星の歌

 数えるように、それは、近付いてきた。近付くにつれ、それは叫びに変わっていった。

 雨の音に混じり、人の声が。言葉にならない、断末魔が。

 飛沫と混ざり、薄まり、洗われ、流れて。それが、近付いてきた。


「ニコ様を、守れ!」

「支えろ!止めろ!」

 ニコのすぐ目の前の兵が、応じようと、壁を作った。

「止まれ!それ以上近付くと——」

 そのまま、その声が、止まった。


 斬り払われ、その者らが消えた。

 代わりに、現れた。

「お前の、負けだ」

 ラーレの声が、背後で。振り向くことは出来ない。目の前にあるものから、目を逸らすことは、出来ない。

「お前の——」

 からからになった喉を潤そうとするかのように、唇を伝い、雨が口の中に流れた。喉を小さく鳴らし、続ける。

「——お前の、名は」

 やっと、それだけを言った。

 名は、知っていた。昔、グロードゥカの地下牢で、言葉を交わしたことがあるのだ。しかし、ニコの記憶にあるそれと、今実際に目の前にあるものとは、大きく違っていた。


「聴こえるか」

 は、答えた。答えて、芦毛の馬から、降りた。

 鉄板を組み合わせただけの、粗末な軽鎧。兜は用いていない。金色の髪を濡らし、垂らしている。戦場にいるとは思えぬような格好である。

 ふと風が吹き、それを揺らした。揺らしたが、雨を含んだそれは、すぐにもとの場所に戻った。

「聴こえるか、この歌が」

 手には、槍。鎧を纏わぬ部分の衣が、真っ赤になるほど血に染まっている。それなのに、の肌も、髪も、美しいまでに穢れがなかった。強まった雨が、洗っているのか。


「ヴィールヒ殿」

 ラーレが、雨に融けるような声を、小さく発した。それが、名。

 ウラガーンの首領。かつて、グロードゥカの戦士として、先々代の王の頃開かれていた武術大会でことごとく勝っていた男。そのときにあらぬ疑いをロッシにかけられ、二年もの間地下の闇に囚われ、サヴェフが王家の軍との勝ちを引き換えにしてまで取り戻した男。

 ニコが知る、ヴィールヒという名が示すどれとも、目の前にあるものは違った。


 ずっと、影に埋もれていた。サヴェフは、自らウラガーンを率い、その方向性を決め、前面に立ち、この男を隠していた。今ニコの目の前にあるのは、龍の、その心臓。

 鱗を幾ら剥がしたところで。

 牙をいくら折ったところで。

 この男が、龍だったのだ。そして、ニコが鱗だと思っていた者も全て。

 圧倒してくるようでいて、それでいて静かな気。激しく猛るようでいて、眠っているような立ち姿。眼は、ほとんど閉じているのかと思うほど、細められている。雨が入るのを嫌っているのか、もっと別の何かがあるのか。


 ニコは、思った。

 これは、人ではない、と。

 ただ目の前に立っているだけなのに、それが分かった。これほどまでに空っぽで、これほどまでに静かで、これほどまでに激しく、これほどまでに禍々しく、これほどまでに美しいものを、知らない。

 サヴェフは、これを取り戻したかったのだ。


 そして、国は、これを産んでしまった。

 国がただ存在するだけで生じる歪み。それが、この男だった。この男の存在そのものが、国の過ちを証明していた。

 ニコには、はっきりと分かる。

 これは、王なのだ。

 サヴェフが得たもの。国が、作ったもの。それは、龍の牙にかけられ、その呼ぶところである風と雨に押し流されて破壊された跡に建つ国の、王。



 王とは、不思議なものである。

 王が、必ず有能である必要はない。無論、愚かであるのは国にとって害ではあるが、時折、歴史は、不思議な王を呼ぶ。

 その王自身は、往々にして空虚そのものである。だが、その周囲に人が集まり、それぞれの持てる才智と力を撚り集めたりする。そういう場合の王とは空虚であればあるほど良く、自我が強ければ強いほど、周囲の人は自らの才を出し惜しむ。


