たるスヴェート自身、大してそれを気にもしていない。だが、この灰色の外套の二人についての人間的興味は湧くらしく、また二人のことについて話を向けた。

「夜営に慣れていると言ったな」

「ええ」

 じっと火を見つめていた女が顔を上げ、答えた。火に照らされて、少し顔が分かった。さすがに十代には見えぬが、落ち着いた様子からは想像できないほど若いように思えた。火に照らされて桃色が濃くなった唇が、動く。

「昔、よくこうして火を囲んだことがあります」

「そいつはいい。まるで軍人じゃないか」

 スヴェートの声は明るい。特に意味はないが、会話を楽しもうとしているのだろう。

「あなた達のような人も、多く見てきました」

「まさか、ほんとうに軍に?」

 女は少し笑い、また火に眼を落とした。慣れているというのはほんとうらしい。小さい方の女はまだ緊張が取れぬのか、言葉を発する女の影に隠れるようにして十人の男を見ている。

「あんたは、戦いを知っているんだな」

 スヴェートの言葉には、悲しみと憐れみがあった。女の身でありながら軍と共に過ごした経験があるということは、おそらく十五年前までの戦いか、そのあとの一連の反乱のいずれかのときのことであろう。辛い経験であったに違いないと思い、同情したのかもしれない。

「あなたたちのような若者が、なお戦いの場に赴く。わたしは、それをこそ悲しみます」

 女はスヴェートの表情の意味が分かったのか、その思考を読んだようなことを言った。

「戦いとは、人から奪うことしかせぬもの。戦いから得るものもあるのでしょうが、きっと、人にとって、戦いではないところから得るものの方が遥かに大きく、意味がある。わたしは、あなた方を見て、つくづくそう思います」

 戦い。奪う。自分が感じていた違和感と同じことを言うものだから、スヴェートは目を丸くした。傍らのパシハーバルにはそのことは分からぬから、静かな女に向かってずけずけとものを言う無遠慮な男に映った。

「そこなんだ。あんた、分かってるじゃないか」

 くすくすと音を立て、女が笑う。そうすると、一座の雰囲気は和らいだ。そうさせる何かが、女にはあった。

「俺は戦いなんて、無い方がいいに決まってると思ってる。だけど、世の中はどうだ。誰もが己の思う通りにしか生きず、志だ何だと叫びながら結局人の大切なものを奪うことしかしないじゃないか。もう、たくさんだ。あのユジノヤルスク候ザハールですら、己の恩賞の不足への不満のためか何か知らぬが叛いた。その妻や子は、そのために死んだ。こんなことが許されていいはずがない」

 スヴェートの言葉の熱に、彼の軍の者は同調している。パシハーバルも、スヴェートという人間が真っ直ぐに物事を捉え、人のあるべき姿を求めているのが分かった。だからといって自らの期待が外れたことによる苛立ちが治まるわけではないが、スヴェートと女のやり取りを聞いていると、なにかこの世のものではない不思議な神話を聞いているような気分になった。

「あなたは、ザハールを悪人だと思いますか」

「善とか悪とかは俺には分からん。正直、大精霊アーニマウラガーンも信じちゃいないからな」

「では、あなたは何を信じるのです」

「己と、己の目に映る人を」

 スヴェートの目には、強い光。それが火を映しているためだと思うまでに、少し時間がかかった。

「わたしの知らぬ間に、わたしたちの知らぬ種類の人間があらわれている。これも、時の流れなのでしょうね」

 一人呟くように女は言い、それきりあまり口を開かなくなった。


 火が消えぬよう薪を足し、思い思いに横になった。こうしておけば、朝になっても燠火おきびで暖かい。

 いちど眠りに暗く閉ざされたパシハーバルであったが、ふと目を開いた。偶然なのか何かを感じたからそうしたのかは、分からない。

 跳ね起きた。スヴェートらしき影も、全く同時に同じようにしていた。

 何者かが、立っている。立って、自分たちを見下ろしている。

 夜よりも黒いその影が、月に濡れた。

 いや、月とは天にあるはずのもの。

 だとすれば、これは剣である。

「何を考えているのかは知らぬが、面倒をかけてくれる」

 誰に語りかけているのか。灰色の外套の女だろうか。

 眠っている。

「何者だ!」

 パシハーバルは恐怖を振り切るようにして腹の底から声を出した。寝起きだからか、あるいは心底恐れているからか、その声は掠れていた。

「やれやれ――」

 月のような剣が、自分の方に向く。そのときになって分かった。この影以外にも、複数の影が周囲にある。

 取り囲まれているのだ。

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