王家の軍は、壊走を始めた。それを追撃するのを、サヴェフが指揮した。背を向けて逃げる敵に矢を射掛け、自ら馬を駆り、自らの剣で斬り付け、殺した。

 殺して、殺して、殺しつくして、全身が血と雨と泥にまみれ、やがて静かになった戦場で停まり、馬上、肩で息をしている。

「どこまでも、嫌われ役というわけか」

 ペトロが、声をかけた。サヴェフは、一点を見つめたまま、答えない。

「あんたは、絵描きだ」

 例え話をするつもりらしい。

「絵描きが一番好きなのは、絵を描く前の、真っ白い絵絹なんだ。ひとつ筆を付ける度、自分の理想から遠のいていって、それに、抗いたくて、また筆を重ねて。そして、それをも楽しむことが出来る。それが、絵描きだ」

 やはり、サヴェフは、答えない。

 ただ、眉間に皺を寄せ、目を閉じるのみであった。

 雨の滴がひとつ、その頬を伝った。



 この一連の激突でサムサラバードに屍を晒した者は、一万を越える。それはウラガーンであり、王家の軍であり、サンスであり、ルスランであり、ニコであった。彼らは、確かに生きていた。そして、死んだ。

 生と死の前では、彼らは個として存在することが出来た。彼らは、等しく追い、求め、示し、戦い、生き、死んだ。

 サムサラバードから撤退した王家の軍の生き残りも、ラハウェリへと帰還しようとするウラガーンも、ラーレの隊として従ってきたトゥルケン人も、サンラットが率いてきたバシュトー人も、皆、死に触れ、生を生きた。

「ザハール!」

 その身を放り出すようにして飛び付くアナスターシャを、ザハールが抱き止めた。全身を走る傷がひどく痛んだが、それでも、ザハールは笑った。腰には、涙の剣。願わくば、この剣が再び泣くことのないよう、と思いながら、ザハールはアナスターシャの身体をそっと降ろし、僅かに膨らみを見せている腹に手をやった。

「雨で濡れて、冷やしてはならん」

 そう言って微笑み、彼女の左側に立った。


 愛する人の肩越しに、アナスターシャは見た。

 雨が歌う声を。それが緩やかになってゆくのを。

 そして残る、無数の屍を。そのうちのどれかは、ニコであろう。

 一度でも愛し、愛された男の血を吸った大地を、愛する人の肩越しに。

 曇天を。

 雲が、蠢いている。そして、流れている。空は、未だ晴れぬ。だが、このまま雲が流れれば、夜にはまた星が光るかもしれない。

 余りにも多くの人が死んだが、夜の星はまだ増えることはない。死した人を知る人が空を見上げ、その者の生きた物語を託すまでは、夜は静かであろう。

 もし、その夜が星で埋め尽くされてしまえば、星は雨となって墜ちるのかもしれない。あるいは、星の光で全ての闇が埋められれば、それは昼なのかもしれない。

 目覚め、人が営みを始め、ものを食い、作り、与え、笑う。その人の姿を照らす光とは、もしかすると、闇を埋め尽くしきった一粒なのかもしれない。

 雨とは、雨を見れば、ただ雨。その滴のひとつに目をやれば、それぞれが墜ち、打ち付けられ、異なる散り方をする。もしかすると、光もまた、そのようなものなのかもしれない。

 もう、彼女は、何にも強いられることはないのかもしれない。彼女は、子を産み、それを育て、ザハールとその子の眼の中で笑う己を見るのだろう。


 道は、まだ至らぬ。今、ようやく、壊すという作業が一つの段階に至ったのだ。ここから、瓦礫を片付け、新たなものを創り上げてゆくという作業が待っている。

 その作業の方が、壊すよりも、遥かに多くの力を必要とする。しかし、どれだけの力を要したとしても、人は、それをする。

 まだ、王都は健在である。王こそおらず、王家の軍もその力を大きく失い、もう立ち直れぬようになったのは間違いないであろうが、まだ国内には親ナシーヤ派の勢力もある。それらが、いつ誰を担ぎ上げ、ウラガーンを阻もうとしてくるか分からぬ。これからは、そういう状況になってくる。

「俺たちは、南に帰る」

 サンラットが、馬を寄せてきて、サヴェフに言った。

「南の国境。お前達が奪った砦や街は、お前達のものとするがいい」

 サヴェフが、そう言った。彼らがこの戦いに参加した目的を、叶えてやったのである。

「お前が来て、どうもおかしな方に事が進んだ。これから、どうなってゆくのだ。俺の妹も、夫を亡くし、一人で子を育てていかなくてはならなくなった。せめて、あれが苦労をせぬような国を、望みたいものだ」