 ニコがヴィールヒを見て、これは王だ。と思ったのは、そこである。己の眼すらも閉じ、ただ立つだけのそれは、際限なく広がる袋のようだった。そして、何がそうさせるのか、ただそこにいるだけで人が胸を打たれ、心を寄せるようなものを持っている。それを、自らもまた王たらんとするニコは、敏感に感じ取ったのだ。



 二人の王が、ここに向き合っている。ニコは剣、ヴィールヒは槍。

「己の求めるものを持たず、人の求める声に応え、ここに至ったか、ヴィールヒ」

 気に負けぬよう、ニコは言葉を発した。

「そうでもない」

 ヴィールヒは、腑の抜けたような声で答えた。

「奪うために、ここに来た。それだけだ」

 何から、何を。

「——国から、国というものを」

 ニコの頭を横切ったものを見透かしたようにぽつりと言い、口の端を歪ませた。

「お前を、心底、哀れに思う」

 何を、哀れむのか。

「ただ求めるだけではない。叶えるだけの才があったのだ、お前には」

 訝しい顔を、ニコはした。想像していたのとは異なる言葉が出たのだ。

「軍を動かし、まつりごとをし、民を導き、国を作るだけの、才が」

「それを認めるならば、何故、お前は今俺の前にいる」

 押し負けたくはない。ニコは、勝つつもりだ。強い眼で、言った。

「だからこそ、だ」

 ヴィールヒが、槍先をほんの僅かに上げた。それだけで、雨が渦となって襲ってくるようであった。

「お前にその才がなければ、お前は、ただ苦しみ、足掻き、奪われ、生きていられた。しかし、お前は、それを乗り越え、それを制し、打ち勝つだけのものを持っていた。だから、俺たちは現れた。現れて、抗った。お前が持つ、人を導くための器が大きければ大きいほど、俺たちもまた大きくなることが出来た」

 ニコも、剣先を少し上げた。雨がそれを打つ感触が伝わってくる。それを見もせず、ヴィールヒは続ける。

「俺たちを作ったのは、お前だ。お前が陽の光を浴びるほど、俺たちという影は濃く、強くなる」


 ウラガーンを生み、育てたのは、自分。その言葉が、ニコの心の中で暴れた。

「聴こえるか」

 また、ヴィールヒは静かに言った。一度、天を仰ぎ、雨を浴びた。

「この雨の音が。それが、肌を叩く音が。自らの耳の中の、血の脈の音が」

 更にゆっくりと、槍が上がる。ニコも、それに合わせて剣を上げる。


 誰も。誰も、この対峙に立ち入ることは出来ない。

 今、世界には、ニコとヴィールヒの二人だけになった。

 いや、二人だけではない。

 滴が、無数の滴が、彼らに、大地に、打ち付けている。そのひとつひとつが、声を持っている。

 混ざり合って、それは、歌になった。

 昼である。そして、雲が垂れ込めている。それでも、星は墜ちた。

 空にある星は、ただ星。しかし、その一つに眼をやれば、それぞれの輝きと瞬きがあり、それぞれの物語がある。空から墜ちる雨は、ただ雨。しかし、その一粒に眼をやれば、それぞれの運動があり、全て異なる音を立てる。

「――聴け」

 ヴィールヒの眼が、一層細くなった。雨を染み込ませるように、腕を広げた。いや、違う。槍を上げたのだ。

 何人の血を吸わせ、何人の命を奪ったか分からぬ、精霊の怒りと呼ばれた槍。龍と大精霊が戦ったとき、墜ちた雷が形を成したとされるその槍が、上がったのだ。

 ただそれだけの動作で、周囲の兵のうちには、尻餅をつく者もあったという。ニコは、流石に動じず、踏み留まっている。

 身体から、心が剥がれるような。剥がれた心が、遠く、遠く、二度と手の届かぬようなところへ押し流されてゆくような。

 ニコの全身を、打ち付けるもの。その濡れた髪を、弄ぶもの。どれだけ濡れても、なお熱い、血の脈の音。

 指へと滴が伝い、剣の柄との隙間に入った。

 それを、握った。

 

