第二章 疾風の光

産声と断末魔

 相変わらずの日々であった。

 少し違うと言えば、ラスノーの街のごろつきどものうち、彼を慕う者の数が増えたことであろう。例の占い師の一件以来、スヴェートの名はこの狭い辺境の商業都市の中で広まり、実際にその人となりを見た者はなるほど、これはただ者ではないと感心し、彼と行動を共にすることを望んだ。中には彼を試すようなことを言い、喧嘩を吹っかけてくるような輩もいたが、それらはことごとく叩きのめされ、やはり彼に心服することとなった。

 ノーミル暦五〇五年、六月。パトリアエ東方の大山脈を背負うこの標高の高い地域にも、申し訳程度に夏がやってきている。そのころ、小さな事件があった。


「ほんとうか」

 スヴェートは、濃い色の瞳を丸くし、そして吊り上げ、そのまま酒屋のむしろ――パトリアエの一般庶民の間にはまだテーブルと椅子はない――の上に転がしていた粗末な剣を手に立ち上がった。

「すぐ、ゆく」

 それだけ言い、駆けだした。酒屋の払いは、彼の取り巻きの一人である肉屋のリャビクという青年が済ませた。

 彼が暮らすシャラムスカという小さな村は、このラスノーよりもさらに高い場所にある。何度も往復し慣れた貿易の道と呼ばれる街道はそのためたいへんな上り坂で、道脇のそこここに荷車を停めて休息している旅人の姿がある。それを流れる星のように追い越し、凄まじい速さで駆けてゆく彼の後ろに何十もの若者が息を切らしながら続くのを、人は驚いた様子で見送った。

 道脇で休息している者の姿が多いのには、もうひとつ理由がある。それこそが、スヴェートをしてシャラムスカへと急ぎ戻らしめるものであった。

 賊が、シャラムスカを襲っているというのである。パトリアエ建国が成ったとはいえ世情はなお不安で、これまでも幾度となくそういうことはあったが、他の村々と同じように組織された自警団により撃退されてきた。しかしながら、今回はやや規模が大きいらしい。

 村の前に、馬が停まっている。十や二十ではない。そしてそれを守るように配置された人間の姿を認めた。

 それがこちらに気付き、なにか声を上げて弓を構えるまでの間に、スヴェートは距離を詰めていた。彼の後に続くはずの若者どもは、彼のあまりの速さに追いつけず、まだ街道を駆け上がっているところであろう。

 ゆえに、彼は一人。

 しかし、それを顧みるような性質の男ではない。

 抜剣。

 落雷でもあったかと思えるほどの凄まじい斬撃が、弓を手にした男の一人を葬った。記録によれば彼が人を斬ったのは、これがはじめてである。ごろつきどもと争いになるときは相手が武器を振り回していてももっぱら素手で応じ、容易に剣を抜かなかった彼が、はじめて人間を相手に剣を振るった。

 彼自身、驚いている。こうも容易く人が斬れるとは思っていなかったのである。彼にとっての剣というのは、ザンチノが構えもせずだらりと握っただけの退屈なものであった。それと向かい合うだけの修練では強くなどなれぬと思っていたが、どういうわけか、今、彼は二人、三人と馬を守りながら村の入り口を固めている者を次々と葬っている。

 しかし、四人目が振り下ろしてきた剣を受けたとき、自らのそれが音を立てて折れた。真っ向から刃筋を立ててしまったのである。それを見取った残りの人数が、わっと寄り集まってくる。

 咆哮。見たこともない生き物が天から墜ちてきたような。あるいは、地にしていたものが天高く昇るような。さながら、産声のような。

 掌で向かってくる一人の顔面を叩き潰し、脇の一人が振りかぶって開いた胴に肩でぶつかり、絶息させる。そのまま転がって後ろから突き出されてくる剣をかわし、落ちていた棒切れに手を伸ばして目の前の一人の脛を砕いた。脚を廻して起き上がってその勢いのまま一人の即頭部を棒で砕き、視線を落とす。

