士となった男

 世は、また乱れている。パトリアエ創業の戦いのときはナシーヤ各地には独立性の高い統治機構を持つ候がおり、それらが保有する軍同士のぶつかり合いが絶えなかったが、それらを一つにまとめたらまとめたで中央からの強力な統治に反発する者があらわれる。

 人とは、その棲む世界の姿が変化することを、極端に嫌う。産まれたときすでにその姿であったならそれは真理であり、幼い頃そうなったならそれは定理であり、思春期の頃にそうなったなら現実であろうが、人格や価値観が形成されきってからの変革というのは、自己という存在の土台を揺るがしかねない脅威となる。その脅威を排除せぬことには人は二本の足で立ってはいられず、それゆえ異を唱え、ときに怨嗟を募らせ、それを打ち破って自らの存在してきた世界の姿を確かなものにせんと行動する。

 知らぬ世代にとっての彼らの世界というのが過去の遺物であったとしても、知る世代の多くにとってはあらたな世界というものが存在を許すことができない異物となるのである。

 変革とは、痛みを伴う。人はそれがためにたとえば星を見上げ、その痛みによって奪われた者の名を呼んだりするのだ。


 スヴェートは、自分の生まれ育った村を反乱のために決起した軍に襲われた。今の理屈で言うならば、いかに志のために立ち上がった軍であったとしても、スヴェートにとっては自らの世界を侵さんとする異物であったのだ。

 彼は、世が未だ治まらぬということを、知識ではなく体験として知った。彼が斬った軍の首領は、ただ自らの欲のために人のものを奪うだけの者とは明らかに違ったのだ。そうであるにもかかわらず、それは彼の世界を侵し、奪おうとしてきた。それは、彼にとってはじめての体験であった。

 そうなると、世のことについての噂の聞こえ方も変わっている。今彼が質屋のマーリなどいつも自分の周りにいる取り巻きどもと難しい顔をしているのは、それがためである。

「どうなってゆくんだろう」

 その中の一人が、誰にともなく呟いた。

「またこの前みたいな連中が、世の中にたくさんあらわれるようになるんだろうか」

 このラスノーの街は遥か東の山脈を越えた先にある砂漠を越えたそのまた向こうの絹の国から、遥か西の果ての国までを繋ぐ貿易の道の中継点として栄えた街であるとはいえ、パトリアエ国内においては所詮は東方の僻地である。街道のために噂や情報がもたらされるのは早いとはいえ、それを聴く人の社会的成熟は高くない。だから、彼らは一様に困惑したような顔を並べている。

 その中で、スヴェートだけが、父譲りの色の髪を自分の息でもって吹き上げ、ぱちぱちと瞬きをしたりあくびをしたりしている。

「スヴェート。あんたに、しっかりしてもらわねば」

 さすがに緊張感がないと思ったのか、マーリが小声でそう咎めた。

「ああ、そうか、すまん。だが、俺にはやはり、我がこととは思いづらいようなところがあるらしい」

「この前の賊、いや軍を見ただろう。戦っただろう。これから、もっと世は騒がしくなるぞ」

「まあ、そうだが」

「もう一度言う。この国で最強の軍を持つと言われるユジノヤルスク侯ザハールですら、叛いたのだ。南のバシュトーと結託し、その妻も娘も中央で囚われの身となるのを知りながら、それでも、叛いたのだ。ザハールも、バシュトー王サンラットも、パトリアエ創業の十聖将の生き残りではないか。それですら、叛いたんだ」

「分かってる。ザンチノの言うことがほんとうなら、俺の親父もそこにいて共に戦っていたんだ。そりゃ、他人事だとは思っていないさ」

「あんたという男は──」

 マーリは苦く笑い、それ以上詰め寄るのをやめた。スヴェートのこういうところは彼にとってはある意味では魅力で、むしろこういうところが大好きなのだ。


 この街道筋の街は、その噂で持ちきりなのである。戦いというのは迷惑なもので、戦火を避けるために貿易の荷を運ぶ者にその通る道を変えさせてしまう。それが来ぬことにはこの街には一切の収入がなくなってしまうから、中央などとはまた違った意味での切迫感が覆っている。今、彼ら若者はそれがためにこうして集まって談合をしているわけであるが、その中でスヴェートだけがどこか飄々としていて呑気な様子に見えた。