 戦い。命の、奪い合い。それが今、始まる。

 ヴィールヒが、言葉を続けた。口の端を、歪ませながら。


「――聴け。墜ちる星の、その滴の歌を」


 地を、蹴った。 

 泥と血と雨の混じった滴が、散った。

 ニコも、応じた。

 身を低くしながら、剣を脇に構え、全身を一文字にし、腕を蛇のように伸ばし、突いた。

 あったはずのヴィールヒの身体は、そこには無かった。その代わりに、雨が散った。

 腰を戻し、激しく旋回。

 ヴィールヒが立てた槍の柄により、それは止まった。

 鋭い音を立てながら、擦り上げる。

 流石の太刀技である。そのまま斬撃に移ろうとする刹那、ヴィールヒが槍を寝かせ、身を逸らせた。擦り上げていたニコの剣が空を切り、上体が前のめりになる。

 槍を引く。上半身を反らせているから、引くだけで、石突でニコの顎を襲うことが出来る。ニコは咄嗟に剣を下げてそれを弾き、浮ついた足を地に戻した。


「――やるな」

「お前も、なかなかに」

 不思議であった。こうして刃を交える前は、あれほど異様なものとして映ったヴィールヒの姿が、今はただの人間に見えた。それを見て、ニコの血が、静かになってゆく。

 まやかしなのだ。自分の心の中のことなのだ。そう思った。

 ヴィールヒが、なにか人ではないもののように感じるのも、また自分。彼が握ってやってきた死というものを恐れる気持ちが、そうさせるのだと思った。

 だが、向き合ってしまえば、対等。剣が届けば、ヴィールヒとて、死ぬ。

 死の前では、人は対等。それが、ニコの呼吸を一定のものにした。


 間合いが、近すぎる。剣が付けられぬ。しかし、離れれば、槍の間合い。僅か一歩が、生死を分ける。

 互いに、己の間合いに相手を置こうと、身を退いた。ぱっと汗と雨が散り、発した気がぶつかり、また静止。


 どこかで、馬がひとつ、間の抜けた嘶きを上げた。

 泥に濡れたくつが、地を噛んでいる。それが沈み、二人の身体を宙に舞い上げた。

 激しく、鉄の鳴る音。

 ヴィールヒと、互角に渡り合うだけの武。ニコもまた、磨きに磨いてきた。しかし、このときニコが振るっていたのは、そういう性質のものではない。

 魂を、命を燃やし、振るう刃。それを、ぶつけ合っているのだ。


 す、と音のない踏み込み。槍先が、消えた。しかし、腿を狙って小さく繰り出されてくる突きを、凌ぐことが出来た。身体が、魂が、死に抗っているのだ。

 ニコは、なお退がり続ける。ヴィールヒが、それにぴったりと続き、間合いに居付き、素早く打ち込みを続ける。


 槍の構えが、独特である。

 腰で溜めるようには持たず、右手を顔のあたりにまで上げて、槍先を常に下げている。不気味な構えであった。そして、眼はほとんど閉じたまま。どうやってニコとの距離を測り、ニコの挙動を読んでいるのか、まるで分からぬ。


 不意に、叫び声。

 ヴィールヒの身体が、無意識に動く。顔の高さの右手を軸に、凄まじい唸りを上げて槍を旋回させた。

 それにより、声の持ち主は頭蓋を横一文字に断ち割られた。

 ニコが押されていると見た王家の軍の兵の一人が、思わず打ちかかったのだ。ふつう、将同士の一騎討ちに兵が介入することはない。しかし、この兵は、兵としての、いや、士としてのありようを捨ててまで、ニコを救おうとしたのだ。


