続く足跡
グロードゥカから、南へ七日。旅人ならばそれくらいの時間をかけて移動するが、このときのペトロは四日で国境を越えた。馬を使っていたこともあるし、飲まず食わず眠らずで駆け続けていたこともあるだろう。
でこぼことした丘陵地帯が視界に入ったとき、あたりから湧き出した賊に行く手を阻まれた。
「おい、親父」
賊は、若い。若い者から見れば、そういう風に見えるのだ。なるほど、子を成すのが早ければ、これくらいの歳の子がいてもおかしくはない。
「商人ではないようだな。どこへ行く」
「どこであっても、お前たちには関わりのないこと」
「それが、あるんだな。あんたの腰に、高そうな剣がぶら下がっている」
ウラガーンとして転戦していた頃から
「馬鹿なことは、よせ。金なら、働いて得ろ。人の持つものを奪うような真似はするな」
ペトロは、はじめて自分の目で見た。自分たちが生を懸け、死を感じながら作り上げたものが未だ成らぬことを。賊にではなく、そういう形のないものに語りかけるような感覚があった。
「俺たちのようなものを雇う者が、どこにある」
若い賊は、吐き捨てるように言った。
「あんた、見たところ良いところの出らしいが、こんな世の中で俺たちみたいな者が食うということの苦労を知らぬものらしいな」
賊どもは、笑った。笑いながら、憎しみの眼を向けた。ことごとく、黒髪。ナシーヤの頃からの価値観により、今なおパトリアエの人のなかでは金髪が最も尊い色の髪とされ、次いで栗色、赤、黒だった。
「なんなら、そこの従者みたいに、俺たちを飼ってくれてもいいんだぜ」
また、笑い声。どうやら黒髪のイリヤをペトロが飼っている従者だと思ったらしい。
「あんたに語ったところで、無駄なことだ」
笑い声がおさまり、代わりに武器を抜く音。イリヤが即座に応じ、湾曲した剣を抜く。
「殺すな、イリヤ」
「しかし」
「殺すな」
イリヤは舌打ちをし、打ち掛かってきた一人の武器をいなし、刃を返して腕を打った。ペトロは、抜きもしない。
「抜けよ。今から俺はあんたを殺し、その立派な剣を奪うんだ。それが嫌なら、抜けよ」
賊が、声を荒げる。それでもペトロは抜かない。
「どうした。抜け」
イリヤに打ち掛かった数人は、すでに痛みを訴えながら乾いた土に転がっている。それを知って焦った男は、剣を握る手に力を込めた。
今にも、振りかぶろうとする。
そのとき。
ペトロの腰から凄まじい光が走り、男は運動を停止した。少しの時間そのまま静止して、自分が死んだわけではないことに気付き、足元に眼をやった。
「くれてやる。お前は、この剣を欲した。自ら欲したもののために傷付き、いのちを捨てるような真似は、もうするな」
自分の足元に突き立った剣とペトロを交互に見、男は手を伸ばした。しかし途中でそれを止め、唾を地に吐きつけた。
「──要らん」
「要らん?」
なぜだ、というような顔をするペトロと苦笑するイリヤを、男は交互に睨み付けた。
「施しは、受けん」
「人のものを奪うより、いくらかはましだろう」
男がペトロを睨む力が強くなる。言い返す言葉がないのだろう。
「与え、与えられる。そういう国であれば、お前も奪わず、施されずに済むのだろうな」
「与え、与えられる──」
イリヤが、剣を納めた。男の目は依然として燃えているが、もう敵意はなくなっているのを見て取ったのだ。
「きっと、今日口に糊するのもままならぬのだろう。理想ばかり掲げていても、はじまらぬ」
「仲間がいる。俺は、なんとしてもそいつらに食わせてやりたいんだ。だから、あんたの剣が欲しかった」
ペトロの説諭とイリヤの剣技によって、男の言葉から険が取り去られ、代わりにこの男の持つ本来の部分があらわれた。
「親もいない。兄弟もいない。皆、同じような連中なんだ。だけど、それでも、生きていかなきゃいけない」
これが、この国の姿。十五年経っても、なお。表向き、パトリアエは成立した。その中心に、自分はあった。しかし、だからこそ、見えぬようになっていたものがあった。
何を目指してきたのか。創業のとき、共に何を誓ったのか。何のために龍となり全てを飲み込み、押し流したのか。
今この世を覆っているものは、その残滓なのか。きれいに取り除けば、求めたものが得られるのか。サヴェフは、それを為そうとしているのか。
止めねば。
どのような目的があろうと、人が人の生を、生きてきたしるしを奪うようなことは、止めねばならない。
今からでも、まだ間に合う。多くの者があの戦いで死に、目の前の男のような多くの民が飢えて死に、あちこちで起きる新体制への反発による争乱のため血は流れつづけている。
それでも、ザハールはまだ生きている。アナスターシャも、彼らの娘のリシアも。自分も、イリヤも。そして、サヴェフも、ヴィールヒも。
「奪い合うのは、もうたくさんだ」
ひとり、呟いた。よく聞こえなかったものらしく、男が訝しい顔を向けてきた。
奪い合うようなことは、もう止めなければならない。しかし、投げ出し、世を捨て、引き篭ることはできない。
そう、ペトロは、己を知っている。己の無知と眼の暗さと蒙昧と思い上がりを知っている。そして他の追随を許さぬほど鋭い知を己が持つことと、今なお燃える志の熱があることを。
