二匹の獅子
戦いながら、違和感を覚えている。
なぜ、ナシーヤはここに自分を留め置くのだろう、と。
数を活かして、もっと戦場全体を使うように陣を広げればよいものを、執拗に重装歩兵団を崩そうとちょっかいをかけてばかりいる。
何か、ある。戦いの中で培った勘が、そう訴えかけている。それを確かめようにも、眼の前にひしめき合う敵の歩兵と騎馬隊をどうにかしなければならない。
突破口。それを、探している。どこか一点を打てば、全体に響くような場所を。次々と突き出されてくる槍や剣に打たれながら、ルスランは分厚い兜の奥からそれを見ている。
じっと固まり、針鼠のようになって、武器を突き出す。そうして、機が来るのを待つ。それが、今出来る唯一のこと。
苛立てば、負ける。動けば、崩れる。だから、じっと待つのだ。突破口が見えるその瞬間を。
それは、不意に訪れる。ルスランを援護するために敵の集団に突き掛かっては離れを繰り返しているラーレの隊が、ほんの少しだけ敵に間隙を作った。それが出来れば、敵は自然とそれを埋めようと動く。
運動の方向が、変わった。
「どけ」
傍らの兵を押しのけ、ルスランが、一歩、踏み出した。
たった、一歩。
渾身の力で、一歩。それは雨に濡れた地を打ち、飛沫を上げた。
呼吸。
低い位置から振り上げる、
背後で、自らの兵の歓声。それに押されるようにして、さらにもう一歩。
振り切った勢いを使い、身体を回し、さらに振る。
飛び散る敵。これが、機。一気に、この包囲に穴を開ける。
だが、むしろ、ナシーヤ兵の方から、隙間を作った。ぱっかりと割れるように、包囲が開く。
ルスランが、運動を停止した。
その向こうから向かってくるものを、見た。
騎馬隊。包囲しているのとは、別の。
ルスランの歩兵団ほどではないにせよ、分厚い鎧兜を身に着けている。
王家の軍、重装騎馬隊。その将は、ザンチノという名であったはずだ、と何となく思い返した。
馬すら、鎧を着けている。それを用いず軽騎として戦うこともあるらしいが、彼らのほんとうの姿は、これなのだ。
余談ではあるが、馬鎧、あるいは馬甲という馬体を守る防具は世界各地の歴史において見られる。だが、その実用性には疑問の声が多い。馬を保護するためとは言え、その機動力を著しく殺ぐような重い鎧を着けさせては騎馬の意味がなく、それらはただ威厳を示すための飾りであって、儀式や儀礼の際にのみ用いられ、実戦的ではなかった、とするものである。
このときザンチノの騎馬隊が用いていたのは、そのような大層な品ではなく、ある程度の防御力を持たせながら、極力運動を妨げぬようにするような薄手のもので、細い鎖でもって編まれたものであった。
だが、そうであったとしても、その装備の特異なことが与える心理的圧迫感は並ならぬものがある。
武器を握る手が、震えそうなものである。しかし、ルスランの兵は、その圧迫感と恐怖を遥かに凌駕するだけの勢いでもって、それに打ちかかろうとしている。
そうさせるだけの武が、ルスランにはある。
兵が、ルスランの背を追い、自らも獅子となり、狂乱の
自らを阻むものが何であったとしても、ただ進み、打ち砕く。それが、重装歩兵団。
見ていた。
機を。
本当に突くべき、一点を。
それは、僅かな乱れなどではなかった。
向こうから、やってきたのだ。この重装騎馬隊を討てば、戦局に大きな波紋を起こせる。狙わぬ手はない。そして、それが出来る位置に、敵はいるのだ。
鼻息を荒くしながら睨み付けてくる、馬。
自らを踏み倒そうと高らかに、
吸って、鋭く吐いて。
雨が唸る。
その粒に、ライラを見た。スヴェートも見た。戦い、生きて帰り、ライラをまた激しく抱きたい。スヴェートが何にも苛まれず、己の求めるものを求めてゆける国が欲しい。そうして自ら積み上げたものを、さらにその子へと受け継いでほしい。
それが、今、目の前にあるのだ。
そこへ至る道を塞ぐもの。それが、敵。
獅子が、咆哮する。
恐れに。敵に。雨に。天に。地に。それらに向かって、自らの存在を誇示するように。
分厚い鎧が、悲鳴を上げる。続いて、その中にある身体も。肘が、膝が、腰が、背骨が、泣き叫ぶような声を上げる。それに応え、