「慕われているな」

 残心を示しながら、ヴィールヒが暗く笑った。ニコは答えず、無残な姿となった兵に眼をやっている。

「それ、構うな!ニコ様を、討たせるな!我らの希望を守れ!」

 それを皮切りに、わっと兵が打ちかかってきた。


 ひとつ。

 ひとつ。

 ひとつ。


 彼らの足が泥を飛ばすのを、数えた。

 彼らの肌が雨をかき分ける音を。

 その呼吸を。

 その命の燃える音を。


 歯の隙間から鋭い息を吐き、奥歯を鳴らし、ヴィールヒが身体を反転させた。両脚を大きく開き、左手を泥に付ける姿勢で静止したとき、五人の兵が死骸になっていた。

「手出しをするな!」

 ニコが、一喝した。

「これは、お前達の手に負えるような相手ではない。いたずらに、命を捨てるな。お前達が守るべきは、俺の命ではない。己の命を。己を知る人の命を、守れ。思い描け。自らを知る人の瞳の中で、笑う己を」

 ヴィールヒの眉が、少しだけ笑った。

「なにが、おかしい」

「いや——」

 姿勢を戻し、

「——どいつもこいつも、同じようなことを言う、と思ったまでだ」

「そうか」

 ニコが、苦笑を漏らす。そして、眉を吊り上げた。

「しかし、俺とお前たちは、違う」

 剣を、握り直した。

「似てはいる」

 ヴィールヒもまた、槍を。

「違いない。だが、違う」

 意味のない言葉を、互いに。

「どちらでもよいさ」

 ふと、笑った。


 もう、雨すらも消えた。

 互いの武器の唸りで、語った。鉄の、鳴るその刹那、二人は別な何かになり、離れ、また戻った。

 また、ニコの踏み込み。受けには回らぬ。押すのだ。敵を討つ。安寧を。平穏を。何者にも壊されず、奪われぬために。剣を握る己は、盾。この世の全てのいのちの盾となり、それを守るのだ。

 壊させはしない。奪わせもしない。ひと滴の血すら、流させはしない。それを、示す。

 守って。求めて。追って。示して。それが、生きるということ。死を見るのではない。生を見るのだ。その当たり前のことを、今目の前にいる、死そのもののような存在が伝えている。


 ニコの心が染み出して、溶けてゆく。

 また、世界に雨が戻った。そうすると、今度はヴィールヒの姿が消えた。

 雨を浴びる己。遠くでそれを浴び、舞い、歌う女。

 ああ、この夢だ、と思った。この夢を見、追ってきたのだ、と。

 今度こそ。

 恐れはしない。

 手を伸ばし、汚してしまうことを。

 汚れぬよう、雨を共に浴びればよい。

 壊れぬよう、優しく、そしてしっかりと、抱き締めればよい。

 もう、少し。

 もう少し。もう少しで、届く。

 腕を、伸ばす。伸ばして、指の先まで伸ばして。

 歌。

 それを発する背が、振り返った。

 眼が、合った。そこには、己の姿があった。


 笑っていた。



 凄まじい斬撃。ヴィールヒの腕から、血が噴き上がる。

 崩れかけた体勢のまま、ヴィールヒが槍を盾にする。泥が跳ね上がり、それが墜ちるまでの間に、何度も鉄が鳴った。その度に、ヴィールヒの身体に薄い傷が走ってゆく。

 細めた眼。それが、不意に開いた。

 そこに、剣を握るニコがいた。

 刹那よりも短い時間、世界はその運動を止めた。

 ニコの剣が、ヴィールヒという死の奥深くに向かって、剣を振り下ろした。

 大地を割るような踏み込み。

 振り切ったままの姿勢で、ニコは静止している。


 少しの後、二人から離れた場所に、ニコの刃が突き立った。

 腰の部分で斬れた剣を握ったまま、ニコが、ヴィールヒを見ている。

「聴こえたようだな——」

 星の歌が。

 雨はいよいよ強まり、雷が、鳴った。

 その雷が、ニコの胸を貫いた。

 剣を取り落とし、腕を垂れ、ニコが膝をつく。


 槍を引き抜き、泥の中に倒れたニコの身体を雨が洗うのを、ヴィールヒはただ見下ろしている。

 やがて、構えを解き、その眼もまた細くなった。

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