「どちらにしろ」

 スヴェートは座から立ち上がる。自然、誰もが彼を仰ぎ見る。それらに向かって、声を発する。

「天と地の間にその名を轟かす黒い墜星ですら、そうなのだ。結局、同じなのさ、俺にとっては。あの軍の首領も、ザハールも」

 ここは、酒を食らうために開かれた店である。東の山脈から切り出された石を敷き詰めた床に座した彼の取り巻きも、店内にいた別の者も、誰もが彼を見た。

「マーリ。ザハールは、我が妻と子すらも捨て、叛いたと言ったな」

「言った」

「それがほんとうだとしたら、分かることはただ一つだ」

「だから、それだけ世は──」

「違う」

 マーリの言うのを遮り、スヴェートは小さく息を入れてあいまいな笑みをこぼした。

「世に名高いザハールといえども、あの軍の親玉と同じだということだ。いや、もしかすると、そこら辺の賊と変わらぬのかもしれん。ザンチノは違うと言っていたが、同じなのかもしれん」

 誰もが、呆気に取られたような顔をして彼の言うことを聴いている。

「自分のために生き、求め、武器を手にし、自分が求めるはずの身近なものを捨て、人から奪う。それをするなら、ただの賊であったとしても、あるいはこの国で最高の戦士であったとしても、同じことではないか」

 スヴェートの理屈は、単純である。それゆえ、それを聴く者の耳の奥深くにあるものに対してなにごとかの共鳴を呼んだ。

「そうだ。このままでは、また世はたいへんな騒ぎになる。俺は、親父やお袋から聞いた。昔の騒乱のときはこの辺りでも大小さまざまな戦いがあり、それは惨憺たるものだったと。親父はそれで妹を亡くし、お袋は兄を亡くしたのだと」

 スヴェートの取り巻きの誰かが、賛同した。それが誰であるのかは、史記には記されていない。

「同じようなことが、また起きる。この間の、シャラムスカのようなことが。それを、許すな」

「許すな」

 店の中は、その声で満ちた。スヴェートの取り巻きはもちろん、たまたまこの場に居合わせただけの者まで、同じ声を発した。

「スヴェート」

 マーリが、また彼を仰ぎ見る。その目は、輝いていた。

「ザンチノの言う通りになった。どうやら、俺は中央に向かわねばならないらしい」

 それに向かって苦笑しながらそう言って、屋内であるにもかかわらず剣を抜いた。ナシーヤの時代でもそうだが、この時代の士というのはこのようなとき、やたらと剣を抜いて宣言をしたがる。

「目指せ、中央を。そして南を。討て、乱れをもたらす者を。敵が誰であろうと、自ら進んで奪う者は、もうこの国にはあってはならない。俺は、そう思う。もうたくさんだと、そう思う」

 思えば、父も戦いに奪われて死んだ。ザンチノは育ての親であるからスヴェートにとっては実の親も同じであるが、ザンチノはスヴェートのほんとうの父が、彼が光であると語ったと言った。

 自分は、スヴェートなのだ。そしてそれはおそらく、誰もが。

 誰もが、誰かの光となる。それではじめて、国。

 だから、今の国は、国の形をした別の何か。

 国のためではない。自分のために。自分が、誰かの光であり続けるために。誰かが、また別の誰かの光であり続けるために。

「──それを阻む黒い墜星を、討つ」


 ノーミル暦五〇五年九月十日と、史記にはその日がはっきりと記されている。

 その日、スヴェートは士となり、軍を起こし、まずはその存在を認知させるべく中央を目指して決起した。

 史記によると、中央にあってその報せを聴いたサヴェフはただ目を眠ったようにいちど閉じ、そうか、とだけ呟いたという。

 さらに史記は言う。

 その同じ日、創業の十聖将の一人に数えられる軍師ペトロが単身で出奔し、追撃を振り切って南を目指したと。スヴェートがザンチノに別れを告げる様子をまず描いたのち、そのことについて眼を向けても描かねばなるまい。

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