四八九年九月九日、昼の雨に煙る戦場

「サンラット!」

 雨を斬るようにして、漆黒の風が吹いた。それは、騎馬隊であった。戦場の反対側から急行してきた、ザハールの隊。ウラガーンの中でも精鋭である。それが与える衝撃により、ナシーヤ重装騎馬隊の突進が揺れた。

 ザハールの振るう、涙の剣。その軌跡が、泥の中のサンラットには見えた。斬られて散る滴と、尾を引く星のような血によって、それは示されていた。


 あり得ぬほどの武を持つ敵将に、ザハールが打ちかかる。

 サンラットは、はじめ、甘く見た。遅い、と思った。しかし、違った。

 単に、ゆっくりと動いていただけなのだ。この老いた敵将の強さは、速さではない。その膂力。そして、その呼吸を敵の運動に合わせることの出来る、なのだ。

 数多の戦場をくぐり抜けてきた者のみが持つ眼。サンラットの速さを、変幻自在の棒の動きを完全に読み切り、それに気を合わせて打ち落とした敵将が、ザハールに押されている。


 ザハールの剣は、水のようだった。馬を寄せて襲ってくる大斧ヴァラシュカをするりとすり抜け、相手の右側へ右側へとその位置を移し、剣を小さく突き出して動きを封じ続けている。

 どれほど巨大な刃であったとしても、少しでも敵将が殺気を強めれば、即座にそれを擦り上げて斬るつもりらしい。

 そうしながら周囲から襲いかかる他の重装歩兵団を、見もせずに斬っている。

 一人斬ると、隙が生まれる。むしろ、そうして、敵将が斧を振るうのを待っているようだった。それが分かっているから、敵将も、斧を振り回せぬらしい。


「若造、名を聞こう」

 敵将は、やがて、枯れた声で、太く言った。

「我が名は、ザハール」

「やはり、貴様が。ウラガーンにその人ありと言われる、漆黒の星ザハールの剣、しかと見た」

 互いに、馬の足を緩め、止まらせた。

「我が名は、ザンチノ」

「ニコの片腕か。その武、確かに見た。しかし、次に見るとき、それは終わる」

「言いおるわ、若造め」

 ザンチノが、雨を吹き消すように高く笑った。そして、馬首を返す。

「しかし、お前がそれを見ることはない。ここで、お前達は、負けるのだ」

 また、高笑い。

「いいや、負けぬ。このザハールある限り、決して。心せよ、ザンチノ。俺が、境なのだ。生と死を分ける、境なのだ」

「楽しみにしている」


 この時代の戦いには、こういう面もあった。乱戦であったからザハールにもザンチノにも突きかかる兵があったが、一騎打ちともなれば兵はその邪魔をせぬし、将同士が言葉を交わすときは静かに口を閉ざし、それを聴く。


 ザンチノは、重装騎馬隊を連れ、退いた。その去り際、言い残した。

「貴様らがそうでないように、我らもまた、武のみにあらず。あの鉄棒の将——」

 ようやく立ち上がることが出来たサンラットを顎で指し、

「——あの鉄棒の将を救いに来たのは、見上げたものである。しかし、貴様は、ここに来るべきではなかったのだ」

 と言った。


 ここに来るべきではなかった。

 その意味を、考えた。

 それよりも、まず、サンラットである。

「サンラット」

「済まん、ザハール」

「お前ほどの男を、墜とすとは」

 近くで足を止めている自らの馬を呼び、サンラットは再び騎乗した。

「あり得ぬほどの武であった」

「ルスランのような男だったな」

 ザハールは苦笑し、自らの隊の形を整えるべく号令をかけた。バシュトーは、隊形を取りながら戦うことに慣れていない。それぞれがそれぞれの呼吸で馬を駆り、それが衆となって運動し、それはそれで無形の形として強かった。

 そして、この二隊をもってしても、ザンチノをので精一杯であったのだ。


 ザハールの兵が集合しつつある。戻らねば、空いた片方の翼を突かれる。

 ザンチノが去ってゆく向こうには、ルスランを取り囲む歩兵と騎馬隊。さすが、よく耐えているが、身動きの取れぬ状態。それを援護しようとするラーレも、その場に貼り付けられている。このままザハールかサンラットどちらかの隊が突出し、それを助けるべきか、陣を崩さず守るべきか。


 ペトロがナシーヤの放ってくる馬群への対策として、穴を用いることを提案し、それは本隊の後方に仕掛けられた。しかし、どうやら、このままではそれも万一の備えで終わりそうであった。