 脛を砕かれて苦悶の表情を浮かべる男と、眼が合った。

 それに向かい、棒を振りかぶる。

 鈍く、それでいて乾いた手応えが二度、三度あり、男の頭は熟れて落ちた実のようになった。手握りしている棒はそれで折れてしまったから、その男の腰から剣を抜き、自らの腰に佩いた。一本だけではまた折れるかもしれぬから、もう一本を右腰に佩いた。

 ひとつ、風。なぜ自分にこのようなことができるのか、分からなかった。この山がちな土地の寒村で家畜を育てて一生を終えるつもりなどさらさらなかったが、ただ気ままに生き、いつか自分にも機会が訪れるはず、と自分に都合のよい期待をしながら日々を無為に過ごしていただけなのである。

 ザンチノは、自分が必ず中央に出る日が来ると言っていた。どういう形で、なぜそうなるのかは、言わなかった。ザンチノがそう言うのならそうなのだろう、くらいにしか思っていなかった。だから、日々ラスノーの街に繰り出しては酒を食らい、女をからかって笑い、ときにごろつきを叩きのめし、気ままに過ごすしかなかった。

 それが、こんな形で。

 目の前の光景は、無惨と言うほかない。落ち着かない様子の馬のほかは小鳥か虫くらいしか生きて動く者はなく、つい今しがたまで生きて弓に手をかけたり自分を指差して何事かを叫んだりしていた男どもは全て血を撒き散らかして死んでいる。

 村の奥の方に視線をやり、我に返った。そこで、追いかけてきていたラスノーのごろつきどもが息を切らせて追いついた。

「スヴェート。あんた、いくらなんでも速すぎる」

「これは、お前一人で?」

 血にまみれて立つスヴェートとそれを取り巻く骸を見、それぞれが声を上げる。

「あんたの村が襲われたってのは、ほんとうだったんだ」

 手に握る思い思いの武器に力をこめ、若者どもは背筋を硬くした。それらに向かって、スヴェートは腰に佩いた剣の両方を抜いた。酒盛りを始めるときや祭りの前のように、彼らに景気を付けてやった方がよいと思ったのだ。

「お前ら。何が面白いのかは知らぬが、俺を追ってここまで来たんだ。とことん、付き合ってもらう。自警団はやられたか、苦戦しているか。俺は、賊の連中を追い払う。だから、お前らも力を貸せ。これだけの顔ぶれだ。中央の黒い墜星の騎馬隊を相手にしたって、勝てるさ」

 みじかい夏の陽に閃くはずの剣は、曇っている。雨が近いのだ。

 構わずそれを振り下ろすと、若者どもは一斉に声を上げた。

「スヴェート。敵の人数が分からない。大勢で入り口から押しかけたのでは、かえって良くないのではないか」

 傍らにきてそう言いだしたのは、質屋の次男のマーリという若者である。なるほど、質屋の息子だけあって打算的であるらしい。

「マーリ。それなら、どうするのがよい」

「何人か、腕の強い連中をここに集め、騒ぎを起こさせる。それでどれくらいの敵が集まってくるかで敵のだいたいの大きさが分かるんじゃないかと思う。騒ぎの間に、あんたを中心とした本命は村の端を伝って回り込み、首領のところへ一気に近付いて――」

 それを討つ。なんだか、軍の戦いのようでスヴェートはおもしろがり、それを採用した。

 騒ぎを起こす者の中心になるのは、肉屋のリャビク。肉屋というだけあって体格がよく力もあり、なにより刃物の扱いに慣れている。それが街を飛び出すときに自宅の店先に転がっていたものを拝借してきた肉を切り分けるための大振りな刃物を握り締め、緊張した顔を頷かせた。それに石運びの者などを付け、が出来上がった。

 繋がれた馬の尻を叩いて声を上げさせ、綱を切って放し、できるだけ大きな声で騒ぎながら正面から突っ込んでゆく彼らに気付き、何人かの敵が集まってきた。それを横目に、スヴェートは駆けだした。