泥になった土が飛ぶ。
刃の上を滴が滑る。
それが、ふと天と地の間に残った。
鎧ごと、馬を打ち砕いた。
まさしく、
後ろに持って行かれるような腕ごしに、なお前を見て。
二の刃。
今度は、別の馬と、それに跨る兵を砕いた。天から墜ちるはずの滴に、天へと噴き上がる滴が混ざる。
後に続く兵も、呼吸を合わせて大斧を振り、次々と重装騎馬隊を倒してゆく。いける。ルスランの身体が、戦いの呼吸を察していた。
押す。このようなときは、押すに限る。小難しいことは、ペトロに任せればいい。あっと驚くような兵器は、ベアトリーシャ。彼女は、もうこの世に亡い。自分にできるのは、戦いの場において、その流れを打ち砕く岩になること。
ここが、この世の中央。今自分が足を付ける、ここが。
ひときわ豪壮な武装の一人。
敵将、ザンチノ。その姿を認めた。
馬を進めてくる。
ぶつかる瞬間に軌道を逸らせ、打ち付けてくるつもりだ、と思った。
構えたまま、息を整えた。
髪には白いものが増え、皺も多くなった。老いかけている。
しかし、まだこの重い鎧を身につけ、
それに向かって、手を伸ばすような。
そうすることで、敵将から目を逸らさず、その馬の挙動を、斧の軌道を見ることが出来た。
近付くにつれ、敵将の馬がその速度を上げる。
雨すら、視界から消えた。
すれ違う。
重装騎馬隊の動きが、止まった。
雨は、変わらず降り続いている。それが兜を打つ音が、聴こえる。
続いて、歓声。自分の兵の。
首から上が吹き飛んだ馬が、横倒しに倒れた。
残心を示したまま、その身体を、転がる敵将へと向ける。
止めを。
そう思って一歩踏み出した瞬間、敵将が立ち上がる素振りを見せた。
鎧のために、駆けることは出来ない。だから、一歩ずつ、噛むように歩いた。
重装歩兵団の兵が敵将を取り囲み、討ち取ろうとする。
瞬間、雨が飛んだ。
重い鎧を纏った、複数の兵の身体も。
あり得ぬほどの重さ。そして、速さ。動作こそはゆっくりであるが、その刃の速さは、異常なものがある。よほど、自らの身体を知り、上手く使っているものと見える。それに、鍛えに鍛えたはずの重装歩兵団の兵が、棒切れのように打ち倒されている。
「ルスラン!」
ラーレの声。ルスランが穿った穴を広げ、騎馬隊を寄せてきた。双つの剣と馬を巧みに操り、重装騎馬の鎧の隙間を突き、倒している。
「来るな!」
ルスランは、それを制した。来れば、ラーレは死ぬ。
この世の誰にも触れられぬ武があるのだ、と思った。たとえば、ザハールなどもそれを持つ。きっと、ザハールの世界では、時間はゆっくりと流れているのだ。そうとしか思えぬほどに敵の動きによく応じ、一刀で倒す軌道をなぞるように剣を振ることが出来る。ヴィールヒが戦う姿をルスランはアナスターシャを精霊の家から奪ったとき以外に見たことがないが、あの男も別格である。別格であると言うより、ほんとうに人なのか、とたまに疑わしくなる。いつも気怠そうにしている身体は大して大きくもなく、それほど強い肉が付いているわけでもない。ただ、少し足をにじらせただけで、はっとするほどのものを感じることがある。どのようにして槍を振るっているのか、知覚できぬのだ。ほとんど閉じているような眼で、どうやって敵を見ているのかも分からない。おそらく、ヴィールヒは武などというものとは別の次元にいるのだろう。
そのようなことを、考えた。そして、今眼の前で兵を斬り払っている敵将ザンチノもまた、そうなのだろう。
ザンチノの周りに兵がいなくなり、ラーレの騎馬隊も止まり、重装騎馬も静止し、世界にはルスランとザンチノと雨だけになった。
「――やりおる」
息をつき、ザンチノが呟いた。兜が外れて白い髪が垂れ、鎧も壊れている。
「――咄嗟に、身をかわしたか」
ルスランは大斧を地に突き、手甲を外した。露わになった太い指が、兜を外し、そのままするすると鎧を外してゆく。最後、胴を守る部分だけになり、再び斧を手にした。
重い鎧兜は、脅威から命を守る。しかし、それを身に着けていたままでは、あの一撃を凌げない。応じる前に、鎧ごと身体を砕かれる。そう判断したのだ。