出奔したとき、全力でもって自分を捕らえようとしてきた。自分は、パトリアエになくてはならぬ者なのだろうか。
イリヤに救われたときに襲ってきた者は、雨の軍のようだった。かつてのナシーヤの丞相ニコが飼っていた、陽の当たらぬ軍。ふつうの者では考えられる経路、速度で進軍し、あり得ぬ場所に出没する。ときに民に混じって噂を流し、ときに暗殺もする。同じような軍を率いていたイリヤだからこそ、臭いを感じることができたのだろう。
そのような者がまだこの国に存在するということなど、ペトロは知りもしなかった。とすれば、おそらく、サヴェフ直属の軍なのだろう。
それを放ってきたということは、はじめに思った、自分がこの国に無くてはならぬ者だという想像は覆る。
サヴェフは、自分をこの国の完成を阻む者であると断じたということだ。
もう、あとには退けぬ。自分も、目の前で伏し目がちな横顔に影を作っている痩せた若者と、同じ場所に立ったのだ。
存在しなければならぬのに、存在を許されぬもの。
「どこを、目指している」
男に、そう問うた。なにか自分の知らぬ理屈が出てくるかもしれぬと期待したのだ。
「中央を」
つまらぬ、と思った。この国境付近の貧しい村の出身であろう若者が数十集まって中央を目指し、何になるというのか。数ではないにせよ、あまりに無力。あまりに、無意味。どうせなら、己の行動が生を繋ぎ、その生に意味を持たせなければならない。
「目指すのは、そこではない」
年長者であるから、ペトロの言うことには重みがある。男は神妙な顔をして続きを待った。
「南だ。俺は、そこを目指している」
「南?南は、今――」
男の顔が、はっとしたものになった。
「そうだ。南では、我が友ザハールが立つ瀬を奪われ、困窮している。バシュトー王サンラットも、正しきを為そうとして立ち上がっている」
「では、あなたは」
いい加減、この金髪の四十がらみの男がただ者ではないことに気付きはじめている。
「俺のことなど、どうでもよいではないか。俺は、止めねばならぬものがある。そして、得なければならぬものがある。お前も、そうなのだろう?」
若い男は、言い澱んだ。高尚な志があるわけでもなく、ただ生きる術がなくて賊になっただけの自分を恥じたのかもしれない。
「お前も、同じなのだ。かつての俺と。ゆえに、分かる。お前の目指すべきは、中央などではないと」
「南だと、あなたは言うのか」
「南でもないかもしれん。それは、お前がこれからの生で決めることだ」
だから、と言葉を継いだ。
「俺の剣が欲しいなら、それを取れ。取って、どこへなりとも売りにゆけ。そうでなければ、南だ。ただ中央に向かい、ただ死ぬよりは、いくらかましであろう」
「俺は」
男は、剣を取った。そして、それを跪いて捧げた。
「あなたの剣になりたい」
臣従を誓うということである。士とは対等なものであるが、男はそうではなく、ペトロの臣下に加わりたいと申し出た。
「思い違いをするな」
ペトロが苦笑しながらそれを押し止める。
「俺は、誰でもない。これまでに得た全ての地位も称号も、置いてきた。ただ南の友人を助けんとするだけの男なのだ」
「でも」
「共に来るならば、来ればいい。ただ、俺はお前を使役したりはせぬ。ゆえに、お前が俺の剣になることもない」
イリヤが、黒い外套を翻した。そちらに眼をやり、声をかける。
「お前は、来ぬのか」
「言っただろう。俺は、もう疲れた。もう一度、誰かの旗の下で戦うには、歳を取りすぎた。いや、違うな。俺だけが、置き去りになっているのだ。上手く言えんがな」
「せっかく再会したんだ。共に行こう」
「断る。何にも染まりたくない。国があるべき姿を得ることができるのか否かは、どこかで眺めていることにする。あいつの生がたしかにそこにあったということを示すことが、国を求めることだったからな」
ベアトリーシャの名は、互いに出さない。それがイリヤが生き、戦うたったひとつの理由であったことをペトロは知っているし、それを失った今イリヤの時間が止まってしまっていることも理解できる。
理解できてしまうと、留めるわけにはいかなくなった。少しだけ眉を下げて笑い、振り返りもせぬイリヤを見送った。
「お前、名は」
若い男に、また声をかけた。
「ジェリーゾ」
「
ジェリーゾが連れていた者のうち、イリヤに打ち倒された十人ほども起き上がっている。打たれたときは激痛のため身動きができぬようになっていたが、少しの時間でそれは消えているらしい。見れば、誰も骨が折れるような怪我もしていないらしい。
殺すな、と言ったペトロの言葉を完璧に実行することのできたその剣の冴えに、舌を巻いた。同時に、違和感も覚えた。
――十五年もの間世を捨てていたのなら、これほどの技の冴えを、どこで得た?
答えるべきイリヤは、もう豆粒のように小さくなってしまっている。
一人で己に向き合って剣を握るだけでも、技は冴える。特に気にすることでもあるまいと思い直し、再び南を目指す。
その後ろには、彼が大軍師ペトロであると知らぬ若者の足跡が何十と続き、やがて風によって砂に埋もれた。
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