 それでよいのだ。あれをまた用いるということは、両軍に十分な間隙があり、それを放てるだけの時間的猶予があるということである。それは、何かしらの理由により、ウラガーンが後退している状態であることを意味する。


 思念が、破られた。

 戦場に、気が満ちている。振り続ける雨の粒が、墜ちるその前に、振動するような。それを、ザハールもサンラットも、肌で感じた。

 騎馬隊。

 退いたザンチノの隊と入れ替わるようにして、夥しい数の騎馬隊が。

 それが、世を埋め尽くす雨のように迫ってくる。まだ、遠い。しかし、両側から挟み込むようにして、迫ってくる。

「——連弩を」

 今日、まだ一度も使っていないそれを、ザハールの隊の者も、バシュトーも、それぞれ鞍から外し、手にした。

 押し包まれる。彼らは、ここで、討つつもりなのだ、と思った。そのためにザンチノは出、ザハールとサンラットを同じ場所に引き出したのだ、と。


 やられた。

 武だけではない戦い。これが、そうか。そう思うより先に、馬腹を蹴っていた。もし、ザンチノの言うことが本当だとしたら、彼の、いや、その背後にあるニコの狙いはそれだけに留まらぬはずである。


 この広大な原野全体が、生き物のように蠢いている。それをするのは、 両軍の兵の一人ひとり。その中で、ザハールは、見た。ザンチノが狙っている、ほんとうの目標を。

 彼は、退いたのではない。向かったのだ。彼が、討たんとしている者の方へと。ザハールもサンラットも、包み込むように迫ってくる無数の騎馬隊のために、それを追うことは出来ない。

 耐えろ。耐えてくれ。

 そう心の中で強く思い、連弩に弾倉を取り付けた。




 戦場の後方からは、全体がよく見えた。

「サンラット!」

 無論、その個人の姿を認めるには遠く、アナスターシャには誰が誰なのか分からない。ただ、雨で煙る原野に、人が、馬がひしめき合い、混ざっているのが見える。返して言えば、それほどまでに前線を押し出して布陣しているということである。

 ザンチノの隊とサンラットの隊が混ざったとき、アナスターシャは思わず声を上げていた。

「ザンチノが、出たな」

 雨に濡れた旗から墜ちる滴を避けるために、軍装の上から羽織った外套のフードを深く被り、サヴェフが呟く。まるで、それを待っていたかのような口ぶり。

 そこへ漆黒の流星が駆け付け、窮地は流れたらしいことを見て取り、アナスターシャは深く息をついた。そして、ナシーヤ騎馬隊が、退いてゆく。

「——

 何が、来たのか。アナスターシャは、サヴェフを見た。そのフードの奥の眼は眠ったようになりながら、戦場をただ遠望している。


 ほんとうに、来た。雨霞の向こうから、騎馬の大軍が。

「ザハール!」

 アナスターシャは、我が愛する人がそれに呑み込まれてゆくのを見、声を上げた。

「サヴェフ、ザハールが」

 思わずサヴェフの袖を引き、言った。

「案ずるな」

 サヴェフは、静かに答えた。それを受けて、アナスターシャもやや落ち着いた。

 そうだ、案ずることはないのだ。ザハールが、死ぬはずがない。この世の誰と向き合ったとしても、ザハールは勝つだろう。そして、必ず、戻って来る。そう信じている。

 サヴェフもまた同じ考えであることを期待して、再びそのフードの奥に視線をやった。

「もうすぐだ」

 もうすぐ、ザハールが包囲を破り、飛び出してくる。それを期待した。しかし、サヴェフの眼は、その乱戦にはなかった。ナシーヤ騎馬隊がザハールとサンラットを包囲している、その向こうに注がれていた。


「工兵隊」

 ベアトリーシャ亡きあとの工兵隊を指揮している者を呼んだ。

「準備を、しておけ」

「はっ」

 何の準備をするのか。この雨に煙る乱戦の中で、攻城兵器がどう役に立つと言うのか。アナスターシャには、分かるはずもない。

「——退く準備を、させた方がいいのか」

 ずっと黙っていたペトロも、声を発した。それに、サヴェフは頷いた。

 どこに退くと言うのか。今まさにザハールとサンラットは敵の包囲を受け、ルスランとラーレもまた最前線にいるのに。

 アナスターシャは、戦いについての意見を差し挟むことはない。ただ、腹を雨から庇うように、手を添えるのみである。

 ただ、その眼は激しい光を帯びている。もし、ザハールを見捨てて退くというような命令をサヴェフが下すならば、殺してでもそれを止める。そう思い定めた。

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