 サンラットは皮肉交じりにヴィールヒに言った。ライラを引き取る、というようなことは言わない。ライラは、ルスランの妻なのだ。

 ヴィールヒは、ニコとの戦いで負った傷を庇う包帯に少し手をやり、口の端を歪ませた。

「それは、お前の国にでも訊け」

 国の意思。そういうものがあるということを、サンラットは知った。知って、その国を形づくる人々を連れ、南へと馬を向けた。

「ザハール。お前に出会えたことは、我が生涯の宝だ。別れは言わぬ。俺たちは、必ず、また会う」

 そう言い残して。


「ヴィールヒ殿」

 ラーレ。

 濡れたままの髪から、滴を垂らしている。

「見事な、お手並でした」

 戦いの後始末や撤収のための陣構えは、慌しい。こうして、将同士が言葉を交わすことが出来るのは、それらが片付いた撤収前日だからである。陽が墜ち、夜が更け、朝になれば、ラハウェリへ向けて進発するのだ。

 ラーレは、戦いの前、星を見上げ、言葉を交わしたときのように、こうしてまたそれをする機会を、その間、ずっと待っていた。

「――何故、

 ザンチノを。弱りきった彼を、ラーレならば一刀で殺せたはずである。しかし、彼女は、それをしなかった。

「さあ。何故でしょう。剣筋が、鈍ったのかもしれません。あるいは、雨で滑ったか」

 無表情に、彼女は答えた。

「食えぬ女だ」

 ラーレがルスランの仇であるザンチノを斬らなかったのは、その必要を感じなかったからではないかと筆者は思う。

 ザンチノは、命こそ永らえた。しかし、あのルスランとの死闘の場において、ある意味で死んでいた。そのようにラーレは思ったのかもしれぬ。ルスランが既に殺しているのであれば、あえて二度殺すことはない、と考えたように思う。

 ルスランと彼女は、常に行動を共にし、子の誕生を見、その名まで与えるほどの仲である。そのルスランは死んだが、それが最後に対峙し、共に認め、命を懸け合ったザンチノをラーレが斬るというのが筋違いであるように思ったのかもしれぬ。


「星の歌は、止みましたか」

 ラーレが、同じ表情で言った。

「止まぬ」

 ヴィールヒは、即答した。その表情に、悲しみがあるように思えた。

「おそらく、この先も、止むことはないのだろう」

「それならば――」

 ラーレは、そこまで言い、言葉を止めた。続きを言っても、仕様がないと思ったのだ。ヴィールヒは何も言わず、少しだけ笑い、ラーレの前を去った。


 何も、終わってはいない。未だ、道の途中なのだ。

 ようやく、彼らは、ここに来て、ということを始められる場に立った。

 ジーンはいない。それは、彼ほど上手く敵の中に潜り、それに成りきって行動する者がいなくなったということである。しかし、彼に従っていた兵は、彼の真似の技を身に付けている。

 ベアトリーシャもいない。それは、彼女のように新たな兵器の設計と運用に入れ込み、知識と技術をもたらす者がいなくなったということである。しかし、彼女を慕っていた工兵隊の者は、これからも様々なものを作り続けてゆくのだろう。

 サンスもいない。それは、書面や証書を偽造する者がおらず、ここ一番というときに自らの恐怖に立ち向かう英断を下す者がいなくなったということである。しかし、その隊の生き残りの者は、血に濡れた賽子さいころの目が意味するところを知っている。

 ルスランもいない。それは、卓越した武でもって山のように動じず、そして心優しく人に接する者がいなくなったということである。しかし、彼に守られて生き延びた全ての人は、彼のことをその子に必ず伝えることであろう。




 ラハウェリに戻ってから、サヴェフは、数えた。

 一人ひとりの、名を。

 その名が挙がる度、人は、声を上げた。

 サヴェフが数えたのは、死した者の名ではない。

 生きて、今このラハゥエリの本営前の広場に傷ついて汚れた身体を直立させている者の名である。


 死した者の物語を星に与えるのには、まだ早すぎる。

 サヴェフは、今、生を繋ぎ、求め、示す人の名を数えた。

 それが、これから、創ってゆくのだ。彼らの求める国を。




 ライラは、ルスランの死を受け、涙した。その報せをもたらしたのは、ラーレであった。

恋人ハビーブ

 戦いが多くあるナシーヤにおいては、疫病の蔓延などを防ぐため、火葬が主流になっている。サムサラバードの地において既に火へと還ったルスランの骨が納められた箱を、胸に抱いた。

