走狗、烹らる

 走った。南を目指して。供もなく、単騎である。そうしてでも、行かなければならなかった。

 胸のうちを駆け回るのは、天にほとばしる雷光。そして雨。いや、これは怒り。理不尽への。それをする人への。そして、知りながらあらかじめ止めることをしなかった、己への。そのために、より馬の足を速めさせて南を目指さねばならなかった。

 止めるべきであったのだ。知ったとき、すぐに。

「そのときは、全力であんたを止める」

 そう警告はしていた。だが、サヴェフにとっては自分のその言葉など、屁でもないだろう。それでもやるのがサヴェフという男である。むしろ、それを踏まえたうえで何かしらの策を施してくるだろう。そのとき、自分は平気でいられるか。十五年もの間、今日という日が来ることを想像してずっと右にも左にも落ち着かぬ思いを抱いてきたのだ。いくら国のためとはいえ、サヴェフのように眠ったような顔をしたまま淡々とことを為すほど、彼の血は冷たくはない。

 そのときというのが、今なのだ。だから、せめて、南へ足を速めなければならない。速めて、辿り着かなければならない。そのために、追撃を振り切らなければならない。命を落としては、元も子もないのだ。

 自分という人間一人をグロードゥカから逃がさぬようにするために、騎馬隊まで繰り出してきた。この国で最強と言われる漆黒の騎馬隊はその首領ザハールと共に既に叛いたから、べつの騎馬隊である。

 あの戦いを、実際に指揮してきたのだ。だから、その運動を予測することくらい、わけはない。さすがに自分に向かって矢を放ってくるとは思わなかったが、それも未然に察知することができた。単騎、追いすがってくる者があったが、それは剣でもって馬から泥の中に叩き落とした。

 だいぶ南に行ったところで、馬が潰れた。速く駆けさせれば馬が潰れるのは分かりきったことであるが、馬の呼吸は読み切れなかった。実際に馬に乗って戦闘を行った経験が乏しいのだ、と今さらながらに思った。

 馬を失ってからは、徒歩かちである。一見、旅人のようにも見えるであろう。

 そういえば、汗をかかぬようになっている。駆けはじめたときは大汗をかいていたものが、全く出ぬようになった。そして、視界が歪んでいる。

 喉の渇き。それすら覚えぬほど、身体が傷んでいるのだ。

 剣で斬られて死ぬか矢で射られて死ぬならまだしも、駆けて死ぬなど馬鹿げていると思った。その思考も、馬鹿げていると思った。死とは、いつでも誰にでも訪れるものであるのだから。どれだけ駆けても、それから逃げることはできぬのだ。むしろ、人というのは生まれたときから死に向かって駆けてゆくのだ。

 今駆けている道が己の為さねばならぬものへと繋がってゆくのか、死へと繋がってゆくのか、だんだん分からなくなってきた。

 なにか、声が聴こえる。それも、複数。自分を取り巻いているのか。その割に、姿は見えない。いや、なにも見えない。そもそも、闇である。闇を感じてから、今が夜なのか昼なのか分からないと思った。雨が降っているのだけは、分かった。


 濡れた闇の中で、なにかが閃いた。そして、雨とは別のものが降りかかってきた。

「――やはり、お前か」

 答えなければならぬ声であった。しかし、自らの声は失われていた。

「生きているか」

 問いかけている。やはり、答えられない。

「沓は破れ、満身傷だらけ。死すれすれの状態で駆け続けるなど」

 闇の中で天地が入れ替わった。抱き起こされたのだと少しして気付いた。そうであるなら、自分は倒れていたということになる。

「飲め」

 革袋を口にあてがわれ、そこから流れてくる水を飲んだ。水など、天からいくらでも降ってくるのに、それでも喉を鳴らして飲んだ。そうすると、身体にわずかに力が戻ってきた。

「生きていたのか」

 こんどは、自分の声である。

「俺が生きていたかどうかなど、今のお前にとってはどうでもいいことだ。自分の生き死にのことだけを気にしていろ」

 この皮肉な物言いは、昔のままであった。うっすらと蘇りつつある視界の中で、黒髪が揺れた。

「久しいな」

 その者の名を口にするのは。

「――イリヤ」

 滲んだ視界の中では、十五年という歳月は無いのと同じものであった。イリヤと呼ばれるのもまた久しぶりであったらしく少し黙って顔を横に向けた。彼が恥ずかしがるときの癖である。