一騎討ち。将同士の。同じ雨の中にいる全てのナシーヤ人が、それを見守る。
「よく降る」
見上げ、呟いた。
「そのようだ」
ザンチノも、同じようにした。少し、苦しそうである。どこかを痛めているのかもしれぬ。
「ウラガーン重装歩兵団が長、ルスランと見受ける」
声は、枯れながら、太い。それが投げかける、問い。
「いかにも。王家の軍の、ザンチノだな」
応えて、そして、構え。
「王家、か」
ザンチノは、どういうわけか、苦笑を漏らした。
「そのようなもの、もはや無いわ」
たしかに、そうである。
「あるのは、これから産まれんとする雛。今まさに、殻を破ろうとして」
ルスランは、無言。ただ、斧の握り手を少し確かめた。
「それを阻む龍。思えば、もっと早くに、貴様らを討っておくべきであった」
「それが出来なかった貴様らは、時というものに取り残されているのだ。人は老いる。しかし、あらたな命もまた、産まれる。その中でいつまでも、己だけが壮健であるというわけにはゆかぬ」
ルスランの言葉を受け、ザンチノが笑った。
「貴様に、言われたくはないわ。見れば、私よりも少し若いだけの頃ではないか」
「俺の妻は、もっと若いぞ。子も、ようやく立ち上がることが出来るくらいの歳だ」
ますます、笑った。
「それはよいな」
「お前に、子はあるか」
「ある」
何の話をしているのだ、と思い、ルスランは苦笑した。
「あるが、私のことをどう思っているかは、知らぬ。軍でまだ見習いをしている。十二になる」
不思議なものである。不倶戴天の敵のような互いの身に、親しみのようなものを覚えつつあるのである。互いの命を終わらせるための道具を、その手に握りながら。
「しかし、私の子とは、それだけではない」
ルスランが、訝しい顔をした。
「我が主こそ。口には出せぬが、私は、我が主を、そのように見ていることがある」
確かに、ニコとザンチノでは、親子ほどの歳の開きがある。
「先代に抱えられ身を起こし、その信を受け、仕えてきた。ニコ様がまだ奥方様の腹の中におられるときから、私は見守り、助けてきている」
それが、この男を支えるもの。それを、今、打ち明けている。
「ニコ様を支え、助け、あのお方こそがこの世を導いてゆくと信じ、それを叶える。そのためだけに、私はこの世にある」
「そうか。見上げたもんだ」
ふと、ルスランの口調が、砕けたものになった。
「俺には、難しいことは分からねえ。
「貴様のように生きることが出来れば、また違うものが見えたやもしれんな」
「いいや、同じさ」
ルスランが、少し笑った。
「互いに、賭けるものを握り締め、ここに立った。俺は、ゆく。お前を屍にし、その向こうへ。お前のような男が出てくるのを、待っていた」
「苛烈に攻め立てられ、なお勝機を見る、か。見上げたものだ」
「勝つことしか、考えてねえ」
ルスランの太い腕が、更に膨れ上がった。
「私もまた、貴様を狙っていた。貴様という鎧を崩さねば、その後ろにあるものに手を付けられぬ。横槍を入れられぬよう、騎馬隊を引き出し、足を封じた」
即断。それが、ニコの強みなのだろう。それが実行できるザンチノの戦いの勘と経験に、素直に舌を巻いた。
「倒れろ。貴様を屍にし、その向こうへ。龍を、討つ」
ザンチノもまた同じように、腕を膨れ上がらせた。
「もはや、言葉は不要」
ザンチノが、笑う。暦を長く共にしてきた友に向けるような質の笑いを受け、ルスランもそれを返した。
恐れ。それを乗り越え、刃を。踏み出し、死地へ。その先にある未知のものを。
ぶつかり合う。雷が墜ちたかと思うほどの、激しい音。兵が、声を上げる。
互いの身体が粉々になるほどの衝撃。それは、おそらく、自分が相手に与えようとしたもの。
振り切ったまま、にやりと笑った。
互いの大斧の刃が砕けている。すぐさま、同時に、腰の剣を。
ザンチノは打ち下ろし、ルスランは斬り上げた。
それが雨の中で一瞬光り、互いの力を互いに伝えた。
凄まじい打ち合い。
身体中のあらゆる場所から悲鳴を上げ、奥歯を鳴らし、二人の追いかけた男が血を飛ばした。