 このときに彼に従っていた五十ほどの彼を慕う若者どもは、彼の言葉の通り、まで彼に付き合うことになる。このにわか仕込みの組織はそのまま軍となり、中央に躍り出してゆくのだ。


 スヴェートは、ザンチノはどうしたのだろうと思った。昔、戦士だったと言うが、賊に応じるには彼はあまりに老いている。戦えるはずがない。もしかしたら、死んだかもしれないと思うと不安な気持ちになったが、自分の後ろには賊を追い払おうと目を光らせている三十ほどの者が続いているから、足を曲げて自宅に向かうわけにはいかなかった。

 村の中央の拓けた場所のそばを潜ると、自警団が集まって戦っているのが見えた。なるほど、これまでの賊の襲撃とはわけが違うらしく、かなり本格的な戦闘になっていた。見慣れぬ武装した集団の動きは統制が取れていて、それは、

 ――軍ではないか。

 と思えるほどであった。

 スヴェートの目は、その軍めいた集団よりも、むしろ後退しながら必死で応戦する自警団の連中に注がれた。

 その中に、ザンチノの姿があった。

 腰に剣こそ佩いているが、その柄に手をかけるでもなく、小さく固まって被害を留めようとしている自警団の中からふらふらと、家畜の群れからはぐれたようにして姿を露わにした。

 ――爺さん、退がれ!

 誰かが、声を発した。聞こえないのか、ザンチノはなおも敵に近付いてゆく。一人がこの血迷った老人を一突きにしようとし、槍を繰り出した。誰もが、村の隅で静かに暮らす温厚なであるスヴェートの保護者は死んだと思った。

 しかし、ザンチノに向かって繰り出されたはずの槍が、どういうわけかそれを繰り出した男の喉を貫いていた。

 何が起きたのか、誰にも分からぬ。

 スヴェートは、思わず足を止めた。

 太く、低い気合。背負う東の大山脈の峰すら揺るがすような。

 それに応じて、天から滴。雨だ。

 いや、血だった。突き立てた槍の刃を一気に薙ぎ払い、首を刎ねたのだ。

 五人ほどが束になってザンチノに向かってゆく。

 それに呼吸を合わせ、少し身を低くし、深く一歩踏み出した。

 次の瞬間、五人は一瞬にして死骸になり、吹き飛んだ。

 まさしく、竜巻タルナーダ

 そのあまりの威力に耐え切れず柄から折れた槍を捨て、腰の剣を抜く。民間人が旅のとき護身用に身に付けるものにしては、それは長く、分厚いもので、明らかにザンチノがかつて戦士であったときに用いていたものであった。

 革鎧も、鉄の剣も、何もあったものではない。その無骨な鉄の塊が振るわれる度、賊は叩き潰されて血を振り撒いた。

 これが、戦い。ザンチノは、昔の話はあまりしない。しかし、かつてのあの戦いの場にありながら、何度も死を潜り抜けてきたということはスヴェートにわずかに語ったことがある。

 スヴェートは、自らを育てた老人の激しすぎる剣に、かつてこの国を焼き尽くした戦いの場を見た。彼の知っている戦いとは、せいぜい殴り合いの喧嘩とか、食うに困った者どもが徒党をなして賊となり襲ってくるようなものであったが、今目の前で繰り広げられているものは、それらとは明らかに別のものであった。

 いのちそのものが、あっけなく散る。晴れた夜に星が墜ちるように、あっけなく。腕から繋がる殺しのために人が作った道具で、あっけなく。それまで生きていた者が、血を、肉を、はらわたを、吐き気をもよおすような臭気を、そして背筋が寒くなるような断末魔を散らかしながら死んでゆく。

 これが、戦い。それを浴びながらなお歩を進め、あらたな死を作り出す者が、戦士。

「――行こう、スヴェート。あの爺さんが何者か知らんが、好都合だ。今の間に、首領のところへ」

 無論、質屋のマーリはザンチノのことなど知らぬ。スヴェートがその戦いぶりに見とれているのだと思い、耳元で囁いて促した。それでスヴェートの思考はぱちりと現世に戻り、気を取り直したように頷いて再び駆け出した。

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