 イリヤも、久しい者の名を呼んだ。

「お互いにな。ペトロ」

 瞳を動かすと、周囲には雨に血を流す死体がいくつも転がっている。そして、湾曲した片刃の剣。

パトリアエは、まだこんなものを飼っているのか」

 十五年前から用いている片刃剣を納め、吐き捨てるように言う。

「彼らは――?」

「雨の軍だ。お前、知らなかったのか」

「知らされることと、知らされぬことがある」

「十聖将の一人に数えられる天下の大軍師様でも、知らぬことがあるのだな」

「あるさ」

 自分は、何も知らぬのだ。知ったところで、何もせぬまま今日を迎えてしまった。

 肩を借りて起き上がり、ふらつきながら歩いた。すぐに、寂れた村に着いた。そこで身体を休め、食い物を口に入れて一晩眠ると、ようやくまともに口がきけるようになった。


「それで、あんなに急いでどこに行く」

「南だ」

「――ザハールか」

 それには答えず、イリヤのことを問うた。

「お前は、今までどこにいた。なぜ、姿を見せなかったんだ」

「俺は、あのとき、確かに死んだのさ」

「ベアトリーシャのことか」

 雨は、止んでいる。鳥の声が違うから、もうだいぶ南に来ているらしい。馬が潰れたくらいまではよかったが、そのあとの記憶が切れ切れにしかない。

「あちこちを渡り歩いていた。死んだはずが、死にきれなかったからな。だから、ただ見ていた。俺たちが作ったものが、どこに向かってゆくのかを」

「そうか」

 なんにせよ、生きていてよかった。そう言って笑う自分の肩に、この旧い盟友は黙って手を置いた。

「ザハールが叛いたそうだな」

「ああ」

「この辺も、旅人が急に減った。やはり、ほんとうだったのだな」

「――ああ」

 イリヤの目が、疑いの色になった。

「含みがあるな」

「正しくは、叛かされた」

「どういうことだ」

「サヴェフの、はかりごとだ」

「また、あいつか」

 十五年経ち一国の宰相となっても、サヴェフは相変わらずであるらしいことを知り、イリヤは複雑な溜め息をついた。

「バシュトーの動きが不穏だとしてザハールを中央から離し、アナスターシャと娘をグロードゥカに人質に取った。世には、叛乱を起こしたザハールの人質だと触れ回った。サヴェフは、謀ってザハールの軍を叛乱軍に仕立て上げた」

「なんのために」

「この国を、完成させるためだ」

 そこまで言って、言葉に詰まった。今こうしてイリヤに流暢に解説できるほど深く、サヴェフの思考を読んでいたのだ。全力でそれを止めるなどと言っておきながら、十五年もの間何もしなかった。いや、何もしなかったのならまだいい。見て見ぬふりをしたのだ。そう人に言われて、弁解できる気がしない。だから、これはペトロにとっては罪であった。

「この国には、まだあちこちで叛乱の芽が渦巻いている。それをたちどころに潰し、パトリアエを完成させる」

「そのために、ザハールを」

「そうだ。黒い墜星率いる漆黒の騎馬隊すら、パトリアエには敵わぬ。そう知ったとき、全国にある候はいっせいに武器を置き、王の名に従うようになる」

「それが、サヴェフの求めるもの」

 ふと、ペトロの声の色が変わった。

狡兎こうと死して走狗らる、という言葉を知っているか」

「こうと?」

「遥か東の国の言葉だ。兎を捕らえるために飼われた犬は、兎を獲り尽くしたあと不要となり、結局食われてしまう。創業についてあまりに功績の大きかった臣は、ことが成ったあと国家にとって不要となり、なおかつそれに応えるだけの褒賞を与えるのが困難になるから始末されるという意味だ」

「その犬というのが、ザハールだというのか」

「そうだ」

 ザハールは、創業のときにあまりにもその功が大きすぎたのは事実である。そもそもウラガーンのはじまりはザハール、サヴェフ、ペトロ、イリヤの四人である。

 イリヤを除けばサヴェフは宰相、ヴィールヒは王、ペトロは国家軍師となっているのに比べ、いかにグロードゥカに匹敵する豊かさと人口を持つ地であるとはいえ、ザハールはただの候と軍の最高位である戦士ヴォエヴォーダの位を与えられたのみであるから、少なすぎると言っていい。ラーレも旧トゥルケンの領土と戦士の位を得て同じ処遇であるが、彼女は戦いのあとの方になって参加してきており、ザハールほどウラガーンの中枢に関わることはなかった。

 そして、ザハールはウラガーンの事業の成功の要となった精霊の巫女アナスターシャの夫である。と言うより、サヴェフが進んでそうなるように仕向けたようなふしがある。

 その生の全てを、創業のために。そして、パトリアエのために。人から何かを奪うことをする最後の人であらんとしたザハールは、今まさに烹られようとしているのだ。

 史記は、はっきりと言う。この叛乱は、サヴェフによって生み出されたものであると。そして、ペトロはそれを阻まんとしてグロードゥカを出奔し、南に向かったのだと。

 筆者は思う。国家最強の軍を率い、およそ人智の及ばぬ武を今なお持つザハールと、天の運動すらもそのたなごころの中で指すようなペトロが共にあればあるいは、と。

 彼らのどちらが己の求めるものを得、その結末がどのようなものになるのかは、史記の頁が進むに委ねることとする。

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