薄く斬られ、それを厭わず、斬撃を。剣が入る刹那、勝手に身体がそれを避ける。戦いの場において知らずのうちに身に付けていたものが、命を守る。
ザンチノの鎧は壊れ、ルスランも自ら鎧を捨てた。そうすると、この大男どもが放つ剣は、見えぬほどに速くなった。
見えずともよい。見えずとも、応じることが出来る。
縦一閃。それが、ルスランの顔を通り過ぎた。怯まず、振り下ろした腕の付け根目掛け、斬り上げた。
「――やる。なかなかに」
ぐらりと傾く身体を強く踏みとどまらせ、ザンチノが笑う。脇腹から、激しく出血。
「お前も、やる」
ルスランは、額から右目にかけて傷を受けていた。
命をかけた、一撃。それすら、互いに外れた。
ならば、もう一度。
呼吸が、合わさった。
雨に、混ざった。
同時に、全くの同時に振られた剣が、交わされた。
静止。
二本の刃が、天を目掛けて飛んだ。
斧も壊れ、剣も互いに折れた。
あと、この戦場において使えるものとは、己の肉体のみ。
咆哮。二匹の獅子が、互いの全存在を示す。
ルスランの拳がザンチノの頬を捉え、撃ち抜く。
ルスランもまたザンチノの拳を頬に受けている。
互いに退がり、踏みとどまり、距離を測るようにして、脚。それが交差する天と地の間で、また滴がぱっと散った。
一撃。それだけで、頭蓋を砕くほどの力がある拳。それを、互いにぶつけ合う。
血を飛ばし、互いに、示し合う。
生きるべきは。
求めるべきは。
その答えはない。彼らは、同じものを抱き、同じものを示そうとしているからだ。
それが互いにぶつかり合い、命を削り合う。
息が、上がっている。それも、同じだった。
「――行かせるわけには、いかん」
ルスランが、呼吸を整えるため、口を開いた。
「俺の、後ろへ。そこには、守りたいものがある」
「――同じく、行かせるわけには、ゆかぬ」
ザンチノもまた応じた。
「そこには、奪われてはならぬものが、あるのだ」
雨が地を打つ音と、二人がする激しい呼吸。
血を洗うようにして、立っていた。互いに武器は持たぬが、その構え方は、武器を持つときと同じものであった。
再び、踏み込み。
おそらく、最後の。
武器は無くとも、二匹の獅子は、
互いの拳を、真正面から受けた。
そのまま、止まった。
ゆっくりと、とてもゆっくりとルスランの身体から力が抜け、崩れ落ちた。それを見たザンチノも、膝をついた。
肩で、激しく息をしている。吐き出した血に、歯が混じっている。それが雨に洗われ、白っぽく草の上に浮かんでいる。
「――この男を連れ、退け」
馬上で見守っていたラーレに、声をかけた。一度、剣を交えたことのある将である。
ラーレは静かに馬を寄せて降り、呼吸の止まったルスランの巨体を抱え上げ、馬の背に乗せた。
歳こそ若いが、彼女もまた、戦いの中に生きてきた。だから、知っている。ルスランが死んだ今、この前線は放棄するしかないということを。それをせよ、とザンチノは言う。ルスランへの情か、あるいは、もっと別の狙いがあってのことか。
どちらにしろ、ラーレは、ルスランを放り出し、この将を討ち取る気にはなれなかった。おそらく、剣を軽く突き出せば、この将はそれを避けることも出来ず、あっさりと死ぬだろう。だが、何故か、それは出来なかった。
命を示しながら戦った者の言うことに、従うしかなかった。
ライラとスヴェートに、このことを、何と伝えればよいのか、と思った。だが、伝えてやらねばならない。ルスランが、何のために戦い、何を示し、そして散ったのかを。
前線、崩壊。後方へと退くウラガーンを、王家の軍は追わなかった。ザハールとサンラットを囲んでいた大軍も、退いた。二人はすぐさまラーレとルスランの隊の生き残りの回収に向かい、それを収容し、後方へと退いた。
ルスランは、死んだ。ウラガーンが取る正攻法の要というべき重装歩兵団もザンチノの軍との激突によって激しく損耗し、戦局が、大きく動いた。動けば動くほど、戦いというものは、終わりに近付いてゆく。
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