「ライラ」

 アナスターシャも、付き添っている。

「あの人は、戦いの人でした。そして、とても、優しい人」

 嗚咽と共に、ライラは言った。この南で生まれた褐色に近い肌を持つ妻は、遥か北の国での僅かな期間しか、ルスランと共に過ごすことはなかった。しかし、その心の内から染み出し、瞳から滴となってこぼれ墜ちる愛は、本当のものであった。

「だから、あの人は、死んだのです」

 悔やむ様子はない。誰を責めるわけでもない。ただ、愛する人の死を悼んでいるのだ。

「我らを守るため、ルスランは、その身を盾とし、敵の前に立ち、敵の将と渡り合い、そして、あなたのもとへと帰り、あなたとスヴェートを守るために戦い、死んだ」

 ラーレが、無表情に言った。しかし、その瞳からは、ライラと同じ滴が墜ちている。

「優しい人から、死んでゆく」

 アナスターシャが、ぽつりと言った。

「そのような世は、もう、こりごりです」

 ザハールのことを、思っている。その理屈で言えば、ザハールもまた、死に近いということになる。嫌でも、ライラの姿に自分が重なったことであろう。しかし、アナスターシャは、さらにその先のことを考えている。

「世とは、人が作るもの。人は、世によって、その役割を与えられるのです」

 ライラが、真っ赤になった眼を上げた。それに向かって力なく笑いかけ、続けた。

「ルスランは、世が与えた役割と、自らが選ぶところに従い、生きた。あなたは、そう思うことが出来ますか」

「ええ。もちろん。あの人は、そういう人だった」

「それを、誇りに思いますか」

「ええ」

 アナスターシャは、また笑った。どういうわけか、ひどく悲しそうな笑顔であった。その意味を、ライラは考えた。考えたが、分からなかった。

「わたしは、このところ、また見るのです」

「何をです」

 ラーレが訝しい顔を向けた。

「夢を。血と、雨の夢を。人が何かを求めて腕を伸ばし、血で濡れた我が腕を雨で洗おうとし、降り注ぐ血にまた染められる夢を」

 風。彼女達がいるラハウェリ本営の建物の中に吹き込んできた。穿たれた窓からは、旗が見えている。


 スヴェートが、目覚めた。もう、立ち上がることが出来るくらいに成長しているのだ。もう少しすれば、言葉も話すようになるだろう。父には似ず、やや線の細い子であるが、強い眼の光は、その名スヴェートにぴったりだった。

 目覚めて、母の姿を認め、立ち上がり、たどたどしく歩き始めたが、母の涙に気付き、その歩みを止める。不思議そうに、じっと母の顔を見ている。

「なんでもないのです、スヴェート。わたしは、涙を流していますが、嬉しいのです。あなたの父は、わたし達のために生きたということを、教えてもらっていたのです。だから、心配はありません」

 スヴェートに優しく微笑むライラを、アナスターシャは見つめている。

「最後に、しましょう」

 小さく、憂いのある声で言い、扉に向かって歩きはじめた。

「何を」

「人が死ぬことで生を知り、それを誇りに思い、喜ぶ人は、わたし達で、最後にしましょう」

 ライラが、何か答えようとした。それが言葉になって口から出てくるのを待たず、少し振り返り、また悲しく笑い、アナスターシャは立ち去った。

「何か必要なものがあれば、いつでも。わたしは、あなたとスヴェートのことについて、あらゆる努力をする」

 ラーレもまた、そう言って立ち去った。

 二人が去ってから、スヴェートが母の温もりを求め、ライラの胸に顔を埋めてきた。それを抱きながら、ライラは二人の去った扉をじっと見つめていた。



 彼らは、彼らを、最後の人にしようとしている。

 誰かから、何かを奪う、最後の。何かを奪われる、最後の。

 それを受け入れ、笑うしかない、最後の。

 死は、死。悲しく、冷たく、無機質である。

 その、何が誇りなのだ。

 それを語り、何になるというのだ。

 昼間でも、石造りの廊下は薄暗い。それを踏みながら、アナスターシャは、強い眼で、より大きくなった腹に手をあてがいながら、ゆく。

 遠くで、音。

 それはたちまちのうちに本営の建物を、世界を包んだ。

 雨が、降っているのだ。

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