龍の目覚め
「どういうことですか」
ユジノヤルスクにあるアナスターシャは、眼を強くして言った。娘のリシアが不安げな様子で彼女の下衣を掴んでいる。
「申し上げた通りです」
それに相対するグロードゥカからの使者は、表情を一つも変えずにそう言った。
「我が夫が叛いた。それゆえ、わたしとリシアを人質としてグロードゥカに連行する。それを、ただちに受け入れろと言うのですね」
「連行は致しません。ご同道願いたい、と申し上げております」
「どちらも、おなじこと」
彼女とリシアの背後には、ザハールの家に仕える男どもが肩を怒らせて立ち並んでいる。アナスターシャは昔、まだ王家の軍が存在した頃にその配下の雨の軍の襲撃によって怪我をし、今もなお左手が不自由である。世は変わり、誰も彼女をつけ狙ったりせぬようになったとはいえ、過去にそういうことがあったから、自らが不在の折の万一の護衛としてザハールが直々に選りすぐった者どもであるから、相当な腕利きが揃っている。
それらはザハールにもアナスターシャにも心服しきっているから、今ここでこの王都の使者が彼女に無体を働こうものなら、たちどころにそれを斬るだろう。
とりあえず使者はアナスターシャに変わらず貴人として接し、敬意を失わぬ物言いであるから、彼らも剣の柄に手をかけたりはしない。しかし、凄まじい目つきで使者を睨みつけている。
「王ならびに宰相のご配慮です。ザハール候は、かつての戦いで多大な武勲を挙げられた創業の臣。いかにバシュトーと謀り、いちどは叛こうとも、王と宰相はそれを許したいとお考えなのです。それには、まずザハール候に武器を収めていただく必要があります。そのために、あなたのお力添えをいただきたい。それが、宰相からの言伝です」
来訪のときと同じことを使者は言った。それに対して、どういうことです、と返せばまた同じやり取りになるのだろう。
「娘と、話す時をいただけますか」
「──明日の朝、お迎えに上がります」
使者は応じ、宿舎として使う政庁へと引き上げていった。
「おかあさま」
目を怒らせたようにして館へ戻ったアナスターシャに向かって、リシアがぽつりと不安げな声を発した。
「案ずることはありません」
それに対し、根拠のないことを言ってやるしかない。母なのだ。しかし、こういう場合、子供の方が大人の肺腑を突くような言葉を持つことがある。
「お父様は、
子供とはいえ、十二である。ものの分別もつけば、国に叛くというのが大変なことで、なおかつ叛いた者がどのような命運を辿るかということくらいは分かる。なにせ、当のザハールが、リシアが産まれる前からそれをし続けてきたのだから。
館にいるときは、とても優しい父であった。戦いのある度長く館に戻らぬことも多かったが、旅塵にまみれて帰るたび、つとめて優しい父であろうとしていることがリシアには分かった。ときにはっとするほど濃い血の臭いを漂わせていることもあったが、それでもリシアはそれを怖がったりせぬようにしてきた。
なにせ、娘なのだ。娘の自分がそれに顔を
その母譲りの気性を濃く持つリシアの問いに、アナスターシャは答えられないでいる。ただ、
「分かりません。父様にかぎって、滅多なことは」
と言葉を濁すしかなかった。
館に詰めている者どもの中には、これは何かの間違いだ、いずれ疑いは晴れるにせよ、あまりの仕打ち、と卓を叩いて悔しがる者もあったが、アナスターシャはそれらにまず落ち着くように言い聞かせ、それぞれの持ち場に戻るように命じた。
そのまま、夜を。
同じ黒を、ザハールも見上げているのだろうか、と思った。
星も、月もない黒が、泣いていた。その滴が頬をいくつも伝うのを感じるうち、昔よく見た夢のことを思い出した。
雨に打たれ、歌い、舞う。そこで見たものは、未だ起こらぬこと。そういう時期もあった。しかし、今となってはそれはもう自らが若かった頃の遠い記憶の中。
かつての丞相ニコ。自分を欲しいと言って抱いた、さいしょの男。弟のヴィローシュカ。歪んだ生を強いられ、影の中に死んだ。いくつもの光が、火が、闇が、夢の中の雨に瞬いてた。
そして、ザハール。たったひとつ、アナスターシャに向かって墜ちてくる滴の中で、たしかであったもの。夢が醒めてもなお、その手に触れられるもの。自らの歪みさえも愛せるような柔らかな眼差し。それは今、遥か南の地で、何を見ているのだろうか。
バシュトーには、雨は降らぬ。きっと彼の上の空からは滴は降っていないだろう。
自分とは、違うものを見ているのだろうか。
ほんとうに、国に叛いたのだろうか。
そんなことが、あるというのか。
いや、そんなはずはない。今のこの世というのは、彼が自らの血を撒き散らし、肉を削り、いのちを重ねて作り上げたものなのだ。
渇いた者が水を求めるように、彼は正しい国を求めた。誰もが、自らの目の前にある者の瞳の中にある己が笑っていることを喜び、誰からも何も奪わぬ国を。そのために、自ら奪い、壊すことを続けてきた。そのザハールが、今また国を相手に戦いを仕掛けるなど、あり得ることではない。
万一、それをするとして、自分に事前に相談があるはずである。
そうだ。あのとき、彼は確かに誓った。
雨の軍に襲われて前後を見失った自分の乞いに、彼は答えた。いつも、そばにいると。どこにも行かぬと。
物理的な距離は離れたとしても、心で繋がっていると感じることができていた。この世のどこにいたとしても、必ず生きて帰ってくると信じることができた。だから、待つことができた。
そのザハールが、ふらりと南に赴いたまま自分もリシアも置き去りにして叛くというようなことなどあるはずがない。
それで、確信した。何かの間違いだと。
「父様は、わたしたちを置いて、どこかに行ってしまうような人ではありません」
これなら、リシアに確かなこととして語ってやれる、と思った。ザハールがどのような人間であるのかは、自分が一番よく知っている。だから、これは想像でも予測でもなく、絶対の事実なのだ。
それを聞いたリシアは少し安堵したような顔を見せたが、やがて小首を傾げ、べつのことを訊いた。
「じゃあ、王都の人は、どうして父様が叛いたなどと言うのかしら」
「さあ──」
そこが、分からぬ。王と宰相の名目で出された身柄拘束の命は、いったいどこから出たのか。
こうなれば、直接王都に出向き、ヴィールヒとサヴェフに直談判してやった方が話が早いかもしれぬ。もう二十年以上の付き合いの彼らが、ザハールが叛いたというような馬鹿げた話を信じていること自体、妙な話である。
そこで、それこそ墜星のように頭をよぎったものがあった。
もし、ザハールが叛いたため、自分とリシアの身柄を人質として王都に置くという話が、王と宰相から出たものなのだとしたら。
背筋に伝わる冷たいものが、身を震わせる。もし、そうだとしたら。いや、まさか。ソーリの海の波のように繰り返し寄せるその問答への答えを見出せぬまま、夜はますます更けてゆく。
知らぬはずはないのだ。自分も。
サヴェフの眼が常人ではおよそ及ばぬほど遠くを見、その目的のためなら人では為し得ぬようなことまでやってのけることを。
そのために、今まで、何人が死んだ。いや、その死があってはじめてウラガーンはあのとき王家の軍に勝つことができ、
あの戦いの勝利は、彼らの死なくしてはあり得なかった。そして、その死を、サヴェフ以外の誰がもたらすことができたであろう。
「──
と、彼女は精霊信仰の古い言葉を用い、呟いた。いつの間にか眠気に耐えかねて舟を漕いでいたリシアが、それで眠そうに目をこすった。
「お母様、どうしたの」
「いいえ、どうも」
ことさらに清んだ笑みを作ってやり、これから自分が言うことについて不安を持たぬようにさせようとした。
「もう、お眠りなさい──」
頷いて寝室に向かおうとしたリシアの足が、アナスターシャの次の一言で止まった。
「──明日は、王都に行くのですから」
「王都へ?」
「ええ。王と宰相の求めに応じ、王都へ」
「行ったら、どうなるの」
これまで、街路において
「案ずることはありません」
それに対して、アナスターシャは落ち着き払っている。
「王と宰相に会い、母が話します。話して、父様に非がないことを説き、必ずここに無事に戻れるようにします。そして、二人でいつもの通りに、父様の帰りを待つのです」
「お母様が、王と──」
「あら」
アナスターシャの声が、かつてのような不思議な色を帯びた。
「わたしだって、あの戦いを共に過ごし、たくさんの困難をくぐり抜けてきたのよ」
片眉を上げながらそう言う母がなんとなく頼もしく、リシアは微笑んだ。
あの時代を知らずに産まれた自分には、分からぬことがある。それは、常日頃感じていることである。
アナスターシャはヴィールヒとサヴェフに会い、ザハールの叛乱が何かの間違いであることを説くのだろうか。あるいは、もっと別の。
どちらにせよ、時代は再び、それぞれの戦いへ。
──龍、ひとたび眠る。しかし其は眠りにあらず、暫く時を過ごし、再び啼き、風を呼ぶものなり。
ウラガーン史記 第九十一節一頁「覚醒」より抜粋
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